2026年4月8日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 7:1~29

 サムエル記下 7:1-29

 エブス人の町エルサレムがイスラエルによって征服されて、統一国家の都として確立された時、ダビデが思い立ったのはエルサレムに神の箱を移すことでした。神の箱がダビデの町に運び上げられる時、ダビデが主の御前で跳ね躍って喜び迎えたことが6章に記されています。

 既にエルサレムには神の箱が安置されるべき天幕が用意されていました。かつて荒れ野を旅していた時のように、また、シロに聖所があった時のように、定められた仕方で建て上げられた「臨在の幕屋」と呼ばれる天幕です。神の箱がそこに安置されると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげました。――こうして、神の箱は紀元前6世紀にユダが滅亡するまで、エルサレムに留まることとなるのです。

 さて、7章に入りますと、神の箱のために天幕を張ったダビデが、天幕に代えて神殿の建設を思い立ったことが記されています。さらに、ダビデの計画について、神が預言者ナタンの口を通して語られたことが記されています。それらの言葉はこの章のほぼ半分を占めています。

 このように一人の人が長く語るところは、物語全体の主題に関する重要な部分であると以前申し上げました。特に今日の箇所は「ナタン預言」と呼ばれるところで、ヨシュア記から列王記に至るこの壮大な歴史物語全体において、中心的な意味を持つ重要な預言の言葉なのです。

 そこには、この後400年以上続くことになる「ダビデ王朝」という存在が何を意味するのかが明らかにされています。それは裏を返すなら、ダビデ王朝が紀元前6世紀に形の上では滅びることになる時、すなわち、王国が崩壊し、神殿が破壊された時に、いったい何が問題であったかを指し示す言葉ともなるのです。

 しかし、もう一方において、ダビデ王朝が滅びた時、このナタン預言は大きな希望の拠り所ともなったのです。そこには、神御自身がダビデの王座を堅く据えると約束されているからです。そして、さらに言うならば、その約束があったからこそ、ダビデの裔であるメシア(キリスト)が到来したのです。その意味で、メシアの到来を信じている私たちにとっても、このナタンの預言は大きな意味を持っていると言えるでしょう。

 それでは物語に目を移しましょう。ダビデは預言者ナタンに神殿の建設について相談しました。その背景にあったのは、ダビデがエルサレムを征服するや、いち早くティルスの王ヒラムがレバノン杉や木工、石工を送って、ダビデの王宮を建てたことにあります。5章11節以下に書かれていました。

 それゆえ、ダビデは言うのです。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ」と。確かに言われてみれば、いかにも主が粗末に扱われているように見えなくもない。ナタンはダビデの計画を良きことと見て、それに同意します。「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう」。しかし、その夜、主の言葉が臨みます。それが5節以下の言葉です。

 ここでまず注目すべきは、「家」と「天幕」、「住む」と「歩む」という言葉の対比です。ダビデは神のために「住むべき家」を建てようとしたのです。家と天幕の違いは移動性です。神の箱が「天幕」に置かれていたのは、イスラエルがカナンの地に定住する前、荒れ野を旅して移動していた時代の名残です。

 既にイスラエルがカナンの地に入り定住するようになって百年以上も経過しています。王国の首都もエルサレムと定められてもはや移動することはありません。そこに王宮も建てられております。当然、聖所が移動式の天幕である必要もありません。ダビデが「天幕」ではなく「家」を建てようとしたことは自然であると言えるでしょう。

 しかし、神の箱が天幕に置かれていたことは、かつての時代の名残であるだけでなく、イスラエルの神がいかなる方であるかという本質的なことを指し示していたのです。ダビデはまずそのことを知らされる必要がありました。それはイスラエルの神は「共に歩まれる神」なのだということです。「わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが」(7節)と書かれているとおりです。

 このことは、彼らがカナンの地に定住するようになったからこそ、語られねばなりませんでした。なぜなら、カナンの地にはもともとバアルを礼拝する土着の宗教が存在していたからです。バアルは「主人」という意味です。それは土地の女神アシュタロトの夫です。地の作物はバアルによるアシュタロトの出産と考えられておりました。このようにバアルは土地と結びついた豊作の神なのです。

 それに対して、イスラエルの神である主はそうではありません。主は土地の神ではなくて、人と結びついている神、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」なのです。神は土地にではなく、人生と関わり、民の生活と関わっているのです。イスラエルが主の幕屋と共に荒れ野を旅をしていた時には、そのことが実に明瞭でありました。

 しかし、カナンへの定住と共に、その関係は見えにくくなったのです。神と民との関係が、バアルと土地との関係にとって代わられる危険がありました。そうなった時には、神はただ豊作をもたらすためだけの存在となるのです。もはや「共に生きる神」「共に歩む神」ではなくなってしまうのです。実際、彼らはそのようなバアル化の強烈な影響のもとに置かれてきたのです。

 それゆえに、王が神殿を建てることを思い立った時、ダビデはまず、神の箱が幕屋に置かれてきた意味を改めて教えられなくてはならなかったのです。確かに後の時代に、神殿は建てられることになります。しかし、それでもなお、神が幕屋を住まいとしていたことの意味そのものは、後の時代においても決して忘れられてはならなかったのです。

 そして、さらに預言は「わたしの僕ダビデに告げよ」(8節)と続きます。ダビデが神のために神殿を建てようとしていたときに、むしろ神がダビデのために家を興すと語り始めます。ここで注目すべき言葉は数多く繰り返される「わたし」という言葉です。ダビデが王であるのはなぜか。彼は羊飼いだったのです。その彼を主が「牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした」のです。

 ここにおいて、これまでの物語において、ダビデの王座獲得がクーデターではなかったという事実が重要になります。それは神の恵みと選びによるのです。神がこれまでダビデと共に歩んでくださったように、これからも「わたしは共にいる」と言ってくださることによって成り立つ。それがダビデ王朝なのです。

 それゆえにダビデ王朝の存在は、王国が何によって成り立つのかを示す「しるし」でもあるのです。王国を揺るぎないものとするのは人間ではなく神御自身なのです。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(16節)と語られているとおりです。

 もしダビデ王家が、またその王国が、神殿を建てるように人間がその力をもって建てたものならば、それを支える人の力が失われた時に崩壊することになるでしょう。国家は国力が失われることによって崩壊することになるのです。

 しかし、ダビデの王国はそうではないのです。これは神が建てたものであり、神の恵みによって成るものなのです。ならば、もし崩壊するとするならば、それは人間が力を失った時ではなくて、人間が神との間に正しい関係を失った時なのです。すなわち、人間が神の恵みを恵みとして受け取らなくなった時なのです。

 ですから、ダビデにとって第一に大切なことは神のために何を為しえるかということではありませんでした。神の恵みを恵みとしてしっかりと受け止めることだったのです。

 18節以下において、ダビデは主の御前において祈ります。そこで語られていることは、もはや「わたしはあなたのために何かを成し遂げましょう」ということではありません。彼は神の御業を自分の言葉で語り直します。そして、その御業を誉め称えるのです。

 また神の言葉の真実に依り頼んで、「主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください」(25節)と語るのです。ここでダビデがしていることは、いわば彼の信仰告白なのです。

 私たちが信仰告白を唱える時にも、そこで為されていることは基本的には同じです。私たちが礼拝においてする第一のことは、神に対する決意表明ではありません。神の恵みを恵みとして受け止め、神の恵みの御業を自分の口をもって語ることなのです。ダビデの王国がそうであったように、教会もまたその信仰告白の上に成り立つものだからです。


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