ホセア書 11:1‐11
このような質問を受けることがあります。「私の周りには神を信じていなくても、しっかりしている人はたくさんいます。神を信じていなくても、誠実で真面目な人、愛情の深い人はたくさんいます。そのような人たちに信仰は必要なのでしょうか。」このように、往々にして信仰に関して出される問いは、人間には信仰が必要であるか、神が必要であるか、という観点から出されます。しかし、そのような信仰の観点と、人が神の像を作りそれを拝むという行為は、実は、極めて密接に結びついているのです。
人は偶像を作ります。それは人間が偶像を必要としているからです。古代オリエントの世界において、神の像は神々や諸霊の「居場所」と考えられていました。ですから、一面においては、偶像の製造は人が神を必要としているという心の現れであると言うことができます。必要としているからこそ、確かにそこにいて欲しいのです。だから、そこに偶像を設置します。
しかし、もう一方では、神がいて欲しくない場合もあるわけです。古代世界においては、見えざるものに対する恐怖というものは、現代におけるよりも遙かに大きかったのです。ですから、やたらにどこにでもいてもらったら困るのです。そこで居場所を定めておきたい。だから人は偶像を作ります。このように、いずれにせよ、偶像というのは、人が神を必要とするかしないかという観点と結びついているわけです。
しかし、十戒の第2戒は偶像を作りそれを拝むことを禁じます。聖書は神と人との関係を、そのような“人間の必要”という一方向から語ることを許さないからです。神と人との関係は、人間と偶像のような関係ではありません。ホセア書において、神と人との関係は、ある時は夫婦の関係に喩えられ、ある時は親子の関係に喩えられるのです。その関係は生きた双方向の関係です。
考えても見てください。子供が「わたしには親が必要か否か」という見方しかできないとすれば、それはどう考えても健全な親子の関係ではありません。そのように、聖書は、単に人間には神がどれほど必要であるか、ということについて語ることをいたしません。それよりも、神が人をどれほど愛し、求めてくださっているか、ということについて語るのです。
しかし、人はなかなかそのような神の心に思いを馳せようとはいたしません。いつでも頭を占領しているのは、自分のことばかり、人間のことばかりです。それゆえに、聖書は、不完全な人間の言葉を用いつつも、言葉を尽くして「神の心」を語るのです。今日お読みしました箇所においても、私たちはそのような「神の心」を聞いているのです。
「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」(1-4節)。
神はまだ幼かったイスラエルを愛されました。成人して立派になり、力を得、役に立つようになったから愛されたのではありません。幼子のように何もできず、手がかかるだけの時に、神はイスラエルを愛されたのです。それは申命記においても次のように書かれているとおりです。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申命記7:7‐8)。
神とその民との関係は、神の愛と選びによって始まったのでした。神が欲しておられたのは、イスラエルの持っている何かではありませんでした。もとより、神に提供することのできる何かを持っていたわけではないのです。「まだ幼かったイスラエル」なのですから。そうではなくて、神が欲しておられたのは、彼ら自身なのです。神が欲しておられたのは、彼らがただ神の愛に留まることでした。神の子とされたのですから、神の愛の内にあって子として生きることなのです。神の愛に留まり、神の愛に応えて、神を愛して生きる民となることを、神は求めておられたのです。
しかし、神が預言者を通して語りかけ、呼びかければ呼びかけるほど、彼らは神から離れていきました。彼らの罪とはなんでしょうか。それは、彼らが愛なる神との関係を見失い、離れていったことでありました。彼らが親を忘れてしまったことにこそ、彼らの罪の根はあったのです。
「エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった」(3節)と主は嘆きの声を上げられます。これはホセアの個人的な経験、一人の親としての経験を通して、神が語られた言葉であるかも知れません。既に見てきましたように、ホセアの妻ゴメルは淫行の女でありました。ホセアは淫行による子らを受け入れ、愛し、育ててきたのです。生まれ出た赤ん坊は一人で生きることはできません。大きくなった子供が偉そうなことを言っても、決して自分一人で育ってきたわけではないのです。
子供を育てるというのは大変なことです。子供が育つためにはどれほど親の労苦と忍耐が必要とされることでしょう。そのように、イスラエルの歴史において、彼らを愛し、育ててきたのは神でした。彼らが病む時に、彼らをいやされたのは、他ならぬ神御自身でした。幼子が病に伏したなら、親は寝ずの看病だってするでしょう。丁度そのように、神は御自分の民に関わってこられたのです。旧約聖書を読みますときに、なるほどそうだと思います。
神は、彼らを御自分の子とされたゆえに、無理矢理に服従させないと使いものにならない牛馬のごとくには扱いませんでした。あくまでも人間として扱われたのです。「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼を導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」と書かれているとおりです。
