ホセア書 9:10‐17
今日の聖書箇所は、このような言葉から始まります。「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た。ところが、彼らはバアル・ペオルに行った。それを愛するにつれて、ますます恥ずべきものに身をゆだね、忌むべき者となっていった」(10節)。
神が荒れ野のぶどうであるイスラエルを見出したのであって、イスラエルが神を見出したのではありません。神がイスラエルの先祖を初なりのいちじくのごとくに見られたのであって、その逆ではありません。神と人との関わりについて語るとき、聖書はまず神を求める人の求めや神を見出そうとする人間の努力から語り始めるのではありません。神を見出す者の深い洞察や敬虔さについて語るのではありません。まず先に神の求めがあり、神の愛があり、神の選びがあり、そして神の喜びがあるのです。神とイスラエルの関係は、そのような神の一方的な愛と、愛のみに基づく選びによって成り立ったのです。
そのような神とイスラエルの関係は、例えば申命記には次のような言葉をもって表現されております。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申命記7:6‐8)。
このように、神の愛と選びが語られるということは、人間の側には誇るべき要素が全くないということを意味します。荒れ野のぶどうのような存在であるから、神が見出してくださったのではありません。初なりのいちじくのような愛すべき民であったから、神が目を留めてくださったのではありません。ただ、人知を越えた神の愛のゆえに、奴隷の民、他のいかなる民よりも貧弱な民を、そのように見、そのように喜び、そのように関わってくださったのです。
このように、神の求め、神の愛、神の選びが先にあるゆえに、そこで初めて、神の愛にいかに応えて生きるのか、という課題が生じます。人間の求めが中心の信仰からは、そのような課題は生じません。人間の求めが中心であるならば、「人間の求めに対して神はいかに応えてくださるか」ということとが一番重要なこととなるからです。聖書に記されている、神とイスラエルとの関係は、本来そのようなものではありませんでした。まず神が愛し、目を留めてくださったのです。その愛に応えて生きるところに、信仰者の生の基盤があったはずなのです。それが神との契約を与えられ、十戒を与えられたことの意味でありました。
しかし、実際はどうだったでしょうか。荒れ野において遊牧生活をしてきたイスラエルの民が、約束の地に定着し、そこで農耕生活を営むようになりますと、カナンの豊穣神礼拝、バアル礼拝の影響を強烈に受けるようになりました。もはや生活の土台は、彼らに向けられた神の愛と選びではなくなりました。そこでは神が求め、神が愛し、神が選んでくださったということよりも、自分は何を得られるか、ということが重要になりました。豊作そのもの、豊かさと生活の安定こそが最重要関心事となりました。
実は、そのような人々の誤った方向性は、荒れ野の時代から既に始まっていたのです。「ところが、彼らはバアル・ペオルに行った」と書かれているとおりです。これは民数記25章に記されている出来事です。次のように書かれています。「イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた」(民数記25:1)。
そのような彼らについて、主は言われるのです。「それを愛するにつれて、ますます恥ずべきものに身をゆだね、忌むべき者となっていった」と。主の恵みによる救いの御業も、愛による選びも、主が示してくださった真実も、すべてどうでもよくなって、ただ今の喜び、今の幸せ、今の欲望の充足を求めている人々の姿。そうして、ますます神の目から見て恥ずべきものに身をゆだねた忌むべき者となって行った彼らの姿。そこにあるのは、初なりのいちじくのように神の喜びであった彼らが、いつのまにか忌むべき者となってしまったことを嘆く、神の嘆きに他なりません。
そのようなイスラエルの民に対して、主はこう宣言せざるを得ませんでした。「エフライムの栄えは鳥のように飛び去る。もう出産も、妊娠も、受胎もない。たとえ、彼らが子供を育てても、わたしがひとり残らず奪い取る。彼らからわたしが離れ去るなら、なんと災いなことであろうか。緑に囲まれたティルスのように、わたしはエフライムを見なしてきた。しかし、エフライムは自分の子供たちを、餌食として差し出さねばならない。主よ、彼らに与えてください、あなたが与えようとされるものを。彼らに与えてください、子を産めない胎と枯れた乳房を」(11‐14節)。
