2023年11月5日日曜日

「裁くためではなく、救うために」

 ヨハネによる福音書 3:13-21

神は世を愛された
 今日福音書朗読で読まれた聖書の言葉の内、特にヨハネによる福音書3章16節は聖書の中で最も愛されている言葉の一つです。そのまま暗唱している方も多いことでしょう。

 そこには「神は世を愛された」と語られていました。 「世」とは何でしょうか。その意味するところの第一は、「すべての人」ということです。神様は特別なひとを愛されたのではありません。「神様は信心深い人を愛して下さった」とは書かれておりません。「神様は善良な人、正しい人を愛して下さった」とも書かれてはおりません。「神は世を愛された」のです。その「世」に含まれない人は一人もいません。

  さらに、ヨハネによる福音書が「世」という時、そこには特別な意味合いが込められています。「世」とは神に造られ、神に支えられているのにもかかわらず、神に背を向けているこの世界のことです。すべてを神にいただいているにもかかわらず、神に感謝することなく、むしろ神に背いている世界、罪に汚れたこの世界のことを意味するのです。

 いや、漠然と「この世界」というよりも、むしろ私たち一人一人、罪深い人間のことと言って良いでしょう。神様の御旨に背くことばかり行い、神様のお心を悲しませ、ある時は無関心を決め込み、ある時はあからさまに反抗している、そんな私たちのことです。そのような私たちを、それでもなお神は愛してくださったのだと聖書は言うのです。「神は世を愛された」のです。
 それが何を意味するのかは、愛を拒絶されたことのある人なら、感覚的に分かるのかもしれません。自分の子どもであれ、親であれ、あるいは恋人であれ、自分が特別に愛する人に背を向けられるならば、拒絶されるならば、そこには大きな痛みが伴うことでしょう。どんなに愛していたとしても、相手からは愛されない。背を向けられ、無視され、時にはあからさまに反抗され、あるいは裏切られる。そこにおける悲しみ、苦しみ、心の痛みそのような痛みを思い起こすならば、ここに書かれていることの意味もまたおぼろげながら、見えてくるだと思うのです。

 「神は世を愛された」。神は、自分を無視し、自分に背を向け、自分に敵対する「世」を愛されたのです。私たち人間が、神にとってどうでも良い存在ならば、私たちが背を向けようが無視しようが反抗しようが痛むことはないでしょう。滅ぼしてしまえばそれで終わりです。しかし、神にとって私たち人間はそのような存在ではなかったのです。神様は、自ら痛みつつ、苦しみつつ、それでもなお、この世を愛そうとされたのです。私たちを愛そうとされたのです。「神は世を愛された」とはそういうことです。

 そして、神はその愛を、自らの行動をもって現されたのです。この「愛された」という言葉は、原文のギリシア語においては、過去のある時点における行為を意味するような表現が用いられているのです。「愛する」とは単に心情的なことでも観念的なことでもありません。愛とは行動です。神はある決定的な行動に起こされたのです。神は、愛する御子、イエス・キリストを世に遣わされたのです。

 神はイエス・キリストをこの世に送られることによって、はっきりと表明されたのです。神は背いている私たちを憎んではいないこと。神に背いてきた私たちを神は決して見捨てようとはしていないこと。罪深い私たちの罪を赦し、私たちとなおも共に生きようとしていてくださること。私たちを救おうとしておられること。神は私たちを愛しておられる。神はそのような神であることを私たちにはっきりと示すため、御子イエス・キリストをこの世に送られたのです。

 いや、この世に送られただけではありません。神は最終的にキリストを十字架にかけるつもりでおられたのです。私たちの罪の贖いとして、私たちのすべての罪をキリストに背負わせて、十字架にはりつけにすることを考えておられたのです。私たちの代わりにキリストを裁いて、私たちの罪を赦そうとしておられたのです。

 それゆえに、聖書はその出来事をこのように表現しているのです。「神はこの世を愛された」――どれほどに?「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と。神様は、独り子を私たちに与えてしまったのです。私たちを愛するゆえに、痛みと苦しみを引き受けて、独り子を手放してしまったということです。「その独り子をお与えになった」とはそういうことです。

信じる者が永遠の命を得るために
 それは私たちが救われるためでした。それを聖書はこのように語ります。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と。「永遠の命を得るため」――「命」とは何でしょう?それはただ心臓が動いていることではありません。脳が活動していることではありません。人間が「生きている」というのは、それ以上のことです。

 人間の「命」の本質は互いに愛する交わりにこそあります。人と人とが共に生き、神と人とが共に生きるところにこそ、まことの命はあるのです。人と人とが憎み合っている時、人は本当の意味で生きてはいないのです。人が神に背を向けている時、人は本当の意味で生きてはいないのです。

