サムエル記下13:20‐39
今日は13章の後半をお読みします。13章は次のような言葉から始まりました。「その後、こういうことがあった。ダビデの子アブサロムにタマルという美しい妹がいた。ダビデの子アムノンはタマルを愛していた」(1節)。そのタマルを我がものとするために、アムノンは仮病を使います。父ダビデが見舞いに来たときに、アムノンは「妹タマルをよこしてください」と願いました。ダビデに言われるままにタマルがアムノンの家に来ると、そばにいた者を出て行かせ、アムノンはタマルを捕らえて力ずくで床を共にします。
それはアムノンの従兄弟であり友人でもあったヨナダブの入れ知恵でした。この「ヨナダブ」の名を覚えておいてください。後で出て来ます。アムノンは自らの思いを遂げるとタマルを憎悪し家から追い出しました。タマルは上着を引き裂き、嘆きながら歩いて帰ります。そして、兄アブサロムのもとに身を寄せたのでした。ここまでが先週読んだところです。
さて、今日の箇所の内容に入る前に、この事件に対する人々の対処の仕方を見ておきましょう。タマルが犯されたことを知った実の兄であるアブサロムは、彼女にこう言いました。「今は何も言うな」。これは《事件を公にするな》ということです。アブサロム自身、アムノンに抗議することも、王に訴え出ることもしませんでした。「アブサロムはアムノンに対して、いいとも悪いとも一切語らなかった」(22節)のです。表面的に見るならば、タマルもアブサロムも、アムノンの罪を不問に付したのでした。
一方、この事件は当然のことながらダビデの耳にも入りました。父であるダビデはどうしたでしょうか。「ダビデ王は事の一部始終を聞き、激しく怒った」(21節)と書かれています。しかし、驚いたことに、ここにはアムノンの罪を処罰したとは書かれていないのです。
実は、私たちが読んでいるのはヘブライ語で書かれた聖書底本からの翻訳なのですが、ギリシア語訳旧約聖書(七十人訳)では、「激しく怒った」の後に、次のような言葉が加えられているのです。「しかし、彼の息子の魂を悲しませることはしなかった。彼が長子であり、彼を愛していたからである」。細かい話は割愛しますが、恐らくこれが本来の読みであったものと考えられます。
要するにダビデはあくまでもこの件を内密にしたのです。宮廷の中だけに留めたのです。息子アムノンの罪は、明らかに律法違反なのです。しかし、ダビデは息子を律法違反として公に裁くことはしませんでした。アムノンが長子であり、王位継承第一位にあったことはダビデにとって大きなことだったのでしょう。さらに言えば、王家のスキャンダルはようやく統一された国家を不安定にしかねい。そのような懸念もあったことでしょう。このような理由から身内の罪の隠蔽が起こることは、今も昔も変わりません。
そして、今日の箇所に入ると、「それから二年たった」とだけ記されているのです。この間のことが全く抜け落ちている。聖書は沈黙しているのです。それは、アムノンの罪が、結局覆い隠されたままであり、人々の記憶からも消えていったことを示しているのです。
そんなある日、アブサロムは、エルサレムから20キロほど離れたバアル・ハツォルにおいて、羊の毛を刈る季節の祝宴を催します。それは農業で言えば収穫祭に当たります。大々的に行われるのです。アブサロムは王子全員を招待し、ダビデ王と家臣をも招待しました。ダビデ王はアブサロムの負担になることを好まず辞退します。そこで、アブサロムはアムノンを代理として同行させてくれるよう願います。このようなやりとりから、この時点でアムノンは王子たちの中で別格の扱いを受けていたことが分かります。ダビデはアムノンを同行させることを承諾しました。
さて、私たちはアムノンが実際にアブサロムの招待を受けて、平気で祝宴に参加していることに驚きを覚えます。しかも、アブサロムは従者にこう命じていたのです。「いいか。アムノンが酒に酔って上機嫌になったとき、わたしがアムノンを討てと命じたら、アムノンを殺せ」(28節)。そして、実際そのことが実行された。ということは、アムノンは酒を飲んで上機嫌になっていたということです。