「神はどうして人に罪を犯す可能性を与えておいて、なおも罰するのか」などと言う人がいます。「初めから罪を犯せないようにしておいたらよいのに」と。――そのように言う人は、自分を馬か牛のようにしか見ていない人です。私たちは馬や牛ではありません。人間なのです。神は私たちが人間であるゆえに、強制的な服従によってではなく、愛による応答を求められたのです。それこそ神が人間を人間として扱われる仕方なのです。愛の対象として見ておられるということなのです。その愛の関係こそ、神がイスラエルに与えられた契約の意味でありました。
ところが人間の方が一方的にその契約を破り、神に背いたのです。そして、人は蒔いたものを刈り取ることになります。神の愛への背きを蒔くならば、滅びを刈り取ることになるのです。
「彼らはエジプトの地に帰ることもできず、アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち、たくらみのゆえに滅ぼす。わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない」(5‐7節)
この預言が語られた時、既にアッシリアのイスラエル侵攻は始まっており、北部は占領されていたものと思われます。ホセアは、やがて完全にアッシリアによって滅ぼされてしまうことを預言します。「アッシリアが彼らの王となる」と。
表面的に見るならば、それは外交政策における失敗によってもたらされたと言えます。しかし、主はそう言われません。「彼らが立ち帰ることを拒んだからだ」と言われるのです。この差し迫っている国家の危機は、まさに彼らが蒔いてきた背信の種が結ぶ実を刈り取っているのだ、と主は言われるのです。
しかし、私たちはここで驚くべき言葉を耳にするのです。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」(8‐9節)。
「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と主は言われるのです。「わたしは激しく心を動かされ」と訳されていますが、単純に訳せば「心が変わる」ということです。ここは「神の変心(心変わり)」と呼ばれる有名な箇所です。何によって神の心が変わるのでしょうか。憐れみによってです。義なる神は、契約に背き、神の愛に背いたイスラエルに怒りを向けられ、その罪を裁かれます。しかし、憐れみによってその心が変わるのです。
この心変わりによって、神の心はその内において分裂することになります。これまで激しい裁きの言葉を語っておられた神が、そして7節においても「たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない」と最終的な滅亡を宣告していた神が、今やこう叫び出すのです。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか」と。このように、神の内には相反する思いが共存することになります。それは神の自己矛盾とも言えるでしょう。そのような自己矛盾を抱えこんでいる神の姿を私たちはここに見るのです。
このような姿は、あまりにも「神らしくない」と思われますでしょうか。あまりにも生々しく人間臭い描写であると思われますでしょうか。しかし、主はこう言われるのです。「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」(9節)。神は御自分が神であり、人間ではないことを主張されます。聖なる者であると言われるのです。聖なる者であるということは、人間とは全く区別された異なる御方であるということです。この自己矛盾をかかえた神の姿は、人間的な描写を用いているからそのように描かれているのではありません。そうではなくて、まさにこれが、神が神であられるということなのです。神が神である御自分を貫かれるということは、罪をその極限まで憎み、完全に裁かれる神となられると同時に、人間を極限まで愛し、完全に赦される神となられることなのです。
そして、そのような神の姿は、後に十字架にかけられたキリストにおいて完全に啓示されることになるのです。罪なき御方が十字架にかけられて死んでいくその凄惨な死の様は、私たちの罪を明らかにし、その罪に対する神の憎しみと怒りとを明らかに示します。神は罪を裁き給う神であることを貫かれるのです。しかし、そこにはまた御子をさえ惜しまずに与えてくださる神の愛が明らかにされているのです。神は愛と赦しの神であることを貫かれたのです。完全な義と愛は神において一つであることが明らかに啓示されているのです。
「獅子のようにほえる主に彼らは従う。主がその声をあげるとき、その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から。わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると、主は言われる」(10‐11節)。
「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか」と叫ばれた神の声は、やがて御自分の御子をこの世に送り給うことにおいて、見える形を取るに至りました。その御子は、十字架の上で叫びます。「成し遂げられた」と。いや、このキリスト御自身の存在そのものこそ、この世界のただ中で上げられた神の義と愛の叫びに他なりませんでした。
それはホセアの言葉を借りるならば、この世界のただ中に響き渡る「獅子の雄叫び」です。「獅子のようにほえる主に彼らは従う」。神が声を上げられたのは、散らされた神の子らが真に悔い改め立ち帰るようになるためでした。その主の御声によって、神の子らは海のかなたから恐れつつやって来るのです。「恐れつつ」――それは「こわがって」ということではありません。神を神とする真の畏れをもって彼らは帰ってくる、ということです。この神の御声によって、私たちもまたみもとに呼び集められ、畏れをもって主と共に生きる者とされたのです。