2024年1月31日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 7:1~24

 出エジプト記 7:1-24

 主は言われました。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる」(1節)。そのように主が言われたのは、モーセが再び主の命令に抵抗したからです。6章28節以下に次のように書かれていました。「主がエジプトの国でモーセに語られたとき、主はモーセに仰せになった。『わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい。』しかし、モーセは主に言った。『御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか』」(6:28-30)。

 「唇に割礼のない者」とは、「口べた」という意味です。さらに言えば、わたしの口は清くもない(いつも正しいことを語っているわけではない)という意味合いも含まれているものと思われます。だから、ファラオに話に言っても無駄なのだとモーセは言うのです。

 これと同じようなことをモーセが4章で言っていたことを思い起こしてください。「『ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。』その時、主は言われた。『一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう』」(4:11‐12)。

 主が口と共にあると言われるならば、モーセが口べたかどうかなどは問題ではないのです。そもそも口が達者ならできるようなことをさせようとしているのではないからです。あくまでも神は、御自分の御業を、モーセを通して実現しようとしているのです。そして、「アロンがいるではないか」と言われて、いわば押し切られた形で従ったのでした。

 しかし、実際に主に従った結果、ファラオは言うことを聞き入れませんでした。むしろイスラエルの人たちの労働をさらに過酷にするということが起こったのです。それでもなお民に語れと主は言われる。しかし、6章9節にはこう書かれていました。「モーセはそのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」。

 そのように、イスラエルの人々ですらモーセの言うことを聞こうとはしませんでした。だからやはり言いたくなります。「わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか」と。モーセも、分かってはいるのです。問題は自分の能力ではなくて、神の御業であり、神のなさる事なのだ、ということは。自分はただ用いられるだけということも分かっているのです。しかし、現実に自分の弱さが露わになると、やはり自分ではだめだと思わずにはいられないでしょう。現実に自分が語っても、イスラエルの民でさえ聞こうとしない。人はやはり繰り返し、主に言いたくなるものなのでしょう。「わたしではだめです」と。

 だから主も同じことを繰り返し語られるのです。同じことを繰り返し聞かなくてはならないのです。主の大いなること、神が主権者であること、神が本当の支配者であることに目を向けなくてはならないということ、を。

 4章で語られていたことを主はもう一度繰り返します。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう」(7:1‐2)。

 それにしても、改めてもう一度この言葉を聞きますと、不思議に思えます。ここには「神からモーセへ。モーセからアロンへ。アロンからファラオへ」という図式がはっきり語られています。なぜこんなまどろっこしいことをするのでしょう。これを見るかぎり、モーセはいりません。アロンの方が雄弁であるならば、「神からアロンへ。アロンからファラオへ」で十分なはずです。そもそもアロンのほうが兄なのだから、アロンをリーダーにしたらよいのでしょう。しかし、人間の目から見たら「わたしはいらない」と思えたとしても、神様の中には位置づけがあるのです。どんなに人間の目に不要に見えても、そこにはモーセがいなくてはならないのです。そして、モーセでなくてはならない。他の人ではだめなのです。それが召命というものです。

 そして、さらにどうしてもモーセが聞かなくてはならないことを主は語られます。「しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない」(3-4節)。

 この「わたしはファラオの心をかたくなにする」という表現は前にも出て来ましたし、これからも繰り返し出て来ます。以前にも申しましたように、これは要するに、「ファラオがなかなかイスラエルを出て行かせなくて、出エジプトに時間がかかったのは、神が無力だったからではない。また、モーセが口べただったからでも、アロンがうまくやらなかったからでもない。そうではなく、これは神様の主権によること、神の御計画によることなのだ」と言っているのです。

 実際、エジプトからの解放は手間取るのです。12章まで続くのです。ファラオはなかなかイスラエルを去らせません。そうしますと、十分に説得力のあることを神がなさっていないからであるように見えなくもない。実際、杖を蛇にするぐらい、魔術師だってできるのです。あるいはいかにアロンが雄弁でも説得はできなかったから、ファラオは頑迷なままであったように見えなくもない。しかし、そうではないのです。神はそのようなことは初めから分かっていたのです。むしろ、神に逆らっているファラオの心を頑なにしてしぶとくしたのは神だというのです。

