コリントの信徒への手紙二 3:4-18
主と同じ姿に
「自分が変われば、天地も変わる。自分が変わらなければ、なんにも変わらない。自分が変わらずに、周囲のすべてを変えようといくら願っても、それは不可能だ。」聖書の教えではありません。あるところで目にした言葉です。このような言葉は人間関係で悩んでいる人の心を捕らえます。それまではやっかいな相手を変えようと一生懸命でした。しかし、思うようには行きません。相手が変わらないことに苛立ちます。関係はますます悪化します。そこで先のような言葉に出会います。「まずあなたが変わらなければなりませんよ。」そう言われてハッとします。その通りだと納得します。それから自分を変えるための努力が始まります。すると、不思議なことに相手の態度も変わります。互いの関係も変わります。めでたし、めでたし。
それはありえるケースです。しかし、必ずしもこのようなめでたい話ばかりでもありません。自分を変えようと頑張ります。少しは変わったつもりになります。しかし、相手はなかなか変わってくれません。腹立たしいことです。気が付くと、腹を立てている以前の自分に戻っています。自己嫌悪に陥ります。自己憐憫にも陥ります。それは全部相手のせいだと考えます。結局、人間関係はますます悪化します。これも考え得るケースです。
自分が変わること。確かに大事なことです。人生の喜びも悲しみも、それに関わっているのですから。しかし、そのことは百も承知の上であえて問いたいと思います。私たちが変わらねばならないということは、ただ単に周囲の状況や相手を変えるためとか、人間関係を変えるためという程度のことなのでしょうか。
「相手を変えるためにはまず自分が変わらねばならない」などと、聖書は教えません。そんなこととは無関係に、私たちは変わらねばならない、と教えるのです。そして、私たちが変わって行かねばならない方向を聖書は指し示します。本日与えられている聖書箇所には次のように書かれていました。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。「主と同じ姿に」――これが聖書の指し示す方向です。それは、キリストの御姿です。
しかし、主と同じ姿に変えられるとは、具体的にはどのように変えられることなのでしょうか。実は、この章はパウロが自らの職務について語っている箇所なのです。彼は使徒としての職務を与えられたことについて、次のように語っています。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました」(3:6)。そして、その新しい契約に仕える務めについて、古い契約に仕えたモーセの職務と対比させながら語っているのです。先ほどお読みしました18節は、そのような流れの中にあります。ですから、「主と同じ姿に造りかえられる」ということに関しても、これを「新しい契約」との関連で理解しなくてはならないのです。
心に記される神の律法
では、その「新しい契約」とは何でしょう。実は「新しい契約」という言葉は、旧約聖書のエレミヤ書に出て来るのです。少々長くなりますが、31章31節から34節までをお読みします。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31・31‐34)。
簡単に概略のみを申し上げます。かつて神はイスラエルの民をエジプトから導き出し、十戒を与えて彼らと契約を結びました。彼らは神の民となり、神は彼らの神となられました。その契約に仕えたのがモーセです。彼らはモーセを通して与えられた律法に従い、この世界に神の支配と神の救いの計画を指し示す民となるはずでした。しかし、彼らは神の戒めに背きました。神との契約を破ったのです。旧約聖書はその不従順な民の罪の歴史を誤魔化すことなく記しています。神もまた彼らとの契約を破棄されました。
しかし、神は御自分の民を、そしてこの世界を、見捨ててしまわれたのではありません。神の救いの計画はイスラエルの不従順にもかかわらず進められてゆきました。神はエレミヤに「新しい契約」の預言を与えられたのです。神は再び人と契約を結ばれます。罪の赦しに基づいて、新しい契約を結ばれるのです。
そこで主は言われます。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と。古い契約において、律法は石の板に刻まれました。しかし、イスラエルの民はその律法を守れませんでした。それゆえ、新しい契約において、神はその律法を心に記すと言われるのです。
