ヨハネにる福音書 2:1‐12
婚礼での出来事
「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた」(1節)と書かれていました。一方、イエス様と弟子たちについては「招かれた」と書かれています。イエスの母マリアは「招かれた」のではなく、婚礼においてある特別な立場にあったものと想像されます。その婚礼において、ぶどう酒が足りなくなるという事態が生じました。そこでマリアはイエスのところに行って事情を伝えます。「ぶどう酒がなくなりました」(3節)。明らかにある種の期待をもっての言葉です。しかし、イエス様の返答はつれないものでした。「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(4節)。
「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです」という返答については古来より様々な説明がなされてきました。例えば、「婦人よ、という呼びかけは、むしろ尊敬の表現なのだ。別に軽く扱っているわけではないのだ」、また、「『わたしとどんな関わりがあるのか』という言葉も、言葉のニュアンスによっては、『わたしにまかせておきなさい』ともとれる言葉だ」というように。
確かに「婦人よ」という言葉に軽蔑的な響きはありません。しかし一般的に子が親に向かって言う言葉ではありません。また、「わたしにまかせておきなさい」という解釈にも無理があります。なぜなら同じような表現が旧約聖書では明らかに拒絶の意味で用いられているからです(例えば、列王下3:13)。
ここは素直にそのまま読むべきであろうと思います。イエス様は明らかにマリアの求めを拒否しておられるのです。同時にマリアとの間にも一線を引くのです。そのようにして、主は単にマリアの息子としてそこに存在しているのではないことを示されるのです。マリアの子である以前に、神から遣わされた者なのであり、イエス様が「わたしの時」と呼ぶ、ある特別な時へと向かっている御方なのです。
ではイエス様は、マリアの願いを退けて、いったい何をなさったのでしょうか。水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われたのだ、と今日の聖書箇所は伝えます。「なんだ、結局はマリアの求めに答えられたのではないか」――確かに、結果的に見ればそうです。しかし、この福音書を書いたヨハネは、イエス様がマリアの願いを聞き入れて、祝宴が事なきを得たことに注目しているのではありません。そうではなくて、ヨハネは、この出来事を次のように締めくくっているのです。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。つまりこれが最初の「しるし」であったこと、そしてイエス様が「栄光を現された」ことに注目し、そのことを伝えようとしているのです。
最初のしるし
第一に、これは最初の「しるし」であったと聖書は語っています。
ある出来事が起こるとき、その出来事の意味がその時には分からないということがあります。イエス様が語られたこと、主が行われたことについても、その意味が当時の弟子たちにすべて理解されたわけではありません。いやむしろ弟子たちは全く理解していなかったことを福音書は隠すことなく伝えているのです。
このカナの奇跡もイエス様が為されたことを伝えるひとつのエピソードとして、語り継がれてきたのでしょう。しかし、そのイエス様のなさった奇跡が、実は非常に大事なことを指し示しているのだということを、後になって知ることになったのです。それゆえに、ヨハネはこの出来事を「奇跡」と呼ばずに「しるし」と呼んでいるのです。「しるし」にとって重要なのは奇跡的な出来事そのものではありません。それが何を指し示しているのか、ということなのです。そこで、もう一度、イエス様のされたことを振り返ってみましょう。
イエス様は「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。その水がめは、わざわざ「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」であったと説明されています。二ないし三メトレテスとは、大体80から120リットルぐらいです。大変大きな水がめです。当時はどこの家にもこのような水がめがありました。そこに入っている水は、主に清めの儀式のために用いられたのです。厳格なユダヤ人は実にしばしば清めを行ったのです。衣服や器物、手や体など、汚れを受けたと思われるものを洗い清めたのでした。食事のたびに手を清め、時には食事の最中にまで手を清めるのです。
このような「清めの儀式を守ること」、あるいはより広く見て「宗教的な戒律を守ること」は、往々にして二つの意識と結びつきます。一つは「恐れ」です。清めを行わないことが災いに結びつくことに対する恐れ。戒律を守らないことに対して罰が下るのではないかという恐れ。戒律を守らないことを他者から非難されることに対する恐れ。人は恐れに駆られて定められたことを行い続けます。そのようにして、戒律や規則にしばられた生活が形作られていきます。
