2021年9月5日日曜日

「和解と一致のために」

コリントの信徒への手紙 1:10-17

分裂した教会
 「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)。今日の礼拝で朗読された聖書の言葉です。「みんな勝手なことを言わないように。仲たがいしないように」なんて、まるで幼稚園の先生が口にするような勧めです。そんなことは言われなくても、ある程度成長すればだれでも分かっていることです。しかし、そんな当たり前のことがあえて聖書において勧められているのは、当たり前のことを当たり前のように実行することが、いかに難しいことかということなのだろうと思います。

 実際、仲たがいなしに共に生きることは難しい。一つになることは難しい。それは教会についても例外ではありません。コリントの教会には、このように語られなくてはならない事情がありました。続きをお読みします。「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」(11‐12節)。

 そこには「わたしはパウロにつく」と言う人々がいました。コリントの教会は、使徒言行録16章に記されているように、パウロとその一行の開拓した教会です。ですからそこにパウロを殊更に慕う人たちがいたとしても不思議ではありません。しかし、あえて「わたしはパウロにつく」と言う人々がいたのは、もう一方に、パウロに敵対する人たちがいたからです。その事情はこの手紙の先の方まで読みますと明らかになってきます。そのような教会だからこそ、パウロを使徒として受け入れ、あえて彼を支持することを表明する人たちがいたのです。

 また、ある者たちは「わたしはアポロにつく」と言っていました。アポロという人物は使徒言行録18章において「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家」(使徒18:24)と紹介されています。アレクサンドリアはヘレニズム文化の一大中心地でした。そこが出身地であるとわざわざ書いてあるのは、彼が教養豊かな人物であったことを言いたいのでしょう。教養豊かな雄弁家がパウロの去った後のコリントにやってきて活動していたのです。他方、パウロについてはコリントの一部の人たちから「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(2コリント10:10)と評されていました。パウロよりもアポロとの関係を強調する一群の人々が現れたとしても不思議ではありません。

 また、ある人々は「わたしはケファにつく」と言っていました。ケファというのはペトロのことです。ペトロはイエス・キリストの直弟子です。また、いわば教会の本家とも言うべきエルサレムの教会の代表的人物でした。恐らくはユダヤ人を中心としたエルサレムの教会の優位性を主張していたユダヤ人キリスト者の一群が、ペトロとの特別なつながりを強調していたものと思われます。

 しかし、今日特に注目したいのはその次です。そこには「わたしはキリストにつく」という人々がいたというのです。明らかにこのグループだけは異質でしょう。「キリストにつく」という主張は、「パウロであれアポロであれペトロであれ、それがどれほど偉大な人物であっても、私たちは人間にはつかない」という主張の表れです。キリストとの霊的な関係を強調するグループです。

 そもそも決して完全ではない「人間」を持ち上げて、あの人につくとかこの人につくとか言っているから分裂が起こるのであって、キリストにこそしっかりと結ばれることが大事なのである。そう言われたらなるほどもっともな話に聞こえます。しかし、皮肉なことに、キリストとの関係を強調する人たちが、《自分たちこそキリストについている》と主張する集団を形成することによって、分裂と仲たがいの一要因となっていたのです。

 しかも、そこに造り出される分裂は極めて深刻なものであると言えます。なぜなら「パウロにつく」「ペトロにつく」というような言葉、つまり人間とのつながりは相対化され得ますが、「キリストにつく」という言葉は絶対的な意味を持つことになるからです。「自分たちこそキリストについているのだ」という主張は「他の人々はキリストについていない」すなわち「偽物のキリスト者だ」という主張にもなるわけですから。それは極めて深刻な分裂を生み出すことになるのです。

キリストの体であるのだから
 そこで私たちは、今日読まれた聖書の言葉に、改めて耳を傾けねばなりません。パウロは、まず前置きして語り始めます。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します」(10節)。これは、これは言い換えるならば、「わたしではなく、主イエス・キリストが勧めているのだ」ということです。「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」というのは、パウロではなく、他ならぬキリストの願いであり、キリスト御自身が求めていることなのだ、ということです。

 逆に言えば、分裂した状況をあえて続けるということは、キリストの願いを踏みにじることになる、ということなのです。それは最後の「キリストにつく」と言う人たちについても言えるのです。どれほど心情的にキリストを愛し慕う思いに溢れていたとしても、実際にはキリストの望まれないことを行っているということがあり得るということです。

