2025年3月19日水曜日

祈祷会用:ホセア書 10:1~15

ホセア書 10:1‐15

 「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。彼らの偽る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き、聖なる柱を倒される」(1‐2節)。

 ここでイスラエルがぶどうの木に喩えられています。そのぶどうの木は「伸びほうだい」であったと言われています。しかし、このように否定的に訳されておりますが、もともとは悪い意味の言葉ではありません。外に溢れるように繁栄している状態を表現する言葉です。実際、ヤロブアム二世の治世において、イスラエルはそのような繁栄を享受していたのでした。外に向かって枝が豊かに茂り、その実も豊かに実っていたのです。

 その時、彼らはどうしたでしょうか。「実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた」と書かれております。彼らは、聖所を増やしたのです。そして、それぞれの聖所を豪華な立派なものにしたのです。国が豊かなのですから、それを礼拝に還元していったわけです。聖所が増え、聖所が立派になることは望ましいことではないでしょうか。

 しかし、主はそのことを喜ばれませんでした。むしろ、主は自ら、「彼らの祭壇を打ち砕き、聖なる柱を倒される」と宣言されるのです。なぜでしょうか。主が喜ばれないのは、彼らの心が偽っているからです。「彼らの偽る心は罰せられる」と言われているとおりです。そこが問題なのです。

 「偽る心」と言われているのは、そこで行われていることが、神への純粋な愛から生まれたものではないからです。それは神の恵みに対する純粋な感謝の応答ではなかったのです。それを良く表しているのは、彼らが「聖なる柱を飾り立てた」という事実です。聖なる柱とは、元来、カナンのバアル祭儀において用いられていたものでした。それは、多産と豊穣を願い求めるバアル祭儀から取り入れられたものです。それを飾り立てたということは、イスラエルの人々もまた同じものを求めていたことを示しています。国が栄えた時、その繁栄が継続し、さらに豊かになることを求めて、彼らは聖所を増やし、飾り立てたのです。

 「偽る」と訳されている言葉が、他の箇所で、へつらいの言葉を語る滑らかな舌を表現するために用いられていることも、同じことを示していると言えるでしょう。人にへつらうのは見返りを期待してのことです。何かを引き出すために、へつらいの言葉は用いられるのです。同じように、彼らの行為は、神から良きものを引き出すための行為でしかありませんでした。聖所は増え、立派になっても、そこには真実なる神への愛も、神の恵みに応えて生きる生活もなかったのです。

 そのような偽る心が具体的にどのような事態をもたらすかが、次のように語られています。「今、彼らは言う。『我々には王がいなくなった。主を畏れ敬わなかったからだ。だが王がいたとしても、何になろうか』と。彼らは言葉を連ね、偽り誓って、契約を結ぶ。裁きが生え出ても、わが畑の畝に毒草が生えるようだ。サマリアの住民は、ベト・アベンの子牛のためにおびえ、民はそのために嘆き悲しむ。神官たちがその栄光をたたえても、それは彼らから取り去られる。偶像はアッシリアへ運び去られ、大王の貢ぎ物となる。エフライムは嘲りを受け、イスラエルは謀のゆえに辱められる。サマリアは滅ぼされ、王は水に浮かぶ泡のようになる。アベンの聖なる高台、このイスラエルの罪は破壊され、茨とあざみがその祭壇の周りに生い茂る。そのとき、彼らは山に向かい、『我々を覆い隠せ』丘に向かっては、『我々の上に崩れ落ちよ』と叫ぶ」(3‐8節)。

 ベテルには子牛の像が祀られていました。彼らはこれをカナンの神々として拝んでいたわけではありません。彼らはエジプトから導き出した彼らの主を礼拝していたのです。ヤロブアム一世が、初めてベテルに子牛を造って置いた時、彼は次のように言いました。「見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」(列王上12・28)。

 もちろん、子牛そのものがヤハウェの神とされたのではなくて、それは見えざる神の台座と考えられていたようです。いずれにせよ、子牛の像を指して、「見よ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」と語られた時点で、もはや神の救いの恵みの大きさは真剣に受けとめられることはなくなりました。そのような偶像礼拝からは、神の恵みに対する真実な応答としての生活が生み出されようはずもありませんでした。

 それゆえ、主は、この子牛を取り除かれるのです。人々はそれゆえに嘆き悲しむようになる、と語られております。「ベト・アベン」というのは「悪の家」という意味です。本当の名前は「ベテル」です。ホセアが言い換えているのです。ベテルというのは本来「神の家」という意味でありました。しかし、もはや、その場は「悪の家」になっているということです。悪の家の偶像はアッシリアに運び去られることになります。

 皮肉なことに、今まで献げ物を受け取っていた偶像は、アッシリアの大王への献げ物となるということです。そして、「サマリアは滅ぼされる」と主は言われます。彼らは、主との真実な関係をないがしろにしながら、もう一方でこの子牛があれば大丈夫であると思っていたかもしれません。しかし、その子牛もろともアッシリアに奪い去られるのです。その時、自分が真に神を拝んでいたのではなく、偶像を拝んでいたに過ぎないことに気付くようになるのです。

 もちろん、そのように裁きが臨む前に、主は繰り返しイスラエルに対して立ち帰るよう呼び掛けられました。ホセアの時代の前には、アモスが現れて彼らに神の言葉を語ったのです。しかし、人々は立ち帰りませんでした。悔い改めませんでした。そのような、かたくなな態度は、何もその時代に始まったことではありません。昔からそうなのです。9節以下にこう書かれています。

