ヨハネによる福音書 6:30-35
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)。今日読まれましたイエス様の御言葉です。
精神的なパンではなく
「わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。」イエス様がこう言われたのは、実際に飢えている人がいたからです。飢えている人や渇いている人がいないなら、このような言葉は意味を持ちません。
確かにイエス様の周りには「肉体的に飢えている人」が少なくなかったに違いありません。当時のユダヤ人社会は決して経済的に豊かな社会ではありませんでしたから。イエス様は人々が空腹であることを心に留められました。そんな話が6章の前半には書かれています。イエス様が五千人以上もの人にパンと魚を与えたという奇跡物語が書かれているのです。現実にどのようにパンを与えたのかは良く分かりません。まさに奇跡としか言いようがない。しかし、ともかく大群衆は空腹を満たされました。そして、パンを与えてくれたイエス様の後を追いかけたのです。
そのような人々を前にして、イエス様は「わたしのもとに来る者は決して飢えることはない」と言われました。しかし、イエス様は追いかけてきた群衆に、「同じ奇跡を行って、いつもパンを出してあげるよ」という意味でそう言ったのでしょうか。まさかイエス様の言葉をそのように理解する人はいないでしょう。どう考えても、イエス様は単純に肉体的な飢えや渇きのことを語っているのではない。それは子どもでも分かることです。
そうしますと私たちはすぐにこう考えるわけです。イエス様は、肉体的な飢えや渇きのことを言っているのではなくて、精神的な飢えや渇きについて語っておられるのだ。確かに、私たちに必要なのは、精神的な満たしであり、精神的な渇きが癒されることだ、と。
しかし、私たちはイエス様の言葉を注意深く聞かなくてはなりません。イエス様は「わたしが命のパンである」と言われたのです。イエス様は、「わたしは精神的なパンを与える」と言っているのでも、「わたしが精神的なパンである」と言っているのでもないのです。
皆さん、「精神的なパン」ならば、ある意味では、この世にいくらでもあるのです。精神的な満足感や充実感を提供するものはいくらでもあるのです。そのために人はお金を出し、早起きもし、遠いところにも足を運ぶのです。しかし、そのような「精神的なパン」についてなら、何も今さらイエス様が語る必要はありませんでした。高度に文化的であった当時のギリシア・ローマ世界には、精神的なパンはいくらでもあったはずですから。なので、イエス様は御自分がそのような精神的な必要を満たすパンであるといわれたのではないのです。「命のパンである」と言われたのです。
命のパン
では「命のパン」とは何でしょう。33節で主はこう言っておられます。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(33節)。そのように「命のパン」とは、「命を与えるパン」という意味です。
しかし、「天から降って来て、世に命を与えるパン」というのは、私たちに全く馴染みのない言葉です。天からパンが降るのを見たことありますか。ないだろうと思うのです。私もありません。しかし、これを聞いていたユダヤ人たちにはピンと来るものがあったはずです。というのも、旧約聖書の中に、天から降ってきたパンの話が出てくるからです。今日の聖書箇所において、彼らはこう言っています。「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」(31節)。
イスラエルが荒れ野を旅した時の話です。イスラエルの人々が空腹を訴えた時、神様はモーセを通して、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。」(出16:4)と言われ、マンナ(マナ)という不思議な食べ物を与えられたのです。こうして彼らは天からのパンによって養われ、旅を続けることができました。その意味において、確かに、神のパンは天から降って来て命を与えた、と言えるでしょう。彼らはマナによって生き延びたのですから。
しかし、神様がイスラエルに天からのパンであるマンナを与えたのは、ただ単に彼らの肉体的な飢えを満たすためではなく、精神的な満足感や充足を与えるためでもなかったのです。そうではなくて、日々神を仰ぎ、神に信頼して生きる生活を与えるためだったのです。ですから、主は彼らが「毎日必要な分だけ集める」ことを求めたのです。ストックしてはならないのです。毎日、神様からいただくのです。そして、毎日神様に感謝する。その神様に信頼して生きていく。そのように神と共にある生活、神との交わり、それこそが彼らに与えられた命だったのです。
