2025年4月20日 イースター礼拝説教
聖書:黙示録1:12‐18
主の日の出来事
今年のイースター礼拝では、第2朗読において「ヨハネの黙示録」が読まれました。聖書の最後の書物です。読んだことのある人はご存じだと思いますが、この書は実に不可思議な神秘的な描写に満ちています。無理もありません。この書はヨハネという人物の神秘体験に基づいて書かれているからです。しかし、そのような書物が聖書の中に収められ、2千年後の今日に至るまで読まれているのはなぜでしょう。それは、そこに書かれていることは、単なる一個人の神秘体験に留まらず、ここにいる私たちにとっても、大きな意味を持っているからに他なりません。今日お読みした箇所からも、私たちは、ここに書かれている不思議な描写が、今日の私たちにとって、いったい何を意味するのかを、しっかり聞き取りたいと思うのです。
今日の第2朗読は次のような言葉から始まっていました。「わたしは、語り掛ける声の主を見ようとして振り向いた」。
この「わたし」というのは、先にも申しましたように、ヨハネという人物です。このヨハネはどこにいるかと言いますと、エーゲ海に浮かぶ小さな島、パトモス島というところにいるのです。今日では観光地ですが、当時は流刑地です。ヨハネは信仰のゆえに島流しとなってそこにいるのです。
当然のことながらそこに教会はありません。信仰を同じくする仲間もいません。その意味で彼は孤独です。彼は皆と集まって共に礼拝することもできません。かつてボンヘッファーという人がこんなことを書いていました。「一つの信仰共同体が、この世において、神の言葉と礼典にあずかるために、目に見える形で集まることを許されるということは、神の恵みである。すべてのキリスト者が、この恵みにあずかるわけではない。囚われ人、病人、散らされて孤独の中にいる人、異邦の国にいる福音の宣教者、などの人たちはただひとりでいる。彼らは、『目に見える交わりが恵みである』ということを知っている」。その意味では、ヨハネもまたそのような一人であったと言うことができるでしょう。
しかし、そのような孤独な状況に置かれていたヨハネにも、やはり同じように日曜日は訪れるのです。ヨハネは日曜日に礼拝をささげている諸教会を思いながら、その日、一人で礼拝をささげていました。今日お読みしたのは、そのような日曜日、「主の日」における出来事です。そのような日曜日における神秘体験と言っても良いかもしれません。
ヨハネは突然、背後に大声で語り掛ける声を聞きました。ヨハネは声の主を見ようと振り返ります。すると、まず目に入ってきたのは七つの金の燭台でした。後でヨハネは、その七つの金の燭台が何を意味するかを知ることになります。今日の朗読には入っていないのですが、1章20節には「七つの燭台は七つの教会である」というキリストの言葉を聞くのです。つまり、ヨハネは一人孤独に礼拝をささげていると思っていたのですが、実はそうではなかった。彼は本当は孤独ではなかったのです。ヨハネが振り返る前から、そこには既に七つの燭台があった。つまり七つの教会が共にいたのです。主の日の礼拝の中で、彼は教会と共にいたのです。
そして、その中央に「人の子のような方」を見ました。十字架にかけられ復活されたキリストでした。流刑となって教会と引き離されたヨハネは、迫害の中にある一つ一つの教会のことを案じていたに違いありません。しかし、その中央にキリストが立っているのを見たのです。そもそも燭台というものは燭台自身が火を灯し続けるのではありません。火を灯し続けてくださる人がいるから光を保てるのです。教会も同じです。燭台の中央にキリストがおられるなら、燭台はどのような状態にあっても輝き続けるのです。
キリストの御姿
しかし、そこに書かれているキリストの描写はどうでしょう。長い衣を着て金の帯を締め、髪の毛は雪のように真っ白で、目はまるで燃え盛る炎のよう、足は精錬された真鍮のように輝き、声は大水のとどろきのようだった……というのです。しかも、口からは鋭い両刃の剣が突き出している。さらに顔は照り輝く太陽のようだった、というのです。
少し時間をとって、想像してみてください。振り向いたら、そこにはそのようなキリストがおられた。私たちがヨハネだったら、そこで何を感じ、何を思うでしょうか。
一方において、福音書に描かれているキリストの姿、それもまた私たちの知るキリストの姿です。福音書はただかつてのキリストの姿を伝えているだけではありません。復活して永遠に生きておられる私たちの救い主はこのような御方なのだと、私たちに伝えているのです。福音書に見るイエス様の姿は、まさに永遠に私たちと共にいてくださるイエス様の姿に他なりません。
しかし、それが全てではないのです。聖書には、今日お読みしたようなキリストの描写もあるのです。それは馴れ馴れしく近づくことのできないキリストの姿です。まさにそのような描写をもって伝えられているのは、神としての権威と力です。最終的に正しくこの世界を裁く御方としての権能です。本当の意味で、私たちが恐れなくてはならない御方としてのキリストです。今年の復活祭においては、復活されたキリストとは、そのような御方なのだということを心に刻みたいと思うのです。