 ボクシングに喩えるならば、この試合は1ラウンドKOの試合じゃなくて、勝つのに12ラウンドかかった試合に見えるのです。普通に考えるならば、青コーナーのファラオと赤コーナーの神様の力に大差なかったから最終ラウンドまでもつれ込んだように見えるのです。しかし、神は試合前に言われるのです。ファラオには最後まで持ちこたえさせて、最終ラウンドでのKO決着にする、と。

 実際、これから読んでいくことは、そのように進んでいくのです。そして、モーセはどうしてもこれを聞いておく必要があったのでしょう。なぜなら、何度やっても駄目だったら、普通は嫌になるからです。やっぱり自分では駄目なのだと思うでしょう。だから、これは相手のしぶとさをわざわざ引き出すような試合になることを初めから伝えているのです。モーセは初めからそのつもりでいなくてはならない。

 しかし、なぜ1ラウンドでKOできるのに、最終ラウンドKOにするのでしょう。主はこう言われるのです。「わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」(5節)。ここで戦いの当の相手である「ファラオは」と主は言われないのです。そうではなく「エジプト人は」と言われるのです。

 さて、「わたしは主である」とはどういう意味であったか先週の箇所を思い出してください。それは「共にいる神」であり、さらには、「救い出す神」であり、「神の民とする神」であり、「地上に存続させ用いられる神」であるということなのです。そのような神、ヤハウェをエジプト人も知るようになるというのです。

 実際、この12ラウンドを通して何が起こったかを私たちは見て行くことになります。ファラオはかたくなであり続けますが、エジプト人の内に変化が起こってくるのです。そして、最終的に、エジプト脱出の際には、「そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった」(12:38)と書かれているのです。すなわち、脱出したのは、ヘブライ人だけではなかったということです。エジプトの奴隷たちだけではなかったのです。そこにはエジプト人も含め「種々雑多な人々」も加わっていたのです。そのようにしてイスラエルは血縁共同体ではなく、出エジプトという神の恵みを土台とした契約共同体となっていくのです。

 さて、このように主の言葉をいただいて、モーセとアロンは再びファラオの前に立つことになります。そこでモーセがしたのは、かつてイスラエルの人々の前で行ったことでした。実際にはアロンがモーセの杖を用いたので、ここでは「アロンの杖」と呼ばれています。その杖が蛇になるというしるしが神によって与えられました。これはかつて4章30節でイスラエルの民の前でアロンが行ったことです。その時、民は信じました。しかし、それと全く同じことをファラオが見ることになるのですが、彼は信じません。

 奇跡は必ずしも信仰を生み出さないことが分かります。これは新約聖書においても同じです。イエス様の御業を見ても、信じない人は信じない。天からのしるしを求める人(マルコ8:11)は、しるしを見せられても信じないものです。ファラオは奇跡を見た時に、魔術師に同じことをさせました。彼らは同じことをすることができました。つまり神でなくても同じことは起こるということです。そう思えれば信じなくてよいのです。しるしを見ても、信じないつもりでいる人は、「神でなくても同じことは起こる」と言って別の説明を試みます。

 同じことは、血の災いにおいても起こります。エジプトの魔術師が秘術を用いて同じことをするのです。それをもってファラオは信じようとはしません。このように、奇跡は必ずしも信仰をもたらしません。しかし、主が事を成されるならば、それは「しるし」なのです。大切なことを指し示す「しるし」なのです。「このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る」と主は言われます。それは主がどのような御方であるかを示すしるしなのです。

 一つ目においては、アロンの杖が魔術師の杖を呑み込みました。主はエジプトの魔術の源となっている神々の上におられます。ナイルが血に変わることも同じです。ナイルはファラオに従うと信じられていたのです。しかし、ファラオの思うようにはなりません。なぜなら、それは主による被造物であり、主がその上におられるからです。主はファラオの上に君臨しておられます。そのことを主はファラオに示しておられるのです。

 このように、奇跡の物語、ファラオとの戦いの物語が続きます。人間の罪が神のご計画を阻んでいるように見える行程、それは往々にして不要なプロセスに見えるのでしょう。しかし、神の御計画の中において、それは主が御自分の主権と支配と栄光を表す大切なプロセスなのです。


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