ここに多くの言葉を費やして語られていることは、要するにイスラエルには未来がない、ということです。彼らは、約束の地に生き続けることを求めました。確かな生活を求めました。そのために必要な豊かさを求めました。しかし、それらを求めることによって、神との関係がないがしろにされるならば、彼らはかえって自分たちの未来を閉ざすことになるのです。人は、自分の求めるものが得られてこそ未来は開かれるのだと考えます。しかし、それらを得ることが、神の愛を失うことの代償であるならば、未来はかえって閉ざされることになるのです。それゆえに、「彼らからわたしが離れ去るなら、なんと災いなことであろうか」と語られているのです。
主は言われます。「たとえ、彼らが子供を育てても、わたしがひとり残らず奪い取る」。なんと恐ろしい表現でしょうか。しかし、これは真実です。人は子供たちの将来のために繁栄と平和と幸福を確保しようといたします。しかし、もし神の御心に背いて生きるならば、かえって子供たちの将来を奪うことになるのです。いつでも、犠牲になるのは子供たちです。「エフライムは自分の子供たちを餌食として差し出さねばならない」と書かれているとおりです。
そのことを考えるならば、初めから子供がいないほうが幸いだとさえ言えるでしょう。預言者ホセアには、どうしてもそう思えてならなかったに違いありません。彼はは具体的には外敵が襲来し、国家が滅亡するであろうことを予見しているのでしょう。次の世代は殺され、あるいは捕囚として生きなくてはならない。彼は、その悲惨さを嘆かざるを得なかったのです。それゆえに、彼はこう祈らざるを得なかったのです。「彼らに与えてください、子を産めない胎と枯れた乳房を」。
さらに主はホセアを通して語られます。「彼らの悪はすべてギルガルにある。まさにそこで、わたしは彼らを憎む。その悪行のゆえに、彼らをわたしの家から追い出し、わたしは、もはや彼らを愛さない。高官たちは皆わたしに逆らう者だ。エフライムは撃たれた。彼らの根は枯れ、実を結ぶことはない。たとえ子を産んでも、その胎の実、愛する子をわたしは殺す。わが神は彼らを退けられる。神に聞き従わなかったからだ。彼らは諸国にさまよう者となる」(15‐17節)。
ギルガルとは主要な聖所の一つです。礼拝が行われていた場所です。しかし、そこで行われていたのは、偶像礼拝であり、バアル礼拝に他なりませんでした。神の言葉が軽んじられ、人間の欲望が礼拝の場、聖所さえも支配するとき、もはや人は正しく神を礼拝することができなくなります。そのように、人が正しく神を礼拝できなくなるところにこそ、すべての悪の源があるのだと主は言われるのです。悪はすべてギルガルにこそあるのです。
そして、そのように正しい礼拝を失い、神との交わりを失い、神の愛を失うならば、それは約束の地に下ろされた根が枯れてしまうようなものです。ホセアの時代のイスラエルは、木に譬えるならばまだ葉は幾分残っている状態であったかもしれません。当面の国家的な危機を乗り越えて、生き残ることはできたかもしれません。しかし、ホセアの目に映っていたのは、既に根の枯れてしまった国だったのです。根が枯れていれば、やがて全体が枯れていくのです。もはや実を結ぶことはありません。
滅亡は外的な危機によって周囲からもたらされるのではありません。滅亡は神との関係が崩壊するという内的な危機によってもたらされるのです。根が枯れて木は滅びるのです。切り倒されて滅びるのではありません。
こうして最終的に、彼らは諸国にさまよう者となると預言されております。イスラエルの民は、神の愛に応えて生きるために、約束の地を与えられました。それが彼らの信仰生活であり、神の民としての生活であったはずでした。しかし、彼らが神の愛を忘れ、神の恵みを忘れ、神に従順に生きることを忘れたので、もはや約束の地に生きることができなくなったのです。「わが神は彼らを退けられる。神に聞き従わなかったからだ」とホセアは語るのです。その結果は放浪以外のなにものでもありません。このことを私たちもまた、しっかりと心に留めなくてはなりません。私たちが神の愛に根ざし、神に従順に生きる生活を失えば、この世にさまよう者となってしまうのです。
「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た」。それがすべての発端でありました。イスラエルの民が根の枯れた枯れ木にならぬことを、神に退けられた放浪者とならぬことを、誰よりも望んでおられたのは神御自身でありました。神が御自分の見出した者、かけがえのない喜びであった者に滅亡を宣告しなくてはならない痛みを、ホセアは誰よりも深く知らされた人であるに違いありません。そのような預言の言葉を私たちは今、耳にしているのです。それは、神の一方的な恵み、キリストの十字架において現された神の愛によって神の教会とされた私たちが、神を離れて根の枯れた木とならぬため、世にさまよう放浪者とならぬために、今私たちに語られている言葉でもあると言えるでしょう。私たちは、この預言の言葉を私たちに対する言葉として重く受けとめねばならないと思うのであります。