サムエル上1章
今日からサムエル記を読み始めます。まずは、サムエル記が直接つながるのは士師記ですから、士師記の最後の部分を読んでおくことにしましょう。士師記の最後は「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師21:25)という言葉によって締めくくられています。これがサムエル記の冒頭の時代背景です。
まだ王国ではありません。その頃治めていたのは士師と呼ばれる人たちです。士師とは「裁きを行う人」というのが原意です。それぞれの地域を治める指導者です。また、外敵の襲来などの危機の時に力を発揮する軍事的な指導者でもあります。そのような人たちが治めていた頃の話です。そのような部族連合とでも呼べるような共同体が、やがて王国となっていくわけです。
後に詳しく見ていくことになりますが、サムエル記は必ずしも王国への移行を肯定的に見ているわけではありません。しかし、では王国でなかった時代を古き良き時代として回顧しているかといえば、そうではないのです。その時代は、「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」と表現されているのです。その一例は、来週お読みすることになる、2章12節以下に描かれている宗教的な荒廃です。士師の時代は、何よりも霊的な暗黒時代として描写されているのです。
そのような霊的暗黒のイスラエルに光り輝く彗星のごとく現れたのがサムエルという人物でした。そのような時代に、何よりも、神に献げられた人物、神に従い、神の御心を行う人物が必要とされたのです。そのような、神に献げられた人サムエルの誕生の次第から、このサムエル記は始まるのです。
それは実に不思議なプロセスでした。しかし、モーセの誕生もそうでしたが、そのようにして歴史の中に登場する人物は聖書において珍しいわけではありません。実に神の計画は私たちの思いをはるかに越えていて、その時点では全く理解不可能な仕方で進められていくのです。そのようなサムエルの誕生の仕方は、このサムエル記全体を指し示しているような出来事であるとも言えます。人間の罪の現実は確かにある。しかし、そこに神の御心が貫かれ、神の支配が人間の思いを超えた仕方で実現していくのです。
神がサムエルを誕生させるために選ばれたのは、エルカナの妻ハンナでした。「エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった」(2節)。当時、一夫多妻は決して珍しいことではありませんでした。しかし、この習慣は家庭内にあらゆる不幸をもたらすことが常でした。特に妻たちの間の争いは熾烈です。旧約聖書にはしばしばこの争いについて記されております。ハンナとペニナの間にも争いがありました。その争いはハンナにとって、まことに不利でした。子供がいなかったからです。
しかし、ペニナは単に「わたしと彼との間には子供がいるのよ。あなたと彼との間には子供がいないじゃない」と言って苦しめたのではありません。あるいは「跡継ぎになるのはわたしの子なのよ」と言って苦しめたのでもありません。聖書には何と書かれているでしょう。「彼女を敵と見るペニナは、《主が子供をお授けにならないことで》ハンナを思い悩ませ、苦しめた」(6節)と書かれているのです。
つまりハンナの苦しみは、「主がお授けにならない」というところにあったのです。ですから、特にペニナがハンナを悩ましたのは年ごとに主の宮に上る時であったのです。「あなたは神様から見放されているのよ。だから子供が生まれないのでしょう。そんなあなたが主の宮に行ってどうなるの。」――ペニナはそう言ってハンナを苦しめたのだと思います。今の私たちからすれば、「そんな馬鹿なこと」と思いますが、残念ながらそれが当時の一般的な理解でしたから、ハンナとしてはペニナに返す言葉がありません。「毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ」(7節)。ここにハンナの苦悩がいかに深かったかがうかがわれます。
ところが、そのような彼女にひとつの転機が訪れます。子供が産まれたということではありません。聖書には、単純に「ハンナは立ち上がった」(9節)と書かれております。何のために立ち上がったのでしょう。祈るために立ち上がったのです。神のもとに行くために立ち上がったのです。
子供が生まれないハンナが素直に神に向かうことができなかったとしても不思議ではありません。彼女はペニナを憎く思ったでしょうが、それ以上に、そのような苦しみの中に彼女を置かれた神にハンナが恨みを覚えたとしても無理のないことだったと思います。しかし、主を恨み続けることは何の解決にもなりません。トンネルが延々と続くだけです。そのようなある日、彼女は「立ち上が」って主のもとに行ったのです。そこから新しい展開が始まるのです。
