サムエル記下 10:1-19
この章はダビデの王国とアンモン人および援軍に入ったアラム人との戦いを伝えている章です。この章は前後の章と深いつながりがあり、その関連を意識して読む必要があります。この10章と前の9章とを結びつけるのは「忠実」と訳されている「ヘセド」という言葉です。「その後、アンモン人の王が死に、その子ハヌンが代わって王となった。ダビデは、『ハヌンの父ナハシュがわたしに忠実であったのだから、わたしもその子ハヌンに忠実であるべきだ』と言って、使節を遣わして哀悼の意を表そうとした」(1‐2節)。
先週申し上げたことを思い起こしていただきたいのですが、この語は「慈しみ」とも訳せます。「慈しみ」という言葉が結びつくのは第一には主なる神です。主が慈しみを示された。それはイスラエルが慈しみに価するからではなく、ただ主が約束に忠実であられたからです。その主がしてくださったように人に対して行う。それが慈しみの原意です。
前章では、ダビデは亡きヨナタンのゆえに、その子メフィボシェトに慈しみを示しました。メフィボシェトは、ダビデの忠実と慈しみを感謝をもって受け取りました。それと同じように、この章では、ダビデが亡くなったアンモン人の王ナハシュとの関係のゆえに、その子ハヌンに忠実と慈しみを示そうとします。しかし、前の章とは対照的なことが起こります。そのナハシュの息子ハヌンは、ダビデの忠実と慈しみを斥けるのです。
また、この章は後の章と深いつながりにあります。この対アンモン戦争が、11章に記されている「バト・シェバ事件」の背景となっているのです。ダビデがアンモンと戦い勝利を得た時というのは、いわばダビデが最も勢力を拡大した時であり、彼の治世の絶頂期に当たるのです。しかし、まさにその頂点にいた時に、ダビデは恐るべき罪を犯してしまうのです。その結果、外なる敵を支配し得たダビデ王家は、なんとその内側から崩れ始めてしまうのです。ですので、この章に記されている勝利は、次の章の出来事に続くものとして読まねばならないのです。
さて、イスラエルとアンモンとの関係を考えるには、サムエル記上11章まで遡る必要があります。そこにはアンモン人の王ナハシュが攻め上り、ギレアドのヤベシュを包囲した時のことが記されておりました。アンモンにとってヨルダン川と自国の間にあるギレアドは常に支配下に欲しい地であったものと思われます。しかし、この時、サウルが立ち上がり、アンモン人の陣営に奇襲攻撃をかけ、決定的な勝利をおさめます。「翌日、サウルは民を三つの組に分け、朝の見張りの時刻にアンモン人の陣営に突入し、日盛りのころまで彼らを討った。生き残った者はちりぢりになり、二人一緒に生き残った者はいなかった」(サムエル上11:11)。そして、この勝利こそが、サウルが王となる直接的要因となったのでした。
この後、アンモンはイスラエルに従属する形で和平を保っていたものと思われます。また、既に見てきたようにサウルに追われていた時代からダビデ自身はペリシテやモアブと極めて良好な関係を作り出していましたし、同じようにアンモンの王ナハシュとも極めて良好な関係にあったものと思われます。アンモン人とダビデは直接戦ってはおりませんし、サウル家に敵対しているものと思われた有力な武将であるダビデとの関係を親密に保つことは、アンモンにとっても非常に望ましいことだったに違いありません。それが「ハヌンの父ナハシュがわたしに忠実であったのだから、わたしもその子ハヌンに忠実であるべきだ」という言葉の背景です。
ところが、ダビデがナハシュ王の死に際して、哀悼の意を表そうと使節団を遣わした時に一つの事件が起こります。彼らがスパイ疑惑のゆえに拘束され、甚だしい辱めを受けた末に送り返されるのです。
これを単に偶発的な事件と見ることは恐らく正しくないでしょう。このことの原因となったのはアンモン人の高官たちであったことを聖書は伝えています(3節)。明らかに高官たちはナハシュの時代には絶対にしなかったようなことをハヌンに対してしているのです。つまり、このことは大きな政策転換がアンモン王国に起こっていることを示しているのです。支配者の世代交代によって大きな政策転換が起こるのは世の常です。ここで起こっているのは、それまでナハシュによって押さえられてきた宮廷内タカ派の台頭です。