 「イスラエルよ、ギブアの日々以来お前は罪を犯し続けている。罪にとどまり、背く者らにギブアで戦いが襲いかからないだろうか。いや、わたしは必ず彼らを懲らしめる。諸国民は彼らに対して結集し二つの悪のゆえに彼らを捕らえる」(9‐10節)。

 「ギブアの日々」については、前の章においても語られておりました。士師記20章以下に出てくる物語を指しているものと思われます。そこには罪を悔い改めず、心を頑なにし、他の部族に戦いを挑んで滅びに瀕したベニアミン族のことが記されています。今のイスラエルの民は、罪を悔い改めようとしなかったあの人々と同じだ、ということです。「お前は罪を犯し続けている」と主は言われます。彼らが不覚にも罪に陥ったということではありません。神の呼びかけにもかかわらず立ち帰ろうとしない者であること、「罪にとどまり、背く者ら」(9節)であることが問題なのです。その彼らに対して、「わたしは必ず彼らを懲らしめる」と主は言われるのです。

 そして、主の為されることが主の懲らしめであるならば、そこには主の意図があるのです。11節以下に次のように語られております。「エフライムは飼い馴らされた雌の子牛、わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ。わたしはその美しい首の傍らに来た。エフライムに働く支度をさせよう。ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く」(11節)。

 「わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ」と訳されていますが、多くの訳は、「彼女(子牛、すなわちエフライム)は脱穀するのを好んだ」となっています。その方が自然な読み方です。脱穀する牛がそれを好むというのは、申命記を読めばわかります。「脱穀している牛に口籠を掛けてはならない」(申命記25:4)と書かれているのです。牛は脱穀している間に、麦を食べることが許されていたのです。そのように、主はこれまでイスラエルを扱ってこられました。つまり、イスラエルが豊かに「食べる」ことを許されたのです。しかし、もはやそうではない、というのがホセアの預言としてここで語られていることです。神は、牛の「美しい首の傍らに来た」と言います。何のためでしょうか。「エフライムに働く支度をさせよう」と書かれています。主は子牛に重い軛を負わせて、畑を耕させようとしているのです。

 イスラエルの繁栄は続きませんでした。ヤロブアム二世の後には内政において政情不安が続きます。そればかりではありません。紀元前732年にシリアが完全にアッシリアの手に落ちて後、アッシリアはイスラエル北部に侵攻してくるのです。これは最終的に紀元前721年にサマリアが陥落するまで続きます。

 「働く支度をさせる」というのは、そのような非常に厳しい状況を指しているものと思われます。もはや、麦を食いながら脱穀している時ではありません。彼らは軛を負わされ、労働に駆り出される牛となります。そこで主が求めておられるのは何でしょうか。12節に書かれています。「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いでくださるように」(12節)。これこそが主の意図するところでありました。

 彼らは恵みの業をもたらす種を蒔くのです。そして、愛の実り、慈しみの実りを刈り取るのです。そのためには、「新しい土地」を耕さなくてはなりません。「新しい土地を耕せ」という言葉は、エレミヤ書にも出てきます。「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな」(エレミヤ4:3)。訳は随分違いますが、原文は全く同じフレーズです。もとは恐らく古い諺であろうと思われます。その意味は、ごく簡単に言えば、「一から出直せ」ということです。古いものから決別して、完全に新しくやり直せ、ということであります。その後に「茨の中に種を蒔くな」と言われているように、古いものが残ったままで、いくらそれに手を入れてもだめなのです。

 そして、「主を求める時が来た」とホセアは叫びます。主を求めることなくして、同じようなものを求めているならば、何も新しくなりません。主を求めて初めからやり直す。それが悔い改めです。そうするときに、豊かな「恵みの雨」が注がれるのだ、と言われているのです。

 これがイスラエルに軛を負わせる神の意図でありました。神が背く者たちに対して「新しい土地を耕せ」と言ってくださることは、それ自体、神の大きな恵みです。しかし、イスラエルの民はそれを理解しませんでした。実際は、相変わらず悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べているような状態です。国難においてもまだ自分の力と勇士の数を頼りにしているのです。結局、神を求める者、新しい土地を耕す者はいないのです。次のように書かれているとおりです。
 「ところがお前たちは悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ。どよめきがお前の民に向かって起こり、砦はすべて破壊される。それはシャルマンがベト・アルベルを破壊し、母も子らも打ち殺したあの戦の日のようである。ベテルよ、お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる。夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる」(13‐15節)。

 ここに書かれているシャルマンによるベト・アルベルの破壊については聖書には出てきませんので、実際にはどのような出来事であったのかは分かりません。これを聞いていた人々にとっては馴染みの深い出来事だったのでしょう。いずれにせよ、くびきを負わされ、畑に出された時に、「新しい土地を耕す」ということをしなければ、最終的には国の滅亡にまで至るというのが、ホセアの預言でありました。そして、事実、イスラエルはサマリアの陥落と共に滅亡してしまうのです。私たちは、悔い改めを求められる神の豊かな忍耐と憐れみに目を向けると同時に、その呼びかけを無視したゆえにイスラエルが滅びを刈り取ったという事実を、私たち自身へのメッセージとして厳粛に受け止めねばなりません。


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