2024年1月28日日曜日

「キリストが共におられるとは」

ヨハネによる福音書 8:21-30

罪のうちに死ぬことになる

 イエス様は言われました。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)。

 このときイエス様は神殿の境内で教えておられました。宝物殿の近くでなされたファリサイ派のユダヤ人たちとのやりとりが直前に記されております。この言葉も直接的にはファリサイ派の人々に対して語られたものと見てよいでしょう。それにしても「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とは実に激しい辛辣な言葉です。こんなことを言われれば、誰であれ腹を立てるでしょう。

 しかし、考えてみるとイエス様は何も特別なことを言っているわけではないとも言えます。イエス様はただ当たり前のことを言っているに過ぎないのです。それは彼らがファリサイ派だからというわけではなく、イエス様に敵意を向けているからでもなく、ある意味では全ての人について言えることでもあるのです。

 というのも神から見て罪のない人間など一人もいないからです。人生には人の目に触れていることと人の目からは隠されていることがあります。しかし、神様の目から隠されているわけではありません。すべては神の前に明らかです。そのような神様の前で私たちたちが人生を終える時、「わたしは罪を犯しませんでした」と言って死ねる人はいないでしょう。その意味では、人間は誰しも罪人として死ぬことになるのです。「罪のうちに死ぬことになる」とは、まさにそのとおりです。

 それは人生の終わりに至らなくても、その途上においても、本当は分かり切っていることなのです。私たちは皆、後戻りできない人生を生きているからです。どんなに自分のしたことを悔いたとしても、それ以前に戻ってやり直すことはできない。神に背いたことをしたならば、その事実を後戻りして消すことはできない。それは事実として残るのです。その意味でイエス様がある時、人間の罪を借金に喩えたのは適切だと言えます。借金は忘れても残ります。罪の負い目も、私たちがたとえ忘れたとしても神の前に残ります。人は罪の負債を抱えたまま最後の日を迎えることになるのです。「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」。それはあの時、あの場所にいたファリサイ派の人たちだけの話ではありません。

 だからこそ人間には救いが必要なのです。自分ではどうすることもできないからです。また、他の人間によっても、どうすることもできないからです。他の人間は救いを与えることはできません。なぜなら他の人間もまた自分の罪の負債を抱えているからです。人間同士は、この世のことについて助け合うことはできるかもしれません。しかし、人は他の人に、本当の意味で救いを与えることはできません。自分の罪のうちに死ぬことになるという事実については、一切手を出すことができないからです。だからこそ人間からではない、神からの救い、天からの救いが必要なのです。

わたしは上のものに属している
 そして、天からの救いは来たのだと聖書は教えているのです。イエス・キリストという御方として、救いが来たのです。その方は自分自身についてこう語ります。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」(23節)。イエス・キリストという方は、こういうことを大まじめに語られる方なのです。そのような方のそのような言葉を世々の教会は信じてきたし、私たちも信じているのです。

 この御方を信じるということは、自分がもともと「下のものに属している」ということを認めることでもあります。自分たちはもともと「この世に属している」存在なのだと認めることです。そこに「上のものに属している」と言われる方が来なかったならば、私たちはもともと上のものには無縁なのです。下のものに属している者として、この世に属している者として、この世のことだけを考えて、この世のことに振り回されて、この世のことに動かされて罪を犯し、この世に属するものとして死んでいくしかなかったのです。罪のうちに死んでいくしかなかったのです。そのことを徹底的に認めてこそ、「わたしは上のものに属している」というイエス様の言葉が、どれほど大きな希望であるかが見えてくるのです。

わたしはある
 その御方がさらにこう言われます。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(24節)。「わたしはある」ということを信じないなら――明らかにぎこちない翻訳です。しかし、この言葉はユダヤ人ならばピンと来るのです。よく分かる。なぜなら誰もが知っている物語があるからです。

 その昔、イスラエルがエジプトの奴隷であったとき、解放者として神から選ばれたのはモーセという人物でした。彼はミディアンの羊飼いでした。その日も彼は羊の群れを荒れ野の奥へ追っていき、ホレブという山まで来たのです。すると彼は柴が火に燃えているのを見ました。燃えているのに燃え尽きない。この不思議な光景に誘われて近づくと柴の中から声がした。神の声でした。

