2025年4月6日日曜日

「神の霊が宿っているのだから」

2025年4月6日 主日礼拝

聖書:ローマの信徒への手紙 8:1-11

 本日の第2朗読には二通りの人が出てきました。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」。それは二通りの生き方、と言ってもよいかもしれません。人は「肉に従って」生きることもできますし、「霊に従って」生きることもできるのです。

肉の支配下にある者
 「肉に従って歩む者」という表現は、私たちの日常においては使われません。これは聖書における独特の表現です。しかし、「肉」という言葉から連想されるのは「肉欲」という言葉でしょう。なので、「肉に従って歩む者」と聞いたら肉欲に振り回されて放縦な生活をしている人を想像する人がいるかもしれません。不道徳なだらしない人を思い描く人もいることでしょう。

 しかし、「肉に従って歩む者」と言う時、第一に念頭においているのは、恐らくはこの手紙を書いているパウロ自身のかつての姿なのです。それは7章と8章を続けて読むと分かります。今日はお読みしませんでしたが、例えば7章にはこのような言葉が出てきます。「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(7:14‐15)。明らかにパウロは自分自身の経験を念頭に置いて「肉の人」について語っているのです。

 そうしますと、「肉に従って歩む者」とは単に不道徳なだらしのない人のことではありません。というのもパウロは恐らくここにいる私たちの誰よりも道徳的に真面目に生きてきた人であったからです。しかし、彼もまた「肉に従って歩む者」だったのです。では「肉に従って歩む者」とは何を意味するのでしょう。

 パウロはファリサイ派に属するユダヤ人でした。彼にとって宗教とは、神の律法を学び、神の前に正しい人間となり、救いを獲得し永遠の命に至ることでした。そのような理解は私たちにも馴染みがあります。この国においても、宗教の中心は善い教えを学び、正しい生き方を身につけることあると考える人は、恐らく少なくはないでしょう。

 あるいは、宗教の目的を道徳的行為に見るのではなく、精神的な強さや心の平安に見る人もいるでしょう。何が起ころうとも揺るがない精神力を持つこと、あるいは悩み多きこの世界において心の平安を得ること。そのために宗教は大きな意味を持っていると考える人もまた少なくないことでしょう。

 そのように、宗教について考える時、ある人は重点を人間の行為に置き、ある人は重点を人間の心理的な状態に置くかもしれません。そして、この二つは異なるように見えて、実は共通しているものがあるのです。それは「人間の」ということです。行為にせよ心の状態にせよ、どちらにしても人間のことが関心の中心にあるということです。言い換えるならば関心の中心には「わたし」がいるということです。

 分かりますでしょう。これが「肉に従って歩む者は、肉に属することを考える」ということなのです。「肉に属することを考える」ということは、言い換えるなら「神に属すること、霊に属することは考えない」ということです。関心がない。神御自身、神の御業、神の霊の働きには関心がないということです。

 これに対して、「霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」とパウロは言います。霊に従って歩む者は、こちら側に目を向け続けるのではなく、あちら側に目を向けます。霊に従って歩む者は、神御自身に関心を向けます。神はどのような御方であるか。神が何をしてくださったか。神が何をしてくださっているか。神が何をしてくださろうとしているのか。神は何を望んでおられるのか。そのように、神様御自身に関心が向けられます。「霊に属することを考える」とは、そういうことです。

 そのように「肉に従って歩む者は、肉に属することを考える」「霊に従って歩む者は、霊に属することを考える」という二通りの生き方について語り、さらにこう続けます。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」(6‐8節)。

 肉に属することを考え、肉に従って歩むということは、先にも申しましたように、それ自体は必ずしも不道徳なことを意味しません。一般的に言いまして、それは極めて真面目な営みとも見えるのです。「私の努力」「私の精進」「私の向上」「私の心の変化」に関心を向け、すべては「人間の努力次第だ」と考えることは、悪いことには思えないでしょう。神様について語られるよりも、「すべてはあなたの努力次第ですよ」と言われる方が正しいように聞こえるものではありませんか。

 しかし、それこそまさに「肉の思い」なのです。そして、そのように考えている人は、神に喜ばれることはできない。いやむしろ神に敵対しているのだ、と言われているのです。神の御心にかなわないのです。それは一見神の律法に従っているように見えても、実は従っていないのだと言うのです。