この事件が起こるべくして起こったことは、6節以下でかなりの広範囲に渡るアラム人の諸都市から傭兵を得ていることからも分かります。このようなことはすぐにはできません。それまでの外交によるかなりの準備が必要です。ハヌンと高官たちは時間をかけてユーフラテスにまで広がるアラム人の支援を取り付けてきた。そして、ついに王が死にました。彼らからすれば、ついに「時が満ちた」のです。この事件は、いわば和平推進派を押さえた高官たちによる事実上の宣戦布告です。
ハヌンはどうして父ナハシュと同じ道を進むことができなかったのでしょうか。イスラエルに従属したまま、そしてギレアドを支配できぬまま、ヘブロンの王となったダビデと親密な関係を保っている父親の姿は、年若いハナンからすればなんとも情けない姿に映ったのかもしれません。しかし、いずれにせよアラムとの関わりにおいて軍事的にも力を持ち始めたハヌンの慢心がそこにあったと言えるっでしょう。
実際、今日の箇所を見ましても、戦いにおいて彼らは戦略的にかなり優位に立っていたのです。ヨアブの軍隊はエルサレムから首都のラバ(今日のアンマン)に向かったものと思われます。しかし、彼らはラバ南方の草原地帯(8節の「野」)に配備されていたアラム兵とラバから迎え撃ったアンモン兵の挟み撃ちに遭うのです。これはヨアブの大きな誤算でした。通常、このような体勢となったら絶体絶命です。
ヨアブはそこで大きな決断を下します。軍隊を二分したのです。「ヨアブは戦線が前方と後方にあるのを見て、イスラエルの全精鋭から兵をえりすぐり、アラム軍に向かって戦列を整え、残りの兵士を兄弟アビシャイの指揮にゆだねて、アンモン軍に向かって戦列を整えさせた」(9‐10節)。軍隊を二分することは一歩間違えば自殺行為となりかねません。いわば最後の手段です。
そこには最終的な結果を主にゆだねた信仰的な決断があったことを聖書は伝えます。「我らの民のため、我らの神の町々のため、雄々しく戦おう。主が良いと思われることを行ってくださるように」(12節)。そして、驚くべきことに、アンモン軍もアラム軍も敗走するという結果となったのです。
「慢心」は滅びをもたらします。慢心はどこから来るかと言えば、それは人間の目に見えることが全てであるという思い上がりから来るのです。これは対極にある「絶望」についても言えます。絶望もまたどこから来るかと言えば、それは人間の目に見えることが全てであると思うところから来る。それもまた傲慢の一つの現れです。
ハヌンと高官たちの企ては、彼らの目には完璧なものと映っていたでしょう。目の前の戦況は圧倒的有利に見えたに違いありません。一方、ヨアブの目に映っていたのはまさに絶望的な状況であったに違いない。しかし、歴史を動かすすべての要因が人間の手の内にあるのではありません。その決定的要因は見えざる御方が持っておられるのです。ヨアブはそのその事実に目を向けて、見えざる御方に信頼しました。一方、その事実を見ていなかったハヌンと高官たちは自らに滅びを招くこととなったのです。
しかし、聖書が本当に語りたいのはアンモン人の問題ではありません。実は本当に語りたいのは、この勝利によってアラム人の地にまで支配を広げたダビデの問題なのです。聖書はあえてこの勝利において、ヨアブやアビシャイの信仰的な姿を強調します。聖書は常に彼らをそのように描いているわけではありません。しかし、ここではそれが重要なのです。なぜなら、それはこの大勝利が「ダビデの勝利」ではないことを鮮明に示すことになるからです。
そうです。これはダビデの勝利ではないのです。しかし、人は他の人々による結果、究極的には神による結果を、あたかも自分が勝ち得た結果であるかのように誤解してしまうのです。自分が何かを成し遂げたかのように思ってしまう。まさにダビデがそのように思い上がった時に、彼は深い落とし穴に落ち込むことになるのです。それが続く11章の伝えている出来事なのです。