2024年1月17日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 5:1~23

出エジプト記 5:1-23

 ここまでは、すべて主の言われたとおりになっていました。まず、エジプトに帰る途中でアロンに出会ったこと。心配していたイスラエルの民のこと。アロンと一緒に行って語った時、イスラエルの長老たちは信じたのでした。そして主を礼拝した。「主が言われたとおりだ」と思ったに違いありません。すべて主のご計画のもとで事は進んでいることを、モーセは実感していたはずです。

 5章は「その後」という言葉から始まっています。イスラエルの民が信じて、主を礼拝した、「その後」です。ですから、モーセは確信に満ち、意気揚々とファラオの前に出たに違いないのです。自分には偉大なる主が着いていることが分かっています。主は確か言われたのです。「わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう」(4:15)。また、その手にはしるしを行った「神の杖」を持っているのです。

 モーセは大胆にもファラオにこう言いました。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」(1節)。これがファラオに告げられた言葉です。これはたいへん重大な内容を含んでいるので、ファラオの反応と事の成り行きを見る前に、まずこの意味するところをしっかりと捉えておきましょう。

 第一に、この言葉はファラオの絶対的な支配に対する挑戦を意味しました。すなわち、エジプトの王ファラオよりもイスラエルの神、主の方が上に位置しているという宣言に他ならないのです。だから上から主がファラオに命じるのです。「荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」と。そして、ファラオはそれに従わなくてはならない、ということなのです。

 これが当時においてどれほど驚くべき宣言であったかを考えなくてはなりません。当時の超大国エジプトの王ファラオは絶対的な権力をもって支配している、神格化された王なのです。ファラオが言うことは絶対であり、イスラエルは従わなくてはならないのであり、その意味でファラオはイスラエルにとって神の位置にいたのです。しかし、4章の終わりにおいて、イスラエルの長老たちはファラオではなく主を礼拝したのです。イスラエルにとってあくまでも神はファラオではなくて主であると彼らは認識したのです。

 この世の神に対して、主をその上に位置すると宣言すること。そのような意味において主を礼拝すること。それが主を信じるということなのです。私たちが神を信じる。またキリストを信じるとはそういうことなのです。すなわち、まことの王は誰かという話なのです。

 例えば、日本という国家が「あなたがたは主を礼拝してはならない」と命じたとします。その命令に従って教会が礼拝をやめたら、主がこの世の神の上にあると宣言していることにはなりません。その人、その教会にとっては国家が神であるということになるのです。これから見ていきます出エジプトの闘いは、まさに主をまことの神として信じるのか否か闘いだったのです。この世の神か主なる神か、どちらに従うのかという闘いだったのです。

 第2に、出エジプトの意味がここで明確に表現されています。出エジプトは、ただ苦しめられていたイスラエルの民が、「苦しみから解放された」という出来事ではないのです。彼らが解放されるのは、主を礼拝する民となるためだったのです。ただエジプトという国家の支配から自由になるだけでは、本当の意味で解放にはならないのです。主を第一とし、主を礼拝する民となり、他の一切が彼らにとって神ではなくなったときにこそ、本当の解放があるのです。だから、彼らはエジプトを脱出しただけではなく、その後にはシナイ山に導かれ、十戒が与えられるのです。そして、十戒の第一戒には「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と書かれているのです。

 わたしたちがキリスト者とされたのも同じです。キリスト者となるのは、ただ自分の悩みや苦しみから解放されるためではありません。そうではなくて、主を礼拝する民となるために救われたのです。他の何ものをも神としない、本当に解放された人となるために救われたのです。

 さて、この宣言を耳にして、ファラオはどうしたでしょうか。彼は言いました。「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」(2節)。

 先ほど言いましたように、モーセの言葉はファラオの絶対的な支配に対する挑戦を意味しました。それをファラオも分かっているのです。だから「どうして従わなくてはならないのか」と言うのです。わたしは主などという、どこの馬の骨か分からないような奴には従わないと宣言するのです。

 このやりとりが「支配の問題」であるという理解は重要です。誰が支配するのか。イスラエルは誰に仕えるのか。主という名前の神に仕え、ファラオが課した労働であっても、それは一旦置いておいて主を礼拝するのか。それともファラオを従うべき第一とするのか。ファラオとしては、当然、自分が第一なのです。だから、ファラオは次のような行動に出たのです。

 「ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。この者たちは、仕事をきつくすれば、偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう』」(6-9節)。

 この仕打ちの大義名分は、「彼らが怠け者である」という主張です。しかし、怠け者であることが問題で、十分な働きをしていないということが問題ならば、こんなことをしないで作らせるれんがの数量を増やしたほうがいいはずでしょう。その方がファラオにとっては利益になるのですから。しかし、ファラオはそうしなかったのです。「わらを与えない」という決定をしたのです。それは何を意味するのでしょうか。

 わらはれんがを作る時の「つなぎ」です。これは脱穀した後に残ったものを使うのです。これはれんがに使わなかったら無駄なゴミになるだけなのです。しかし、それを「与えるな」とファラオは言ったのです。これが与えられなかったら、畑に残っている切り残しを自分で抜いて来るしかありません。これはれんが作りよりも辛い作業となるでしょう。明らかにこれは自分に従おうとしない者、命令に服しようとしない者、自分よりも何かを上にする者に対する処罰であり、あくまでも自分が絶対的な支配者であることを体で覚えさせるための処罰なのです。

 このように、モーセとアロンが主に従ったために、イスラエルの民は「処罰」され、苦境に立たされることになりました。イスラエルの下役たちはモーセたちを責めて言いました。「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」(21節)。

 モーセは主の召命を受け止めました。そして、主に従ったのです。しかし、物事はうまく運びませんでした。それは苦しいことであったに違いありません。しかし、最も苦しいことは、自分が苦しむことではなく、誰か他の人を悲しませたり苦しめたりしてしまっている事実だったに違いありません。自分が従ったために、誰かを苦しみに巻き込んでしまう。その時に、自分が召されたことの意味、自分が従ったことの意味が見えなくなってしまうということは起こり得ることでしょう。

 自分が洗礼を受けてまわりがみんな喜んで、幸せになりました。――と、そういうことばかりではありません。洗礼を受けて、親が悲しみました。周りの人たちが怒りました。苦しみました。そういうこともまた起こり得ることなのです。その時に、神が召してくださったことの意味が見えなくなっていますことはあり得ることでしょう。

 しかし、その時にモーセはどうしたでしょうか。「主のもとに帰った」と書かれているのです。召命が見えなくなったら主に帰るのです。この悪しき事態をなんとかしようとする前に、主に帰るのです。そして、主に訴えるのです。モーセはそうしたのです。すると主からの答えがありました。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」(6:1)。

 「わたしがファラオにすることを見るであろう」と主は言われました。「わたしがやる」と主は言われるのです。実は、このことは既に語られていたのでした。ファラオが拒否することも、語られていたのです。「しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている」(3:19)。神様はご存じなのです。人間には目先のことしか見えませんが、主は先までを見通しておられます。私たちが見ているのは、あくまでも途中経過でしかないのです。

 物事が上手く行っている時、私たちはすべてが主の支配のもとに進んでいると思うかもしれません。しかし、物事が上手く行かない時にも、やはり私たちは主の支配のもとに進んでいるのです。失敗しようが、つまずこうが、主に従って踏み出したのなら、大丈夫なのです。主はあなたを確かに用い、召された目的を実現してくださるのです。

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