ハンナは悩み嘆きながら主に祈りました。「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」(10節)と書かれております。後でハンナは言っています。「主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」(15節)。この「心からの願い」と訳されている言葉は、もともと「命」とか「魂」と訳されるべき言葉です。彼女は「主の御前に魂(命)を注ぎだしておりました」と言ったのです。つまり、彼女は単に願いを注ぎ出していたのではないのです。命を注ぎ出していたのです。いわば彼女の全存在を主の前に注ぎ出していたのです。「願い」というような部分的なものではないのです。
彼女の内にあったのは単に願いだけではなかったはずです。そこにはペニナに対する恨みもあったでしょう。自分の苦しみを本当には理解してくれていない夫についての悲しさもあったでしょう。彼女がずっと抱えてきた孤独感もあったに違いありません。なぜ自分がこんな思いをしなくてはならないのかという神に対する恨みがあったかもしれません。彼女はそれらすべてを含めて全存在を神の前に注ぎ出していたのです。
そのような中でハンナは産まれてくる子供を捧げる決心へと導かれます。「はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません」(11節)。かみそりを頭にあてないことは、その子がサムソンのように聖別されたナジル人となることを意味します。これこそまさに神の望まれたことでした。イスラエルの救いのために与えられたサムエルはまったく神のために聖別される必要があったのです。そのためには子供を神に捧げる母の信仰を必要としたのです。
今まで彼女には、自分を苦しめるペニナと苦しめられている自分しか見えていなかったに違いありません。ペニナに苦しめられれば、ペニナに負けたくないという思いも湧いてきたに違いありません。しかし、今やハンナにとって求めるものがはっきりしたのです。それは子供を得てペニナから責められなくなることでも、彼女を見返すことでもなかったのです。
彼女は何を求めたのでしょう。それは主が「御心を留め」てくださることです。それはつまり、主が自分を覚えていてくれればよい、ということです。たとえ子供が産まれたとしても、その子は主にささげよう。ただ私を覚えていてくれればよい。彼女の思いは明確に神と自分の関係に向かったのでした。これこそ、サムエルの誕生に際して、神がハンナに求めておられた信仰でした。
さて、祭司エリは、ハンナが酔っているものと誤解しました。ハンナはエリに説明します。「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」と。エリは彼女に言います。「安心して帰りなさい」(17節)。これは祭司が礼拝の中でしばしばイスラエルの民に語る救いの託宣と呼ばれているものです。彼女は祭司の言葉を、信仰をもって受け止めました。神が自分を罰しているのではない。裁いておられるのではない。神は私を顧みていてくださる。彼女の心にそのような確信が与えられました。そして神の恵みを信じて帰って行ったのです。
その後、彼女はどうなったでしょうか。「彼女の表情はもはや前のようではなかった」(18節)。子供が生まれたわけではありません。ペニナの悪口がなくなったわけでもありません。状況は何一つ変わってはおりません。しかし、彼女が変わりました。顧みてくださる神を信じる者となったのです。
やがてハンナに子供が生まれました。サムエルの誕生です。しかし、誕生の出来事そのものについては多くの言葉が用いられることはなく、実にあっさりと書かれています。むしろ、言葉が費やされているのは、その後のことです。子供は約束どおり、神に捧げられたということです。
例年のように夫エルカナが家族と共にいけにえを献げるために上って行こうとした時、ハンナは行こうとはしませんでした。そこでハンナは自らの決心を夫に告げるのです。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう」(22節)。夫はハンナの決意を受け入れます。
そして、サムエルが乳離れした後、ハンナはシロにある聖所に仕える祭司エリのもとにサムエルを連れていきます。そして、こう告げたのでした。「わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です」(27-28節)。そして、彼らは主を礼拝したのでした。こうして、サムエルという人物がイスラエルの中に備えられることになったのです。