霊の支配下にある者
 神が望んでおられるのは、私たちが肉に属することを考え、人間の方に向いて、自分の方を向いて「すべては自分の努力次第だ」「すべては人間の努力次第だ」と言って生きることではなく、「霊に従って歩む者」として生きることなのです。すなわち霊に属すること、神に思いを向け、神の御業を考えて生き、神と共に生きることなのです。

 そこでパウロはさらに次のように語ります。9節以下をご覧ください。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(9‐11節)。

 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」とパウロは言います。これは「神の霊がもし宿っているとするならば…」と言う意味ではありません。ここはむしろ「神の霊があなたがたの内に宿っているので」と訳してもよい言葉です。キリスト者として生きるということは、神の霊を宿した者として生きることです。パウロはまずその事実に目を向けさせるのです。

 パウロは一方において、私たちがこの世に生きる人間である限り肉の内には罪が住んでいると語ります(7:18‐20)。しかし、もはやただ罪が住んでいるだけではありません。神の霊が宿っていてくださるのです。そして、神の霊が宿っているかぎり、肉ではなく霊の支配下にあるのです。それゆえ、罪との戦いは継続しているにしても、「すべては私の努力次第」と言って、孤軍奮闘している者のように生きる必要はないのです。

 そして、神の霊が宿っているという事実について幾つかの言い換えがなされています。「神の霊」が「キリストの霊」と言い換えられています。さらに、「キリストがあなたがたの内におられるならば」(10節)と言います。神の霊、すなわちキリストの霊が宿っているということころに、キリストが現臨されます。いわば復活のキリストが内に住んでくださるということです。

 もちろん、キリストが内に住んでくださると言いましても、罪が無くなってしまったわけではありませんから、死もあるわけです。神の霊に敵対する罪を宿す体ですから、これは死ななくてはなりません。体は死に行く体です。しかし、キリストのおられるところには、キリストを通して与えられた「神の義」があるのです。「神の義」のゆえに、神から切り離された者ではありません。命につながっているのですから、命がそこにあるのです。永遠の命は死後に与えられるのではなく、未だ罪と激しく格闘している現在において、既に与えられているのです。聖霊が与えられていること自体が義によって命となっているのです。

 さらに、神の霊は「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と呼ばれております。この呼び名は、キリストの復活と私たちを結び付けます。キリストは復活され、栄光の姿で弟子たちに現れました。このようにキリストを死者の中から復活させ、栄光の姿を与えられた方の霊が、私たちにも与えられているのです。

 これは何を意味するのでしょう。キリストの栄光の姿は、やがて与えられる私たちの姿でもあるということです。戦いはやがて終わるのです。復活において、私たちの体は、罪からも死からも完全に自由なものとなるのです。

 パウロは、キリストに結ばれた者が聖霊の支配のもとにあることを思い起こさせます。キリストに属する者とされ、神の霊が与えられているということは、最終的に完成するこの救いが、既に始まっていることを意味するのです。そうです。事は始まっているのです。パウロが語っているのは神の御業です。神が完成してくださるのです。私たちはそれゆえ、こちら側にひたすら関心を向けて生きるのではなく、向こう側、神の側に思いを向けて生きるのです。「すべては人間の努力次第だ」と言いながら生きるのではなく、神御自身に、神の御業に思いを向けて生きるのです。

 そこで重要になるのは何か。もう明確ではありませんか。第一は、日々の祈りの生活です。「すべては人間の努力次第だ」という人はそもそも祈りはしないでしょう。それこそがまさに「肉に従って生きること」に他ならないのです。そして、第二は主日毎に共に集まって捧げる主日礼拝です。私たちはそこにおいて、まさにこちら側ではなくて、向こうに、神御自身に思いを向けるのです。その主日礼拝を失うならば、肉に従って生きる生活にならざるを得ないことは明白ではありませんか。そして、第三は今日共に与る聖餐です。私たちはそこでキリストの体と血とにあずかるのです。私たちが何をしたかではなくて、まさに神がキリストを通して成し遂げてくださったことに与るのです。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」。私たちはレントの時を過ごしている今、霊に従って歩む者となるように招かれているのです。

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