ここで聖餐式の度に読まれる御言葉を思い起こしてください。キリストは、最後の晩餐において、杯を取って感謝の祈りをささげ、こう言われたのです。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(1コリント11:25)。エレミヤの預言がここに実現しています。キリストが十字架にかかられて流された血によって、新しい契約が立てられました。今日も同じ主の言葉が語られ、聖餐が行われます。キリスト者となって聖餐に与るということは、この新しい契約の中に生きていくことを意味します。教会は、キリストの血によって立てられた新しい契約による神の民です。ですから、使徒パウロは自分自身を新しい契約に仕える者として語っているのです。
新しい契約において、律法は石の板ではなく、心に記されます。心に記されるべき律法が何であるかは、既に十戒において示されております。主イエスはこの律法を二つの最も重要な戒めとして要約されました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:29‐31)。律法が心に書き記されるということは、この戒めが私たちの内に実現することに他なりません。すなわち、私たちがまことに神を愛し、人を愛する者となることです。
新しい契約に生きる私たちにとって、人生の目的は単純明快です。人生の目的は、神を愛し、人を愛することにあります。家庭生活、社会生活における人生の課題のすべてはこの原則の応用問題です。私たちは変わらねばなりません。その方向は明瞭に示されています。神を愛し、人を愛する者となることです。その完成はどのような姿となるでしょう。それが「主と同じ姿」なのです。キリストこそ、まことに父なる神を愛し、そして人を愛された方だからです。その愛の真実は十字架に向かう歩みにおいて現され、その栄光は復活において現されました。私たちは、その姿へと向かっているのです。やっかいな相手を変えるためにまず自分を変えねばならない、などというみみっちい話ではありません。これは人生の大目標であり、人類の歴史の大目標なのです。
主の霊によって
さて、周りを変えるために自分を変えるという程度の話ならば、少々努力すればなんとかなるかも知れません。しかし、まことに神を愛し、人を愛する者となり、主と同じ姿となるということであるならば、人間の努力目標などということではなくなります。ですから、パウロはここで、主と同じ姿に「造りかえられていきます」と語ります。人間はあくまでも受け身です。人間は、自分の心に律法を書き記すことはできません。書き記していただくしかないのです。それゆえに、「これは主の霊の働きによることです」と言われているのです。
主と同じ姿に変えられることが、「主の霊」によるならば、そこで最も重要なのは主イエスとどのような関係にあるかということです。「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」と書かれています。パウロがこのように書くのは、同胞であるユダヤ人のことを考えているからでしょう。相変わらず、モーセの律法の書が読まれます。彼らは律法を遵守するために真剣に努力します。しかし、心には覆いがかかったままなのです。
覆いは取り去られねばなりません。そのためには、心に律法を書き記すのは主の霊の働きであることを認めて、主の方に向き直って生きていくことなのです。主に向き直るということは、観念的なことではありません。単に心情的なことでもありません。主に向いて生きていく生活は、具体的な形を取ります。それは、聖餐において主の体と血とにあずかりながら生きる生活として形作られるのです。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」という言葉を聞き、聖餐卓を囲んで主を礼拝して生きる生活です。そのように具体的に主に向く生活を重んじることをしないで、「私は少しも変わらない」と嘆いても、それは全く意味のない嘆きです。
一方、私たちが新しい契約の民として主に向いて生きていくならば、「私は少しも変わらない」と思えたとしても、少しも心配する必要はありません。主の霊が私たちを主と同じ姿に造りかえてゆくのです。それは私たちの努力を越えた、主の救いの御業なのです。私たちが新しい契約の中に生きるなら、その御業がやがて完成する時が来るでしょう。パウロはフィリピの信徒への手紙においてこう言っています。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ1:6)。私たちもまた主の約束に信頼し、パウロのこの言葉に喜びと感謝をもって「アーメン」と唱和したいと思います。
2023年3月19日日曜日
「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて」
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