出エジプト記 6:1-13
モーセとアロンは主に従い、ファラオのもとに出かけて行きました。そして、主の命令を伝えたのです。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」と」(5:1)。先週お話ししましたように、この言葉は、それ自体、ファラオの絶対的な支配に対する挑戦を意味することになります。主はファラオに命じる位置にあるということになるからです。
もちろん、ファラオは自分の上にある主の支配を認めようとはしません。あくまでも絶対的な神的な存在として主の命令をはねつけます。いや、それだけではありません。「ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。・・・』」(同6‐8節)。ファラオは、あくまでも自分が絶対的な支配者であることを彼らに体で覚えさせるために処罰を下すのです。
モーセは主に従ったのです。しかし、それは結果的にイスラエルの民を救うことにはなりませんでした。いや、かえって彼らを苦しめることになったのです。それはただ自分が苦しむこと以上に苦しいことだったに違いありません。モーセは苦しみの中から主に訴えました。
すると主は言われたのです。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」(6:1)。
「今や」と主は言われました。「今」が強調されています。その「今」とは、事態がますます悪くなっていくように見える「今」です。モーセもイスラエルの民も苦境に立たされている「今」です。その事態において何もなす術のない「今」です。しかし、そのような「今」こそ、「あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう」と主は言われるのです。「わたしがすること」すなわち「神がすること」を見るであろう、と。
そこで主はモーセに言われたのです。「わたしは主である」と。
「主」と訳されているのは「ヤハウェ」という言葉です。「わたしはヤハウェである」と神はモーセに言われたのです。アルファベットで言うならばYHWHという子音4文字の単語なので、どう発音するか正確には不明です。学者は恐らく「ヤハウェ」と読んだのだろうと推測します。しかし、大事なのは発音よりも意味です。その意味するところは、既にモーセに知らされているのです。
3章まで遡ると、こんなことが書かれています。まだファラオのもとに行く前のことです。モーセは主にこう尋ねました。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。すると主はこう答えたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(3:14)。そして、これこそまさに「ヤハウェ」という神の名前の意味するところなのです。
「わたしはある。わたしはあるという者だ」。しかし、「わたしはある」あるいはもっと自然に訳せば「わたしがいる」となりますが、「わたしがいる」と言いましても自分と無関係な神がどこかに「いる」ということならば大した意味はないでしょう。明らかにここで言われているのはそういうことではありません。「わたしがいる」とは、モーセと共にいる、ということです。「ヤハウェ」という神は、「共にいる神」なのです。そのような意味において、今日の箇所においても「わたしは主である。わたしはヤハウェである」とモーセに語っておられるのです。
いや、「わたしは主である」という言葉は、ただモーセだけが聞けばよいのではありません。イスラエルの民もまた聞かなくてはならないのです。ですから、主はモーセに言われるのです。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である」と。主はイスラエルの民にも「わたしはヤハウェである。共にいる神である」と語ろうとしておられたのです。
6節から8節にかけて、モーセが民に語るために与えられた言葉が記されています。それは「わたしは主である」という言葉に始まり、「わたしは主である」という言葉に終わります。そこには「わたしは主である」という言葉が何を意味するのか、神が「共にいる神」であるとはどういうことかが明瞭に語られているのです。
「わたしは主である」と言われる主は、さらにこう続けます。「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」(6節)。そのように神は「腕を伸ばされる神」なのです。「腕を伸ばす」とは、神がこの地上の現実において力を現すことを意味します。
神はこの世界の歴史に介入し、この地上において営まれる人間の生活に介入される神です。神は観念の神でもなければ、ただ心の中におられる神ではありません。神は腕を伸ばして、奴隷であったイスラエルをエジプトから解放される神なのです。
主の言葉はさらにこう続きます。「そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」(7節)。このような関係を聖書は「契約」と呼びます。「わたしは主である」と言われる神は、人と契約を結ばれる神なのです。
契約を考える時、私たちは結婚を考えたらよいでしょう。結婚をすると、お互いは「単に大勢いる男の中のひとり」「単に大勢いる女のひとり」ではなくなります。「あなたはわたしの夫」「わたしはあなたの妻」という関係になるのです。主はそのような関係を求められる神、契約を結ばれる神です。この神と共に生きるとは、「あなたはわたしの神、わたしたちはあなたの民」と言って生きることに他ならないのです。
さらに主はこう言われます。「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える」(8節)。「土地を与える」のは、彼らが世代を超えて地上に存続するためです。「あなたはわたしの神、わたしたちはあなたの民」と言って生きる人々が、具体的に目に見える形で、この世界のただ中に存続することを主は望んでおられるということです。そのようにイスラエルはこの地上に存続し、そして教会もまた存続してきたのです。私たちは与えられた地において、具体的に目に見える形をもって、神の民として生きていくのです。
「わたしは主である」。苦しみの中にあったモーセに神はそう語られました。モーセは苦しみの中にあるイスラエルの民にこの主の言葉を伝えるのです。「わたしは主である」。ファラオが支配しているとしか見えないエジプトの世界のただ中において、彼らは「わたしは主である」という言葉を聞いたのです。
もっとも、「彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」と書かれています。しかし、彼らはやがて見ることになるのです。神が「わたしは主である」と言ってくださるということは、どういうことであるか。彼らは目の当たりにすることになるのです。それが出エジプトの出来事なのです。
そして、ここにいる私たちもまた同じ言葉を聞いています。神との関わりを失った世界のただ中において、神ならぬものが支配しているとしか思えないこの世界のただ中において「わたしは主である」と語る神の言葉を聞いているのです。あの時のモーセのように、ただ為す術なく立ち尽くすしかない私たち、あの時のイスラエルの民のように、ただ他者の責任を問い非難するしかない私たちに、主は語られるのです。「わたしは主である」と。
その神こそ、イエス・キリストを通して御自身を現された神です。まさに私たちと共にいてくださる神であることをキリストによって現してくださった神に他なりません。「わたしは主である」。私たちにとって何を意味するのか、かつてイスラエルの民がその目で見たように、私たちもまた見ることになるでしょう。