 神は本当の意味で人が生きるように、まことの命を与えようとされたのです。損なわれることのない愛の交わりに生きるようにと、神と人とが永遠に愛の交わりに生きるようにと、いわば神の方から私たちに手を伸ばしてくださったのです。

 今、「永遠に」という言葉を用いましたが、神が与えてくださる交わりは、死をもって終わることはないのです。いつか心臓は止まるでしょう。いつか脳の活動は停止することでしょう。しかし、永遠なる神との交わりは終わりません。そして、その永遠なる神が与えてくださるお互いの愛の関係も、死をもって終わりません。「永遠の命を与えるため」とはそういうことです。そのために、神の方から愛を示してくださいました。独り子をお与えになったほどに、愛してくださったのです。

 しかし、私たちも良く知っているように、愛の関係というものは一方通行では成り立ちません。神が手を伸ばしてくださっているならば、私たちもまた手を伸ばさなくてはならないのです。神が愛してくださったなら、私たちも神に向かって顔を上げ、神の愛を受け取らなくてはならないのです。だから「信じるものが」と言われているのです。「独り子を信じる者が」とは、神が独り子を与えるほどに愛してくださったと信じることです。信じてその愛を受け取り、神の愛に応えて生きることです。それはこちら側からのことです。

 ある人はこんなことを書いていました。「日光と外の空気が欲しい人は窓を開ければ良い。カーテンを閉め切った部屋にいて『ここは明るくない。少しも風が通らない』と文句を言うのはおかしい。」神は独り子をお与えになったほどに、世を愛されました。神の愛は示されました。神様の愛は私たちに向けられているのです。太陽の光のように、私たちに向けられ、私たちを照らそうとしているのです。ならば必要なことは、私たちの方が、神様に向いて、大きくカーテンを開いて、大きく窓を開くことです。

 開かれた窓から太陽の光が入ってくるように、神に向かって開かれた私たちの人生に、神の愛の光は必ず差し込んでくるのです。私たちが真に喜びをもって生きるために必要なことは、周りの人々が変わることではありません。生活環境や境遇が変わることでも、できなかったことができるようになることでもないのです。神に向かって自分を開くことです。

聖徒の日を迎えて
 さて、今年もこうして聖徒の日を迎えました。既にこの地上の生涯を終えた方々のお名前が礼拝堂にかかげられています。わたしが直接お会いしたことのない方々の名前もたくさんあるのですが、こうして私たちが礼拝堂の中に座っており、またこれらの方々の名前が同じ礼拝堂の中に並べられていますと、やはり生と死の境を超えて皆を包み込んでいる神の愛の光、また、その中における交わりの永遠なることを思わずにはいられません。そのような思いを抱きながら今年の召天者記念礼拝の準備をしていました時に、ふとこれらのお名前の中にある一人の方のことを思い出しました。

 その方は、今から13年前、年の暮れも押し迫ったある日、教会に電話をかけてこられました。五十代の女性でした。お話を聞いて欲しいとのこと。翌日、教会を訪ねてこられました。重い病に冒されていた方でした。余命短いことを宣告されたとのこと。もう長くは生きられない。辛い心の内をお話しくださいました。そして、その人は言いました。「悲しんで、落ち込んで毎日を過ごしたくないんです。どうやって生きたらいいか、教えてください」。

 私は言いました。「わかりました。一緒に聖書を読みましょう。聖書から学びましょう。現実から目を背けないで、現実としっかり向き合いながら、聖書を読んでいきましょう。」そこからその人との聖書の学びがスタートしました。

 そのように、彼女は「生き方」を学ぶつもりで聖書を読み始めたのですが、その人が知ったのはただ「生き方」だけではありませんでした。彼女が知ったのは、救い主であるイエス・キリストという御方だったのです。そして、キリストをこの世に送られた神の愛だったのです。それから半年後に彼女は洗礼を受けられました。 もちろん、それで闘病生活という辛い現実が変わるわけではありません。痛みは続きました。しかし、神に愛されていることを知った彼女は、神に向かって心のカーテンを開きました。心の窓を大きく開いたのです。辛い生活の中に、神の愛が流れ込んできました。

 彼女は讃美歌がだいすきでした。よく歌っていました。やがて、自分が歌えなくなってからも、讃美歌のCDをずっとかけていました。苦しみの中にあっても、人は神の愛を喜び、神を賛美することができるのです。そして、人を愛し、愛されて生きることができるのです。そんな彼女の姿は、確かに「永遠の命」が何であるかを見せてくれていたように思います。そして、教会に最初に電話をかけてこられた時からちょうど一年後、永遠の命に生きる人として、彼女は天に召されていきました。

 もちろん、それは彼女だけではありません。ここに名を連ねている先に召された人たちも、またここにいる私たちも、同じ神の愛の光の中にあるのです。そのことを覚え、神に心を開いて、共に召天者の記念の時を持ちましょう。


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