2023年11月26日日曜日

「真理を証しするために来られた方」

ヨハネによる福音書 18:33‐40

 本日の福音書朗読で読まれましたのは、イエス様が十字架にかけられる前、総督ポンティオ・ピラトのもとで裁判にかけられている場面です。その時、イエス様はピラトに対してこう宣言されたのです。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」(ヨハネ18:36)。

妬みと偽り
 まず、イエス様が御自分の王国について語られたその場面をもう少し詳しく見ておきましょう。今日は33節からお読みしましたが、その前の28節以下には次のように書かれています。「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸には入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出てきて、『どういう罪でこの男を訴えるのか』と言った。彼らは答えて、『この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう』と言った。ピラトが、『あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け』と言うと、ユダヤ人たちは、『わたしたちには、人を死刑にする権限がありません』と言った」(28‐31節)。

 人々はイエスを総督に訴えました。この男は悪いことをした、と言って訴えたのです。死刑に価する悪いことをした、と。ただ死刑にする権限は彼らにはありませんでした。ですからその権限を持つローマの総督に訴え出たのです。人々はイエスを訴えた、と言いましたが、その人々とは一般的な民衆ではありません。大祭司カイアファのところから来た人々です。すなわちその中心にいるのは宗教的な権威者たちです。

 イエスという存在は、当時の宗教的な権威者にとっては、まさに脅威でした。皆がイエスに引きつけられていったからです。ナザレのイエスという御方は当時の宗教的な教師たちとは全く異なる存在でした。人々はイエス様を通して、宗教的な教えや戒律に触れたのではないのです。神の愛のリアリティに触れたのです。それゆえに多くの人々がイエス様に惹かれていきました。するとどうなりますか。それまで宗教的な権威と見なされていた彼らの立場は脅かされることになります。彼らがイエス様に敵意を抱いた理由の一つがここにあります。マルコによる福音書には、あからさまに、こう記されています。「(ピラトには)祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(マルコ15:10)と書かれているのです。

 しかも、人々が熱狂的にイエスに従うようになると、さらに困ったことが起こります。ローマ帝国に対する反乱と見なされる可能性があるからです。そのようなことにでもなればローマ人たちは軍隊を送り込んでくるでしょう。そのように彼らは宗教的にも政治的にも脅威にさらされていたのです。そこで大祭司カイアファはこう言ったのです。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(11:49‐50)。つまり、イエスを抹殺してしまえば済む話ではないか、ということです。そして、その後にこう書かれているのです。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」(同53節)。

 彼らは妬みと自己保身から一人の人間を抹殺しようとしていたのです。そのような彼らが、自らの正義を振りかざしてイエスを訴えている。それが今日お読みした場面なのです。イエスは悪だ。自分たちは正しい。そう言って訴えているのです。実際にはそこにウソがあるわけでしょう。その背後にあるのは醜い妬みと自己保身なのですから。

 しかも皮肉なことに、こう書かれているのです。「彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」(28節)彼らはイエスをなんとしてでも死刑にするためにローマの国家権力に訴え出ているわけですが、本音を言えばローマ人なんてイヌやブタと一緒だと思っているのです。ユダヤ人にとっては汚れた者なのです。汚れた者の住んでいるところに入れば自分が汚れてしまう。だから汚れないで過ぎ越しの食事をするために、総督官邸には入らなかったのです。

 実に皮肉な描写ではありませんか。彼らは汚れることを避けているのです。しかし、他者を汚れた者と見なしながら、いかにも「われわれは清い人間だ」って顔していながら、自分の内にある醜い思い、汚れた心に気づかない。他人をイヌやブタのごとくに見下しながら、そういうことをしている自分の下劣さに気づかない。人を罪に定めながら、自分の罪に気づかない。それがここに描かれている人々の姿なのです。

 しかし、これはまさにこの世のありのままの姿でしょう。私たちは、聖書が描き出すまでもなく、もうそういったウソで塗り固められた醜い現実をうんざりするほど見聞きしているわけです。そして、さらにうんざりすることは何かと言えば、そうやってこの世の有り様にうんざりしている私たち自身が、まさにそのような醜いこの世の一部になっているという事実でしょう。ここに描かれている姿は、誰か他の人々の姿なんかじゃない。他ならぬ私たち自身の姿でもあることを私たちは良く知っているのです。

