テモテへの手紙二 2:8-13
いつも思っていなさい
「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」(8節)と書かれていました。この「思い起こしなさい」はただ今一度のことを言っているのではなく、原文では継続を表す表現が用いられています。「繰り返し思い起こしなさい」あるいは「いつも思っていなさい」という意味です。
「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。そうパウロがテモテに書き送ったのには理由がありました。この章の始めにはこう書かれているのです。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」(1節)。強い人にはこう言う必要はありません。テモテが弱さを覚えていたからこそ、パウロはこのように語っているのです。
この手紙が書かれた頃、パウロは獄中に囚われの身となっていました。テモテはエフェソの教会の世話をしながら、パウロに代わって小アジアの諸教会の指導に当たっていました。しかし、テモテの働きは困難を極めていました。それはテモテに宛てられた二つの手紙を読むとよくわかります。彼は肉体的にも精神的にも弱さを覚えていました。
そのようなテモテに対してパウロは言うのです。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」。一見すると「そんな弱いことでどうするか。もっと強くなれ!」と叱咤激励しているように見えなくもありません。しかし、そうではないのです。「強くなりなさい」とありますが、正確には「強くされなさい」と受け身で書かれているのです。誰によってですか。何によってですか。「キリスト・イエスにおける恵みによって」です。
弱さを覚えている時であるからこそ、重要なのはキリストなのです。強さを必要としている時であるからこそ、重要なのはキリストなのです。ですから、今日お読みした箇所においてもパウロは言っているのです。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」すなわち「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」と。
死者の中から復活されたキリストを
「いつも思っていなさい。」――そうです、信仰生活とはキリストのことを繰り返し思い起こす生活です。自分に思いを向けて、ひたすら自分を振り返る生活ではありません。自分は変わったか、自分の弱さは克服されたか、自分は強くなったかをひたすら確認しながら生きる生活ではありません。キリストをいつも思っている生活です。
その生活を具体的に表しているのが毎週の礼拝です。そこで行われる「聖餐」です。私たちが行う「聖餐」は、イエス様が「わたしを記念してこのように行いなさい」と言われた言葉に基づいて行われます。「記念して」とは「思い起こして」という意味です。そのように、繰り返し思い起こして、いつもキリストのことを思って生活するのです。
しかし、「キリストのことを思い起こす」とはどういうことでしょう。キリストをどのような御方として思い起こすべきなのでしょう。今私たちは受難節の中にあります。キリストの御苦しみを思う季節です。そこで繰り返し思い起こされるのは苦しんでおられるキリストの姿でしょう。
ところが、今日の箇所でパウロが思い起こすように言っているのは、キリストが苦しんでいる姿ではありません。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」に続けてパウロはこのように言っているのです。「わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」(8節)。
思い起こすべきはダビデの子孫として生まれたキリストです。待ち望まれたまことの王として来られたキリストです。神がすべての名の上に置かれ、権威と力を与えられたキリストです。
その王なるキリストは「死者の中から復活された」お方です。もちろん「死者の中から」というのは十字架を前提とした言葉ですから、十字架にかけられたキリストを思い起こすことも含まれていると言えるでしょう。しかし、キリストは十字架に留まってはおられないのです。墓の中に留まってもおられないのです。細かいことを申し上げますと、「死者の中から復活された」というのは、過去の出来事として語られているのではなくて、「復活されて今も生きておられる」というニュアンスの表現が用いられているのです。
「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。そのイエス・キリストとは復活されて今も生きておられるまことの王です。そうです、パウロ自身もその御方を思いながらこの手紙を書いているのです。ですから彼はこう続けます。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(9節)。
持つべき強さは自分の外に
パウロは復活して今も生きて支配しておられるまことの王を告げ知らせながら、その一方においてその福音のゆえに鎖につながれています。そこにはパウロの弱さがあります。パウロの限界があります。パウロより大きな力を持つ人々によって、パウロは自由を奪われました。パウロよりも強い人間によって投獄されました。もはや自由に語ることもできません。パウロの願いはあっても、願い通りには動けない。そこには弱さがあります。
しかし、そこでパウロは言うのです。「しかし、神の言葉はつながれていません」。パウロが弱かろうが、制約を受けようが、パウロの願い通りに動けなかろうが、なんら問題はないのです。なぜなら、パウロは弱くてもキリストは弱くないからです。
王なるキリストは生きておられる。ならばキリストの御業は人間の弱さにかかわらず前進していくのです。神の言葉は前進していくのです。人間を鎖につなぐことはできても、神の言葉の宣教は鎖につなぐことはできないのです。実際、王なるキリストは、かつて鎖につながれるどころか、十字架に釘づけられて、殺されて、墓に葬られて、大きな石で封じ込められました。しかし、それでもなお人間はキリストを閉じ込めることはできなかったのです。神の言葉はつながれることはなかった。だから今もなお御言葉の宣教は続いているのです。
「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。テモテは弱さを覚えている時であるからこそ、キリストを思い起こし、思い続ける必要がありました。人が弱さを覚える時、必要なのは《自分の内に》強さを持つことではありません。そうではなくて、《自分の外に》強さを持つことなのです。本当に必要な強さは、キリストにこそあるのです。
自分の忍耐と誰かの救い
そのことを知るゆえに、パウロはある意味でたいへん不思議なことを書いているのです。「だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」(10節)。
ここで「あらゆることを耐え忍んでいます」というのは、具体的には獄中生活を指しています。かつてのように各地を旅して宣教することはできません。ただ今置かれている状態を耐え忍ぶしかないのです。彼は弱い者としてそこにいます。弱い者はただ耐え忍ぶことしかできないのです。
しかし、パウロは、彼が「あらゆることを耐え忍んでいる」のは、「彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るため」であると言うのです。こちらにおける弱さのゆえの忍耐。あちらにおける誰かの救い。この二つは普通どう考えてもつながらないではありませんか。
実際、何かを耐え忍んでいる時は、ただ無意味な時間ばかりが過ぎていくように思えるものです。それが何か意味あることにつながっているとは思えない。しかし、パウロはそこでキリストを思い起こしているのです。今も生きておられ治めておられるまことの王を思い起こしているのです。その御方の支配の中に、そのご計画の中に、自分が耐え忍んでいる時間もまた存在していることを知っているのです。その忍耐を誰かの救いのために用いることができる御方を知っているのです。この御方が、つながりようのない二つをつなげてくださることを知っているのです。
もちろん、パウロの忍耐と誰かの救いについて、その論理的なつながりは語ろうと思えば語れなくはありません。例えば、パウロの獄中生活があったからこそ、そこから書かれた手紙が後に新約聖書の一部として読まれることになった。その人間の救いに果たした役割は計り知れない。そのようなことは語り得るでしょう。
しかし、恐らくパウロにとって自分の忍耐と他者との救いの間の論理的なつながりなど、どうでもよかったのです。どうつながるかは主が知っておられる。主が知っておられればよいのです。パウロにとっては困難の中にあって弱さを覚える時こそ、特に、復活して今も生きておられる王なるキリストを思う時だったのです。そのように、弱さを覚えるテモテにも繰り返しキリストを思い起こして欲しかったのです。私たちはただ、すべてを治めておられる王なるキリストに目を向けて生きていたらよいのです。この言葉はここにいる私たちに対しても語られています。「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。
(祈り)