 神はモーセに命じました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。当然、モーセは尻込みします。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導きださねばならないのですか」。すると神は言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 モーセは「共にいる」と言われる神に名前を尋ねました。人々から聞かれた時に何と答えましょうか、と。その時に神はモーセにこう答えたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。そして、さらにこう言われたのでした。「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(出エジプト記3:14)。

 このように聖書の神は「わたしはある」という名前なのです。それは「わたしはいる」と言い換えてもいいでしょう。神が「わたしはいる」と言われるなら、ただ一般的に神は存在する、ということではなくて、それは「あなたと共にいる」ということです。モーセに言われたとおりです。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。それが聖書の神の名なのです。共にいてくださる神を意味する名前なのです。

 そして、今日の箇所ではイエス様が御自分を指して「わたしはある」と言われるのです。イエス様が共におられるということは、かつてモーセを遣わした救いの神が共におられるということなのだ、と主は言っているのです。人間は人間を救うことができないから、天から独り子なる神が来られたのです。共にいてくださる神が来られたのです。そのことを信じないならば、「わたしはある」ということを信じないならば、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と主は言われるのです。それはある意味では当たり前のことです。天からの救いを退けるならば、もはや救いはどこにもないからです。

あなたは、いったい、どなたですか
 さて、ここまで聞いて、彼らはイエスに問いました。「あなたは、いったい、どなたですか」。これに対してイエス様は答えるのです。「それは初めから話しているではないか」と。そうです。イエス様がこのようなことを語っているのは、ここだけではありません。ヨハネによる福音書全体を貫いていると言ってもよいでしょう。一度じっくりとイエス様の言葉一つ一つを改めて読んでみてください。イエス様が御自分について何と言っているか、読んでみてください。この御方が、いわゆる立派な教師であるとか偉大な宗教家という範疇にくくれないことがよく分かります。真面目に耳を傾けるならば、誰でも問わざるを得なくなるはずなのです。「あなたは、いったい、どなたですか」。

 繰り返しますが、イエス・キリストは、「あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」というようなことを語られる方なのです。そして、世々の教会はそのような御方をその御言葉と共にいわば大真面目に信じてきたのです。二千年の長きにわたって信じて、伝えてきたのです。時に迫害を耐え忍びながら、命さえも脅かされながら、それでもなお信じてきたのです。この御方は「上のものに属している」御方であると。下のものに属していた私たちが救われるために、この世に属していた私たちが救われるために、罪のうちに生きて、そして死んでいくしかなかった私たちが救われるために、この世に来てくださった御方であると。

 イエス様は今日の箇所で人々にこう言っておられました。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)。その言葉のとおり、イエス様は確かにこの地上を去られました。父のもとに帰られました。その意味で「わたしは去って行く」と言われたとおりになったと言えます。

 しかし、もう一方において、イエス様はまだ去ってはおられないとも言えます。神の霊、聖霊が降って、今もなおキリストの体である教会がこの地上に存在しているからです。イエス様は今もこの世において生きて働いておられます。「上のものに属している」御方が、今もこの地上において永遠の救いを与えるために働いておられるのです。

 教会とはそのようなところです。私たちはここで天に属する方を信じ、その方につながって生きるのです。教会の営みはただこの世のことに関わっているのではありません。天に関わっているのです。バプテスマも天にかかわり、永遠の救いにかかわっているのです。そうでなければ、単なる水遊びでしかないでしょう。聖餐も天にかかわり、永遠の救いにかかわっているのです。そうでなければ、単なるままごとでしかないでしょう。

 礼拝にしても、伝道にしても、奉仕にしても、教会の営みはすべて、天に関わること、永遠の救いに関わることに携わっているのです。だから、天を思わずして行うなら、神の御業を思わずして行うならば、ただ人間のことしか考えていないなら、この世のことしか考えていないなら、ただ死の手前までのことしか考えていないなら、本当の意味で教会の営みとはならないのです。私たちと共にいてくださるキリストは、「わたしは上のものに属している」と宣言される御方だからです。私たちはそのキリストの体です。

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