2023年11月15日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 1:1~22

出エジプト記 1:1-22


 本日から出エジプトの物語を読み始めます。1章から20章までを予定しています。今日はまず、出エジプト記に入る前に、創世記とのつながりについてお話ししておきます。

 創世記も出エジプト記もいわゆる「モーセの五書」の一部です。モーセの五書とは創世記から申命記までで、ユダヤ人はこれをトーラー(律法)と呼びます。その内容は、天地創造から約束の地、カナンの地に入るまでです。

 しかし、五書全体を見渡しますと、時間的な圧縮具合が均等ではないことに気づきます。一番圧縮されているのが創世記1~11章です。世代としては19代にわたる物語が11章に圧縮されて語られています。次に圧縮されているのが創世記12章から終わりまでで、ここにはアブラハムからヨセフまでの4世代の話が書かれています。これを族長時代と言います。続く、出エジプトから申命記までは4冊あるのですが、ここは世代としてはモーセ一代の話です。

 このように見ますと、一番ページ数を割いているのは単純に考えてモーセ一代の話です。モーセ五書というまとまりの中では、一番伝えたいことはモーセに関する話だということが分かります。

 結論から言ってしまうと、一番重要なこととして語られているのはエジプト脱出と、その後にシナイにおいてなされる神との契約なのです。特に後者が重要なのであって、アブラハムからヨセフまでは、あえて言うならば「前置き」なのです。そして、創世記の最初の11章(「原歴史」と呼ばれます)はその前置きの前の特別な部分と言えるのです。

 そのように、出エジプト記以下の全体の流れとしては、エジプト脱出、そしてシナイ山へ、さらに十戒が与えられ神との契約へと続きます。そして、これらを経て、主を礼拝し、主に仕える契約の民としての「神の民」が生まれることになるのです。そして、ここで重要なのは、「あくまでも、恵みが先である」ということです。彼らは律法を守ったから救われたのではありません。出エジプトという神の恵みによる救いが先にあるのです。その救いに基づいて律法が与えられているのです。言い換えるならば、出エジプト、奴隷状態からの解放がゴールではないのです。救い自体がゴールではない。神の民とされて、約束の地に向かうという、その目的に向かっての出エジプトであり救いなのです。

 さて、以上のことを踏まえた上で、今日の箇所に入ります。今日の箇所の第一のポイントは「奴隷状態」ということです。

 創世記15章において、主はアブラハムに二つの約束を与えられました。一つは「あなたの子孫は星の数ほどになる」ということです(創世記15:5)。もう一つは「わたしはあなたにこの土地(カナンの地)を与え、それを継がせる」(創世記15:7)です。確かに、子孫は増え広がって、第一の約束は実現に向かっています。しかし、まだ「この土地を与える」の部分は実現してはいません。しかし、そこに向かって神の計画は進んでいるのです。そして、この神の計画が進んでいく途中に、今日お読みした「奴隷状態」という苦難が置かれているのです。

 言い換えるならば、苦難があるということは、これは異常な状態ではない、ということなのです。神の御計画の完成、救いの完成に向かう途中に、いわば初めから盛り込まれているものなのです。それは創世記15:13以下に次のように語られていることからも分かります。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。・・・」

 この苦難の中において、まさに神の大いなる御業を見ることになるのです。実際、1章7節までのところには、神様への言及はまったく出てきません。神様と具体的に触れ合うことになるのは8節以下なのです。

 いや、それだけではありません。神の御業だけでなく、神の愛に触れる接点が、この奴隷状態だったのです。だから、奴隷であったことをイスラエルは忘れませんでした。というよりも、神様によって繰り返し思い起こさせられたのです。例えば、申命記7:7、エゼキエル16:4-5に記されているとおりです。奴隷状態、惨めな状態、苦しみあえいでいた無力な状態であったということを思い起こさせられているのです。

 そのように苦難を受けたり、低くされたり、小さくされたり、無力さを思い知らされたりする状態を異常な事態と思ってはならないのです。本来あるべきでないもの、あってはならないことと思ってはならないのです。

 そのことを念頭に置いた上で、「ヨセフのことを知らない新しい王」の登場に目を向けましょう。次のように書かれています。「そのころヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し」(8節)。ここに神ならぬエジプト王の支配について書かれています。その王の支配は、イスラエルの「増加を食い止めよう」とするのです。

 既に見てきましたように、「増加」は神の約束に基づくものです。言い換えるならば、神のご計画に従って進んでいるのです。そこでエジプトの支配は、いわば神の祝福、神の計画に逆らう力として描かれていることが分かります。つまりエジプトというのは、神の意図に逆らって動き、神に代わって支配しようとする「この世」を象徴しているのです。

 エジプトそのものは、当時においては最も豊かな世界です。ナイル川の定期的な氾濫によって潤っている豊かな世界です。しかし、それは神の計画に逆らう世界であり、その中にイスラエルはいたのです。その一部としてそこにいたのです。

 しかし、そこはイスラエル、神の民が最終的に属するところではありません。神の約束はカナンの地にあるのです。エジプトは彼らが属する場所ではないのです。イスラエルは図らずもそのことを思い知らされることになるのです。何によってですか。苦難によってです。この世から苦しめられることによってです。

 この世において、この世から苦しめられることは、神の民にとって本当はとても大きな意味を持っているのです。そうでなければ私たちは、私たちはこの世のものを追い求め、この世こそ最終的に求めるべき目的だと思ってしまうのでしょう。しかし、そうではないと神は言われるのです。イスラエルはあくまでもこの世においては寄留者なのです。そして、彼らは苦難を経ることによってそのことを痛感することになるのです。

 その意味でも、苦しみ、この世における苦しみは大きな意味を持つのです。そうでなければ人はこの世に属さないものを求めない。永遠なるもの、また神御自身を求めないし、神が約束している救いの世界を求めることはないからです。

 さて、エジプトの王は、虐待してもイスラエルが「虐待されればされるほど彼らは増え広がった」という現実に直面することになります。そこで王はついに間引き政策を採ることにしました。王はヘブライ人の助産婦に「「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ」と命じたのです。

 子どもが殺されるということは、民にとっては未来を奪われることを意味します。それは希望を失うということでもあります。しかし、そのような中で希望を失わない人たちがいたのです。それがかのヘブライ人の助産婦たちでした。彼らは、自分たちができることを、希望をもって行いました。それはなぜか。「助産婦はいずれも神を畏れていたので」(17節)と書かれています。神を畏れるとは、具体的には「王の命令に従わなかった」ということでした。それは本当の支配者が誰であるかを彼らが知っていたということなのです。本当の支配者は、主なのであり、エジプト王ではない。それゆえに「王の命令に従わなかった」のです。

 興味深いことは、ここでエジプト王の名前が記されていないことです。だから時代が分からないのです。「ピトムとラメセスを建設した11節)ということで、歴史的にはラメセス2世の治世であろうとは言われています。しかし、聖書はあえて彼の名前は記さないのです。それと対照的なのは、無力な助産婦の名前が記されているということです。彼らの名前は世々に告げ知らされることになるのです。この世における超大国の支配者よりも、彼らの方が、神から見たらよほど重要であり大きな存在だからです。

 そのように、イスラエルのエジプト脱出とは、二人の助産婦だけではなく、民全体が主の支配を目の当たりにし、主を畏れ、主を礼拝して生きるようになるためのエジプト脱出だったのです。

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