 そんな私たちに、今日の聖書箇所は何を伝えてくれていますか。そんな醜いこの世界のただ中に、うんざりするような人間の醜さのただ中に、キリストが立っておられる。救い主が立っておられる。それが今日お読みしている場面なのです。そこでイエス様はこう宣言されるのです。「わたしの国はこの世に属していない」と。そうです。イエス様はこの世に属さない、この世の一部ではない、もう一つの王国ことを語られたのです。

真理の支配する国

 しかし、その場面を想像してみてください。その言葉はピラトには相当滑稽に聞こえたに違いありません。それはそうでしょう。イエスは「わたしの国」について話しているのです。それは「わたしの王国」という言葉なのです。ボロ雑巾のようにされて、縛られて、訴えられて、殺されようとしている無力な男が、「わたしの王国」について語っているのです。ですからピラトは言ったのです。「それでは、やはり王なのか」と。それは明らかにバカにして言っているのです。それに対してイエス様はお答えになりました。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と。

 実は、細かいことになりますが、これは「わたしが王だとは、あなたが言っているのであって、実際にはそうじゃない」という意味ではないのです。この言葉は、「わたしが王であるとは、あなたが言うとおりだ」とも訳せるのです。「わたしの王国」について語っておられたのですから、ここでもやはりイエス様は自らが王であると主張しておられるのです。

 しかし、イエス様は自らが王であることを語られた上で、こう続けられました。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。そのようにキリストの王国は、真理によって形づくられるのです。そこで問題となるのは何ですか。「真理とは何か」ということでしょう。ですから、ピラトも尋ねているのです。「真理とは何か」と。

 皆さん、真理とは何ですか。実はこの「真理」とは、ここにいる私たちにとっても、生々しい身近な話なのです。というのも、ここでいう真理とは「見せかけのもの」に対する「見せかけでない本物」、「嘘や偽り」に対する「嘘や偽りではないもの」を意味する言葉だからです。ですからさらには、本当に信頼できるもの、本当に大丈夫と言えるものを意味する言葉でもあるのです。ですから「真実」と言った方が良いのかもしれません。

 ならば私たちにとって、これは本当に身近な話なのです。なぜなら、先に見たように、私たちはうんざりするほどのウソや偽りに満ちた世界に生きているからです。そのような世界のただ中にイエス様は立って言われるのです。「真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」と。

 いったい何が真実なのか。いったい何が見せかけでない本物なのか。いったい何が本当に偽りではないと言えるものなのか。いったい何が本当に信頼できる真実なるものなのか。イエス様は何を証しするためにこの世に来られたのでしょうか。――それは神の愛なのです。嘘と偽りに満ちたこの世を、罪と汚れに満ちた私たちを、それでもなお愛して赦して受け入れくださる、その神の愛なのです。神の愛という、唯一真実なるものを証しするためにイエス様は来られたのです。

 イエス様は神の愛をどのように証しなさるつもりだったのでしょう。それがこの先に書かれているのです。十字架にかかることによってです。私たちの罪の贖いとして十字架にかかることによってなのです。私たちのために血を流し、命を与えることによってです。ですから、ヨハネはその手紙において次のように語っているのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10)。その意味でキリストは神の愛そのものです。

 その御方が、もう一つの王国について語っておられるのです。目に見えるこの世界のただ中に、この世に属さない、目に見えない王国が到来しているのだと言っておられるのです。見せかけではない愛、嘘や偽りではない愛、決して変わらない真実なる愛、神の愛の王国が到来しているのです。神の愛そのものであるキリストと共に到来しているのです。そして、私たちはそこに招かれたのです。もう一つの王国に生きるようにと呼び集められて今ここにいるのです。

 ならば私たちは、この世に満ちる嘘や偽りだけを見て、人間の不真実だけを見て、絶望する必要はないのです。この世の罪だけを見て、他の人や自分自身の罪だけを見て、絶望する必要はないのです。神の真実はこの世の不真実よりも強いからです。神の愛はこの世の罪よりも強いのです。キリストが十字架において証ししてくださった永遠なる真理、永遠に真実な神の愛の方が強いのです。私たちはただひたすら、キリストが証ししてくださった神の愛を信じて生きるのです。神の愛の支配の中にあって、真実なる神の愛に信頼して共に生きて行くのです。そのようにして、私たちは、この世のただ中にあって、もう一つの王国に生きるようにと招かれているのです。

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