2025年4月23日水曜日

祈祷会用:ホセア書 14:1~8

ホセア書 14:1-8

 2024年12月4日からホセア書を読み始め、今日、最後の14章をお読みしました。1節は直接的には先々週お読みした13章の続きです。かつて栄えたエフライムに対して主が滅亡を宣言し、最終的に次のように締めくくられたのです。「サマリアは罰せられる。その神に背いたからだ。住民は剣に倒れ、幼子は打ち殺され、妊婦は引き裂かれる」(1節)。しかし、これが最後の言葉なのではありません。主が滅ぼして終わりにするつもりであるならば、初めから滅亡の予告などしないで、滅ぼしたらよいでしょう。しかし、主の意図はそこにあるのでありません。主はあくまでもイスラエルの人々に向かって呼び掛けるのです。「イスラエルよ、立ち帰れ」と。

 2節以降には次のように語られています。「イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。誓いの言葉を携え、主に立ち帰って言え。『すべての悪を取り去り、恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを、再びわたしたちの神とは呼びません。親を失った者は、あなたにこそ憐れみを見いだします』」(2‐4節)。

 「イスラエルよ、立ち帰れ!」と語られていますように、彼らがどんなに惨めな状態であっても、それでもなお立ち帰るべき神がおられるのです。「あなたの神、主のもとへ」と書かれていますでしょう。立ち帰ることができるのは、主がまだ「あなたの神」だからです。確かに神に背き続けてきました。神の呼びかけにも答えませんでした。神の警告にも耳を傾けませんでした。今や蒔いた種を刈り取りつつあります。王国の滅亡は時間の問題でした。まさに「あなたは咎につまずき、悪の中にいる」と言われても仕方のない者です。しかし、それでもなお「主はあなたの神」なのです。

 3章に語られていたことを思い起こしてください。妻の不貞のゆえに苦しむホセアに、「行け、夫に愛されていながら姦淫をする女を愛せよ」(3:1)と命じられたのは、他ならぬ主なる神でした。神が命じるように、ホセアは自ら苦しみながらも、犠牲を払って妻を受け入れたのです。あくまでもゴメルの夫であり続けることを主はホセアに要求したのです。ですから、ホセアは知っているのです。主なる神もまた同じだということを。主は、不貞の妻に等しいイスラエルの夫であり続けようとされる御方だということを、ホセアは知っているのです。それゆえ、ホセアは「あなたの神に立ち帰れ」と叫ぶのです。

 では、どのようにして、主に立ち帰ったらよいのでしょう。立ち帰るとはどういうことなのでしょうか。かつて預言者ホセアを通して主はこう語られました。「彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが、見いだすことはできない」(5:6)。そうです、彼らはこれまでも多くの羊や牛を捧げることにおいては熱心だったのです。いつの時代でも、幸福を求め、自分の願いの実現を求めて、人はいくらでも熱心に儀式を行い、多くの犠牲を捧げるものなのです。しかし、神が求めておられるのは形だけの儀式や犠牲の羊や牛ではありません。人間の真実です。真実から出る言葉です。どのような言葉でしょうか。3節以下にその言葉が記されています。

 まず語られている言葉は「すべての悪を取り去り、恵みをお与えください」という祈りです。「すべての悪を取り去ってください」という祈りは、自分の内に悪があることを認めなくてはできません。往々にして、私たちが自分自身に悪を認めるのは一番最後です。災いにおいて、危機において、自らの経験した不幸について、いくらでも他者を悪者にできるものです。最終的には神をさえ悪者にするのです。しかし、主は立ち帰る者に、まず自らの悪を認めることを求められます。へりくだって神の恵みを求める罪人として御前に近づくことを求められるのです。

 そして、ただ神のみに依り頼んで生きていくことを、神の前に申し述べねばなりません。彼らはかつてアッシリアに頼りました。アッシリアこそ救いだと思いました。しかし、アッシリアは救いとなるどころか、むしろ彼らを滅ぼすものとなりました。また、彼らはエジプトにも頼りました。エジプトから多くの軍馬を得ようとしました。この世の力にこそ救いがあると思いました。しかし、その軍馬も、またエジプトも、最終的には何の頼りにもなりませんでした。また、彼らは多くの偶像を作りました。神の像を据えることで安心していました。多くの偶像に囲まれていれば、あたかも神が身近にいて願い求めを聞き入
れてくれるものと思っていました。しかし、偶像はただ神との真実な関係を失わせるだけだったのです。

 そのような彼らにとって国家が滅亡へと向かうプロセスは、神ならぬものがあくまでも神ではないことを悟らされるプロセスとなりました。人の経験する多くの苦難は、しばしばそのような過程であると言えるでしょう。神に立ち帰るということは、そこで「アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬には乗りません。自分の手が造ったものを再びわたしたちの神とは呼びません」と神に向かって言い表すことなのです。そして、「親を失った者はあなたにこそ憐れみを見いだします」と言って、自らがまことの親を失っていたような者であったことを認めて、ただ神の憐れみを求めることなのです。

 人がそのように神に立ち帰る時、主は応えてくださいます。「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり、オリーブのように美しく、レバノンの杉のように香る。その陰に宿る人々は再び、麦のように育ち、ぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる」(5‐8節)。

 主は「喜んで彼らを愛する」と言われます。立ち帰る者たちに対して、自らを彼らの癒し主として語られます。人間が本当の意味で回復された者として再び命に満たされて生きる道は、神の赦しと癒しにしかありません。

 主が立ち帰る者をどのように回復してくださるかは、6節以下に記されています。主は「露のようにわたしはイスラエルに臨む」と言われます。乾燥した地に生きる人々は、露がいかに草木を生かすものであるかを知っています。そのように、枯れ木のようになったイスラエルに神は命を与える露のように臨んでくださるのです。その時、とうてい花が咲き得ないような枯れ果てた枝に、再び蕾がつき花が咲くのです。死んでしまったような木から、再び大地に向かって根が伸び始めるのです。赤茶けて葉もすべて落ちてしまったような木々に、再び若枝が生じ、伸びて広がっていくのです。

 これらはすべて命の現れです。命の源である神につながってこそ、具体的な命の現れを見るようになるのです。そのように、真の希望は神のもとにこそあります。唯一の希望は人が神に立ち帰るところにこそあるのです。それゆえ、ホセアは言うのです。「立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」と。これこそ、神の愛から出た神の叫びに他なりません。

 ホセアがこのように語った時から七百年の後に、イエス様は人々のもとに現れ、罪人らと食事を共にしてこう言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:31‐32)。イエス様は、そのように罪人が神に立ち帰り、神との交わりのうちに回復せられるために、自ら罪を代わりに背負い、罪の贖いを成し遂げられたのでした。この方の姿こそ、預言者を通して語られた神の言葉が肉となり、一人の人格としてこの地上に来られた姿に他なりませんでした。

 ペトロも後に、こう書いています。「そして、(キリストは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻ってきたのです」(1ペトロ2:24‐25)。その御方によって、今もこの世界は呼びかけられています。「立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」と。

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