 そこで決定的に重要な意味を持つ言葉は13節の言葉です。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」(13節)。パウロがこのように語るのは、これが他ならぬ「教会」における話だからです。彼はこの手紙の後の方で次のように語っています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(1コリント12:27)。

 この世の人は教会を単なる人間の集まりと見るかも知れません。事実人間が集まっているわけで、天使の集まりではありません。ですから教会は人間が持つ弱さや欠けや罪深さをそのまま内に有しています。しかし、それでもなお聖書は教会を「キリストの体」と呼ぶのです。神はそう見ていてくださるということです。

 それはキリストに結ばれ、キリストの命が通っている体です。キリストが御心をこの地上に実現するために用いてくださる体です。私たちはその部分だと言うのです。一人ひとりは、それぞれかけがえのないキリストの体の部分なのです。ならばそこに分裂が生じ、互いが反目し合うようになるならば、それはキリストの体をバラバラにしてしまうことになるではありませんか。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」とはそういうことです。

 パウロはそこであえて「パウロにつく」と言っている人たちに語りかけます。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」(13節)。先にも申しましたように、コリントの教会には、パウロには敵対する人々がいたのです。もし誰かが私たちに敵対していたとするならば、私たちは一人でも多くの人が自分を理解してくれて、味方になってくれることを求めるのではないですか。しかし、パウロ自身は、「わたしはパウロにつく」と言っている人々の存在を喜んではいなかったのです。彼にとっては、自分の味方がいることよりも、キリストの体が一つとなることの方が大事だったからです。

 「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」。――答えは分かっているはずです。いいえ、そうではありません。キリストです。キリストこそが十字架におかかりくださった唯一の御方です。だからそのキリストの体は重んじられなくてはならないのです。パウロに反対する人たちによってパウロの名誉は傷つけられてきたのかもしれません。パウロの立場は損なわれてきたのかもしれません。しかし、パウロにとっては自分の名誉にせよ立場にせよ、キリストの体を傷つけてまでも守らねばならないものではなかったのです。

 さらにパウロは言います。「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」。「パウロの名によって」と訳されていますが、もともとは「パウロの名の中へ」という言葉です。「パウロの名の中に入れられる、パウロに結びつけられる、そのような洗礼を受けたのか」と問うているのです。そうではありません。彼らは、キリストの名の中に入れられる、キリストに結ばれる、そのような洗礼を受けたはずです。そのようにしてキリストの体の一部となったのです。

 その後でパウロが「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」(1:17)と言っているからと言って、彼が洗礼を重んじてはいないと考えてはなりません。むしろ、ここでキリストとの関連でどうしても話に出さなくてはならないほど重要に考えているのです。

 洗礼はご存じの通り水を用いて行います。水は手に触れることができるし、目に見ることもできます。そして、洗礼式は、目に見える教会の中において行われます。そのことによって、洗礼は、目に見えないキリストとの信仰的な関わりを、目に見えるこの地上の現実と結びつけるのです。洗礼というものは、キリストとの関係をただ心の中のことにすることを許さないのです。私たちを目に見える教会と結びつけ、キリストの体に結びつけるからです。

 ですから、逆に言うと、洗礼を重んじないとどうなってしまうのか。洗礼を重んじない信仰生活はどうなるのか。そのような信仰は極めて個人的な心情的なものとなってしまうのです。ですから、キリストを愛すると言う人々が、「わたしはキリストにつく」という人々が、実際にはキリストの体を傷つけたり破壊したりするという、まことに矛盾に満ちたことが起こるのです。

 決定的な出来事はただ一度かぎり、あのカルバリの十字架において起こりました。聖書はその事実に私たちの目を向けさせます。私たちのために、この地上で、現実に血を流してくださって罪を贖ってくださったのは、ただこの方お一人です。その御方の前では、すべてが相対化されます。あらゆる人間も、あらゆる人間の主張や体験も相対化されます。キリスト者となるとは、洗礼によって、その御方の体の一部となることです。その事実こそが重要なのです。本当の意味で「わたしはキリストにつく」と言いたいならば、自分がキリストの体の一部であり、他の人々と共に一つの体とされているのだということを、決して忘れてはならないのです。

(祈り)

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