灰の水曜日礼拝 ヨエル書 2:12‐18
預言者ヨエルが活動したのは紀元前5世紀ごろであったと言われます。それは、一度滅亡したユダの王国が、再び帰還民によって建て直され、神殿も再建され、城壁も再び築かれた後の時代です。ですので、国の滅亡を預言したアモスやイザヤなど、他の預言書とは随分趣きが違います。しかし、どのような預言者の書であれ、その背景となっているのは常に危機的状況です。ヨエル書の場合、それは「いなごの大群の襲来による大災害」でした。
そのような災害は今日においても見られます。それは食糧にかかわることですから、まさに直接命にかかわる災害です。イスラエルの民は、その歴史において、いなごの災害を幾度となく経験してきたに違いありません。しかし、ヨエルの時代の災害は、まさに前代未聞の規模において起こったのです。
「かみ食らういなごの残したものを移住するいなごが食らい、移住するいなごの残したものを、若いいなごが食らい、若いいなごの残したものを、食い荒らすいなごが食った」(1:4)。そのようにヨエルは語ります。彼らはそのように徹底的な打撃をこうむったのでした。ヨエルはそのようないなごの大群を、一国の軍隊にたとえます。たとえば1章6節には次のような表現が出てきます。「一つの民がわたしの国に攻め上って来た。強大で数知れない民が。」そして、イナゴはついに、神殿に捧げ物をするものさえ食い尽くしてしまったことが書かれています。
これは天災です。不可抗力です。他国との争いであるならば、外交的な努力も為し得ましょう。しかし、いなごに対しては為すすべもありません。まったくの不可抗力によって、今までの労苦がまったく無駄になってしまいました。いや、苦労が水の泡になったというだけではすみません。自分や家族の存続さえ危ぶまれる状況に置かれているのです。昨日までの喜びがまったく絶たれ、絶望のどん底につきおとされてしまいました。
考えてみますならば、人間はありとあらゆる不可抗力のもとにあります。どうにもならないことがたくさんあるのです。しかし、普段はそうは思っていません。人間は思った通りに生きられる、願った通りに進んでいけると思っているものです。しかし、しばしばそうならない現実につきあたります。そこでいったい人はどうしたらよいのでしょうか。
驚いたことに、ヨエル書はそこで、「泣き悲しめ」と言うのです。1章8節。「泣き悲しめ、いいなずけに死なれて、粗布をまというおとめのように」。そこには安易な励ましや気休めの言葉は語られません。「泣き悲しめ」と。しかし、泣き悲しむことには二通りあります。死に至る悲しみと、命に至る悲しみです。
死に至る悲しみとは、「災いを」悲しむ悲しみです。自分の失ったものを数えながら嘆く悲しみです。このような悲しみには救いがありません。これは死に至る悲しみです。しかし、そうでない嘆きと悲しみがあります。「災いを」悲しむのではなくて、そこにおいて「自分自身の罪を」悲しむ悲しみです。自分の神に対する在り方が根本的に間違っていたことを、人生の方向が間違っていたことを悲しむ悲しみです。この悲しみには希望があります。この悲しみは命に向かう悲しみです。なぜなら、失ったものは返らないかも知れませんが、人生の方向は変り得るからであります。
ヨエルはその災害による危機に直面する民の中にあって、自分たちと神との関係がいかに破れているかを思ったのでした。この民がいかに神から遠く離れていたかを思ったのです。確かにエルサレムの都は再建されたかも知れません。神殿の再建されたかも知れません。城壁も立派に築き上げられました。彼らは、大きなことをしてきたかも知れません。しかし、現実においては、神から遠く離れていた。その心は神から遠く離れていたのです。
ヨエルは、神の前に立ち得ない自分たちの姿を考えていました。それまでは、神のために何がしかのことを成し遂げてきたかのように思っていたかも知れません。しかし、神の真実なる光のもとにあるならば、何と人の営みとは罪深いものでしょう。いなごの害は、神の最終的な裁きではありません。しかし、それは神の最終的な裁きを指し示し、神の最終的な裁きについて考えさせる、そのような出来事でありました。
ですから、ヨエルは「主の日」について語るのです。1章15節。「ああ、恐るべき日よ、主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る」と語るのです。「主の日」とは神が正しく世を裁かれるその日です。ヨエルは、神が正しく裁かれるならば、それは破滅でしかないことを悟るのです。人はとても神の前に立ち得ないことを悟るのです。