もう一つは「誇り」です。戒律を遵守することによって得られる誇り。それはある意味では遵守しない者がいるから保たれる誇りでもあります。律法を持たない異邦人、律法を守らない徴税人や罪人たちを見下すことによって保たれる誇り。清めの儀式などは、まさにその典型であると言えます。一方に汚れた異邦人がいるのです。そして、汚れた罪人たちがいるのです。彼らに接触すると汚れるのです。その汚れを清めの儀式によって落とします。清さを保っている自分がそこにいるのです。そのように自分はあの人たちとは違う清い者であるという意識が、戒律にしばられた生活を支えるのです。
そのような戒律にしばられた生活が、命に満ち溢れた喜びとは全く無縁であることは明らかでしょう。その意味において、この「清めに用いる石の水がめ」は、喜びのない宗教的な生活を象徴的に示しているとも言えるのです。しかし、ここで何が起こっているのでしょう。イエス様はその「清めに用いる石の水がめ」の水を、芳醇なぶどう酒に変えられたのです!これはまさにイエス様が何のために来られたかを指し示すためのデモンストレーションであったといえます。
ぶどう酒は旧約聖書においてしばしば救いの喜びを表します(アモス9:14)。婚宴も同じです(イザヤ61:10)。この奇跡の業は、主がそのような大いなる喜びをもたらすために来られたことを示します。一生懸命に何かを行っているかもしれないけれど、その根底にあるのは恐怖か優越感でしかない――そのような命のない宗教生活に代えて、命に溢れた救いの喜びをもたらすために、主は来られたのです。清めの水に代えて喜びのぶどう酒をもたらすために!この出来事は、まさに「イエス様は私たちに何をもたらすために来られたのか」を指し示す「しるし」に他ならなかったのです。
栄光を現された
このことは、第二に、イエス様が「その栄光を現された」ことと密接に結びついています。
実は、この「清めの儀式」に関しては、イエス様とユダヤ人の間に論争があったことを他の福音書は伝えています。マルコによる福音書の7章をご覧ください。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(マルコ7:1‐4)。そして彼らは、なぜ汚れた手で食事をするのか、と責めるのです。
このようなことがあった後、イエス様は弟子たちにこう言われました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(同7:20)。
要するに、人々は汚れを清めるために一生懸命に清めの儀式をするけれども、自らを汚し、人を汚すものは外から来るのではなくて、内から出るのだと主は言っておられるのです。神から見るならば、私たちは内から汚れが出てくるような、徹底的に汚れたものだということです。本当に問題にしなくてはならないのは、人間の内面深くにまで及び、周りに溢れ出て大きく影響を及ぼす人間の罪の問題なのです。そして、人間の罪の問題は、清めの儀式として手を洗うことなど、形式的に戒律を守ることによって、どうにかなるような問題ではないのです。
しかし、イエス様は、そのような清めの儀式なし得なかったことを、自ら成し遂げようとしておられたのです。イエス様は、「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。そのイエス様が、「時が来た」と言われるとき来るのです。ヨハネによる福音書12章23節において、主はこう言っておられるのです。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(12:23‐24)。これを語っておられるのは、イエス様が十字架にかかられる直前です。イエス様は《十字架にかかられる時》を「栄光を受ける時」と呼んでいるのです。それはイエス様によって救いが成し遂げられる時だからです。
人を神から引き離す人間の罪は、清めの水によっては取り除かれません。戒律を守ることによっては取り除かれません。水がめの数が完全を表す「七つ」ではなく、それに足りない「六つ」であるのは、その事実を象徴的に指し示していると言えます。しかし、罪のないイエス様が、私たちの罪を贖う犠牲となってくださいました。罪を取り除く神の小羊として自ら贖いの血を流してくださいました。このキリストの犠牲によって、私たちは罪を赦された者として、神との交わりが与えられるのです。神との命の交わりに生きることができるのです。そのようにして、初めて恐怖でもなく、優越意識でもなく、神が注いでくださる愛と喜びが、私たちの生活を形作るようになり、さらには周りにあふれ流れるようになるのです。そうです、主によって清めの水はぶどう酒に変えられるのです。
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」とヨハネは書きました。カナでの奇跡は、やがて十字架において完全に現される栄光が、ちょうど雲の隙間から陽が射すように、ひととき垣間見られた出来事だったのです。