これは驚くべきことではありませんか。アムノンは恐らくタマルにも兄であるアブサロムにも謝罪することはなかったでしょう。しかし、特に自分自身の罪が取りざたされることのない二年間を経て、アムノンにとって「あの出来事」はもう既に終わったことになっていたのです。
しかし、この聖書箇所に記されている悲劇は、一つのことをはっきりと示しています。人間の罪というものが、人々の目から隠されても、人々の記憶からは失われても、何事もなかったかのように以前の状態が続いていたとしても、依然として残っているのだということです。なぜなら、もともと問題は単に人と人との間のことではないからです。アムノンが神の律法に背いた行為が問題なのです。
すなわち、これは神と人との間のことなのです。罪というのは、そもそもそういうものなのです。神と人との話なのです。しかし、ダビデもアブサロムもタマルも、そしてアムノン自身も、この罪を神の御前に出すことはしなかったのです。神の言葉のもとに置くことをしなかったのです。要するに、この13章に登場する人物は誰一人として、これが神に対する罪であることを認識していないのです。
ついにアムノンの罪は、「神に対する背き」として明らかにされることはありませんでした。罪は神の御前で明らかにされ、神の御前で悔い改められ、神の御前で赦しが与えられ、神の御前において和解がなされなければならないのです。もしそうでなければ、問題は未来に持ち越されます。そして、事実そうなりました。
アブサロムは、結局、復讐としてアムノンを殺害することになりました。罪は神の律法への違反として考えられないならば、ただ人と人との間の憎しみしか産み出しません。そして、結局恨みを晴らすという仕方でしか処理されません。アブサロムが、最後まで罪に対する神の裁きを考えられなかったことは、彼の言葉から分かります。「これはわたしが命令するのだ。勇気を持て。勇敢な者となれ」(28節)。強調されているのは「わたし」です。命じているのは神ではありません。
こうしてアブサロムの復讐は果たされました。しかし、彼は母方の祖父であるゲシュルの王タルマイのもとに亡命します。これはダビデとの決定的な亀裂の発端となりました。そして、この結末は彼自身の滅びとなるのです。憎しみと怒りによって罪を処理しようとするならば、自らの滅びを招くことになるのです。
一方、アムノンの悲劇は、ただ殺害されたということではありません。ここに再びヨナダブが登場します。ここで私たちは驚くべき発言を耳にするのです。アムノンが殺害された時、彼は明らかにバアル・ハツォルの祝宴に参加してはおりませんでした。彼はダビデと共に事件の第一報を聞くことになります。それはアブサロムが王子たちを皆殺しにしたという誤ったニュースでした。
ダビデはそれを聞いて衣を裂きます。しかし、ヨナダブが言うのです。「殺されたのはアムノン一人です。アブサロムは妹タマルが辱めを受けたあの日以来、これを決めていたのです」と。彼はアムノン一人が殺されたことを強調します。実際に王子たちが帰って来るのはその後です。何を意味しますか?ヨナダブがアムノン殺害の計画を事前に知っていたということでしょう。あるいは少なくともそれを予測できたということでしょう。ヨナダブはこの章の始めにはアムノンの友として登場したのではなかったでしょうか!
アムノンはダビデの長男としてその寵愛を一身に集めて育ちました。欲しいものはすべて手に入れてきたことでしょう。そして、異母姉妹であるタマルをも手に入れ、欲しくなくなったら捨てることもできました。その罪を問う者は誰もいませんでした。自分自身、そのために罪責感に苦しむ必要もありませんでした。何もなかったかのように生活できたのです。さて、彼は幸いな人だったでしょうか。そうではありません。彼は最終的に孤独の内に、友にも見捨てられた者として、身内の手によって殺害され、死んで行ったのです。これが彼の一生でした。
人間に必要なことは処罰から逃れることでも罪の意識から逃れることでもありません。罪が不問に付され、罪が罪として認識されないということは、決して幸いなことではないのです。人に必要なのは罪からの救いです。神との関係、そして人との関係が神の救いの恵みによって回復されることなのです。そのためにキリストは来られたのです。