人はしばしばこの世界に起る出来事によってへりくだらされます。その時、神の前にへりくだらされる人は幸いです。それは幻想に生きていた者が、真実に目が開かれる時だからです。自分が他者に対しても、神に対してさえも、誇り得るなにものかがあるような幻想に人は捕らえられているものです。
人間はそのままで、土足の足で、泥だらけの手で、罪の垢とちりにまみれたままで、平気で神の前に行けるかのように思っているものです。そのままで何かを願って、かなえられて当然であるかのように思っているものです。人間によくしてくれてこそ神ではないか、とさえ考えている人もいるかもしれません。しかし、幻想はあくまでも幻想です。真実を知らねばなりません。
神を真実に神として認識しはじめる時、自分がいかに不遜であったかに気づかされます。人間は皆不遜なものです。その契機となったのが、彼らにとってはいなごの大群の襲来でありました。
しかし、先にも申しましたように、罪を悲しむ悲しみには希望があります。自分の破れを見せられる真実なる光に照らされて、おのれを悲しむ悲しみには希望があるのです。なぜなら、そこでまったく逆説的なことが起るからです。人間が神の前に立ち得ないものであることが明らかにされた時、まさにそこにおいて、《神の側から》呼び掛けがなされるのです。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」と。それが今日、与えられている御言葉です。主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで」。
これは神に帰ろうと思えば帰れる人間だから、「わたしに立ち帰れ」と言われているのではないのです。神に顔向けできない、神に帰り得ない人間であるからこそ、神の側から、「わたしに立ち帰れ」と語られているのです。
ですから、その根拠は人間の正しさや功績ではありません。13節に記されているように、それは主が「恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富んで」おられるからです。しかし、「恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富んでいる」ということは、神が自ら苦しみを背負うことでもあります。忍耐強く、慈しみ深くあるということは、そういうことでしょう。実際、私たちを考えれば分かります。私たちが憐れみ深く、忍耐強くあろうとすれば、そこには必ず苦しみが伴います。ですから、実際、本当に身近な小さなことでさえ、憐れみ深く、忍耐強くあることができないではありませんか。そのように、神が恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富むということは、神が苦しむということなのです。そこには、神の犠牲があります。
神の前に立ち得ない者に、神が語りかけられる。その逆説は、すべてこの神の苦しみと犠牲に基づいております。神は常にそこから語りかけられる。そこから語り続けておられるのです。
私たちはそこで改めてキリストの苦しみについて考えさせられます。神はキリストを私たちに遣わされました。それは、憐れみ深く、忍耐強い神の、最終的な語りかけでありました。神は苦しみを背負いつつ、語られたのです。ですから、それは必然的に、キリストの受難という形にならざるを得ませんでした。それが、神のもとに帰り得ないものを、神のもとに帰らせるということだったのです。それが、罪人に対して「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」と呼びかけるということだったのです。
受難節に入りました。この期間は、キリストの御苦しみを覚える時です。しかし、私たちはセンチメンタルに、その苦しみを忍んで「イエスさま、かわいそう」と考えるような期間ではありません。そうではなくて、私たちはキリストの苦しみの中に、神の呼び掛けをきかなくてはならないのです。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」という呼び掛けを聞くべき時なのです。
それは不遜で傲慢な自己と向かい合って、私たちが心を引き裂くべき時です。「衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」と言われているのです。衣を裂くようなことは、誰だってするのです。形だけの嘆き、形式だけの罪の悔い改め。しかし、心は他者に対しても、神に対しても、不遜で傲慢なままであるということはいくらでもあるのです。だから、「衣はそのままでいいから、心を引き裂け」と言うのです。それが神ご自身の指定された、神への帰り方です。
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」と。