先ほど、「私たちがヨハネだったら、そこで何を感じ、何を思うのでしょうか」と申しました。しかし、実際に私たちがそこにいたなら、何を感じるとか、何を思うという、そんな悠長な話にはならないでしょう。ヨハネはどうでしたか。「わたしはその方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった」と書かれているのです。恐らく私たちもそうなるのです。
何一つごまかしの利かない御方の、正しく人間を裁くことのできる圧倒的な神の権威と力の前に立たされるとはこういうことなのです。そして、仮にヨハネのような神秘体験の中でそのような姿を見なくても、本当はここにいる私たちもまた、そのようなキリストの前にいるのです。私たちが主の御前に出るということは、私たちはまさに裁かれて死ぬべき罪人として、そこに身を置いているということなのです。
しかし、倒れて死んだようになったヨハネに対して、キリストはこう語りかけられたのです。「恐れるな」と。最終的な裁きの権威が与えられている方から「恐れるな」と言われたのです。これこそまさに聖書の伝える福音です。これこそがまさに聖書の語る罪の赦しなのです。これがキリストの十字架によって罪を贖われているということなのです。
最終的に裁くことのできる御方から「恐れるな」という言葉を聞くことができ、もはや最後の審判をさえ恐れる必要がないならば、本当は他の何も恐れる必要はないのです。本当は、迫害も死をも恐れる必要はない。この世で何が起ころうとも恐れる必要がない。ヨハネは、自分がそのような者とされていることを、流刑の苦しみのただ中で知ることとなったのです。そして、それは私たちにも与えられている恵みなのです。
死の鍵を持っている
そして、「恐れるな」と語られたキリストは、さらにこう言われました。「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(17‐18節)。
キリストは殊更に強調するかのように二度「生きている」を繰り返します。これは「ゾーン」という言葉で、英語の聖書では"living"と訳されます。この言葉が本当の意味で当てはまるのはキリストだけです。私たちの場合、厳密には「生きている(living)」ではなくて「死につつある(dying)」なのです。確実に死に向かっているわけですから。しかし、キリストは本当の意味で「生きている」。なぜなら死はキリストを閉じこめることはできなかったからです。
それゆえにキリストは、死に打ち勝った御方として、「死と陰府の鍵を持っている」と語られているのです。御自分が死に閉ざされなかっただけでなく、私たちをも死の支配から解放することができるということです。私たちは死の鍵を持っておられる方を主としているのです。それゆえに、死は絶望を意味しないということも知っているのです。
かつて教会には殉教した仲間の棺を聖餐卓としてその上で聖餐を行っていた時代がありました。それは地下墓地で礼拝を行っていたという状況もありますが、しかし、その一方で彼らは「あえて」そうしていたのです。棺の上でキリストによる救いを祝っていた。それは迫害に対する、死に対する、勝利の宣言でもあったのです。
実は、私たちの教会においても、葬儀の日程の関係から、礼拝堂に棺を置いたまま主日礼拝をささげたことがありました。そして、それは確かに、私たちが信じている御方が、まさに「死と陰府の鍵を持っている」と宣言する御方であることを、目に見える形で証しする機会となったことを思い出します。
実際、もし死を越えた希望がないならば、主日礼拝の中であろうと、通常の葬儀の中であろうと、礼拝堂に棺を置くことに何の意味もありません。というよりも、葬儀そのものを行うことに、何の意味もなくなるのでしょう。そして、さらに言うならば、もし死を越えた希望がないなら、この世に長く生きようが短く生きようが、何の意味があるか、ということにすらなるのでしょう。
しかし、実際には、そうではないことを私たちは知っています。復活されたキリストが、「恐れるな」と言ってくださる。そして、「見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」と高らかに宣言してくださるのです。
だからこそ、たとえ、私たちの愛する仲間の棺がここに置かれていたとしても、私たちはそこで神を讃えることができるし、希望に満ちた祈りをささげることができるのです。事実私たちはそうしてきたし、これからもそのように主を礼拝することでしょう。そして、やがて私たち自身の棺が置かれる時が来るのです。その時にも、棺は、希望に満ちた祈りと賛美の中に置かれることになるのです。復活された主が、死の鍵を持っておられる方が、世々限りなく生きておられ、私たちと共にいてくださるからです。