確かに、食べ物によって肉体の生命が維持されることも大事です。しかし、肉体の命を維持するためのパンは、いつか最後には意味を失うのです。人は誰でも人生の最後には食べられなくなるのですから。また、精神的に充足して生きられることはすばらしいことです。この世が提供する精神的なパンをいっぱい食べることは必ずしも悪いことではありません。しかし、そのような精神的なパンでさえ、人生の最後には意味を失うのです。ならば最後に残るのは何でしょう。永遠なる神との関係です。人間にとって最終的に意味を持つのは、永遠なる神との関わりであり交わりです。それこそが人間にとっての「命」なのです。ですからこの命はまた「永遠の命」とも呼ばれているのです。
人間が救われるためには、この命が与えられなくてはならないのです。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と主は言われました。この世は天からのパンを必要としています。世に命が与えられなくてはなりません。この世は神との交わりを失った世界だからです。この世に生きる私たちに、どうしても必要なのは、神との交わりなのであり、神との交わりをもたらす「命のパン」なのです。
わたしが命のパンである
そこでイエス様は御自分を指して、こう言われたのでした。「わたしが命のパンである」と。イエス様は、「あなたがたには命のパンが必要だから、わたしが与えてあげよう」と言われたのではないのです。「わたし自身が命のパンなのだ」と言われたのです。
イエス様御自身が「命のパン」であるとは、どういうことでしょうか。パンというものは、歯でかみ砕かれて、飲み込まれて、消化されることによって命を与えるのです。言い換えるならば、パンは自らを与えることによって、自らが犠牲となることによって命を与えるのです。イエス様が言っておられたことは、この後、十字架において実現しました。私たちの罪が赦され、神との交わりに入れられ、永遠の命が与えられるために、主は私たちの罪を代わりに担い、十字架において死んでくださったのです。
そのように、イエス様は御自分を与えることにより、私たちに命を与える「命のパン」となってくださったのです。しかし、ここで当たり前の話ですが、パンは口に入れられ食べられてこそ初めてパンとしての意味を持つことになります。ですから、今日の朗読箇所には含まれませんが、後にもっとはっきりと次のように語られているのです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)。
「食べる」という言葉によって表現されているのは「信仰」です。そのように「信じる」ということが「食べる」という言葉で表現されている。そこには大きな意味があります。「信じること」と「食べること」は良く似ているからです。
私たちは誰かの代わりに食べるということはできません。自らそれを受け取り、口に運び、かみ砕いて飲み込まなくてはなりません。食べ物は自分のための食べ物として自分で食べるのです。そのように、信仰においても、他ならぬ私が信じるのです。誰かが代わりに信じることはできません。キリストは確かに全人類のために十字架にかかってくださいました。しかし、キリストを信じる時、私たちはそのキリストの十字架を他ならぬ「わたしの罪の贖い」「わたしの罪の赦し」として感謝して受け取るのです。ちょうどパンを食べるようにです。
さらに言うならば、パンを食べるということは一回限りのことではありません。キリストが「命のパン」ならば、そこで考えられているのは一回だけ食べることではなく、食べ続けるということです。実際、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われた時、「来る者」も「信じる者」も継続を意味する表現が用いられているのです。そのように「入信」はある一点での出来事かもしれませんが信仰生活において重要なのは継続です。それを目に見える形で表しているのが、繰り返し行われる聖餐なのです。
そのように信仰生活は「食べ続ける」ことです。それはまた、信仰に生きるということが最終的には他の人の責任にできない、自分自身が主の御前で問われる厳粛なことであるという意味にもなります。信仰において誰かが妨げになりました。誰かが反対しました。迫害しました。あるいは誰かがつまずきになりました。それは最終的には問題ではありません。最終的には本人が食べたか、食べ続けたかということが決定的に重要なこととなるのです。
そして、事実、誰が妨げようが、物質的なパンを奪われようが、精神的なパンを奪われようが、この世の命を奪われることになろうが、「命のパン」を食べ続けた人たちがいたのです。その人々によって、福音は私たちのところにまで伝えられてきたのです。
「わたしが命のパンである」。イエス様は私たちの救いのために天から降って来てくださいました。イエス様は私たちの救いのために御自身を「命のパン」として差し出してくださいました。私たちの罪を贖い、永遠の命をもたらす「命のパン」として御自身を差し出してくださいました。そのパンを食べるのはわたしであり、あなたです。食べ続けるのはわたしであり、あなたなのです。