マタイによる福音書 13:44‐52
星野富弘さんという詩人であり画家でもある方がおられます。ご存じの方も多いことでしょう。もともと中学校の体育の先生でした。24歳の時にクラブ活動の指導中の事故で首の骨を折り、手足の自由を完全に失ってしまいました。その星野さんが、入院中に口で絵筆をくわえて絵を描くようになり、そこに御自分の詩を添えられるようになりました。そんな星野富弘さんの書かれた詩の中に、このような詩があります。
「いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが
苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった」
「いのち」――この世の命は、ある意味では、一日一日、失われていきます。単に寿命の話ではありません。この世の命は、実に様々な形で削り取られ、失われていきます。星野富弘さんが一瞬の出来事によって手足の自由を失ってしまった。それは自分の「いのち」の大きな部分が削り取られ、失われてしまったという経験であったに違いありません。
ある人は病気によって、ある人は愛する人との別れによって、ある人は、挫折によって、そして老いることによって、この世における命は、確かに様々な形において削り取られ、失われていきます。
もし「いのちが一番大切だ」と思っているならば、その人にとって人生とは、その一番大切なものが失われてゆくプロセスであるということになります。それは間違いなく苦しいことでしょう。星野さんは言いました。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった」。それは確かに苦しいことです。
ならば、「いのちより大切なもの」を、生きている間に見出すということは、最後まで喜びをもって生きるために、どうしても必要なことなのでしょう。この失われゆくもの、この「いのちより大切なもの」をどうしても見出さなくてはならない。その「いのちより大切なもの」――イエス様は「ある」と言われます。確かにある、と。
イエス様は十字架へと向かう歩みによって、そして十字架の上で、そのことをはっきりと示してくださいました。まさに御自分の命が大きく削られて、その全てが奪われていくように見えるその御生涯において、いや、正確に言うならば、その命の全てを捧げて生きられたその御生涯において、「いのちより大切なもの」があることを示してくださったのです。
天の国は隠された宝
その「いのちより大切なもの」を、イエス様は今日の聖書箇所において、畑に隠された宝として、また商人が追い求めている高価な真珠として、教えてくださっています。イエス様のたとえ話をもう一度、聞いてみましょう。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(44節)。
「いのちより大切なもの」。それはイエス様の言葉によれば「天の国」です。「天の国」と言いましても、いわゆる「天国」「死後の世界」の話ではありません。「天」というのは「神」の言い換えです。国というのは場所のことではありません。支配のことです。ですから、「天の国」とは「神の支配」のことです。
神の支配は畑に隠された宝のようなものです。隠されていて見えないのです。実際そうでしょう。この世界に起こる出来事、その中で自分の命が削られていく現実、他の人の命が削られていく現実を普通に眺めるならば、そこに神の支配は見えません。むしろ「神がおられるなら、どうしてこんなことが起こるのか?」と言わざるを得ないことがいくらでも起こります。ですから時に人は言うのです。「神も仏もあるものか!」と。
しかし、そのような世界のただ中で、ある人は宝を見出すのです。今まで見えていなかったものを見るようになるのです。神の支配があることを見るのです。神がこの世界を治めておられること。自分は完全に神の愛の御手の中にあることを知るのです。神がその愛の御手をもって完全な救いの世界へと導き入れようとしていること、まさに、かつてモーセに導かれたあのイスラエルのように、約束の地へと導いていてくださるのだということを知るのです。
そのことを知った人は、さらに神と共に生きたいと願い始めます。神の愛の支配の中にあることを喜んで生きていきたいと願うようになります。ただ命が削られていくことを嘆いて生きるのではなくて、誰かに削り取られたことを恨みながら生きるのではなくて、「いのちよりも大切なもの」に目を向けて生きていきたいと願うようになる。――その時、人は確かに、このたとえ話の人のように、喜びに溢れていそいそと持ち物を売り払う人のように生きていくようになるのです。彼の持ち物は手元から無くなります。でも、この人にとっては、そんなことはどうでもいいのです。畑に隠されている宝のことを考えているからです。失われていくものよりも大切な、隠された宝のことを思ったら、もう嬉しくて嬉しくて仕方ないのでしょう。
第二のたとえ話にしても、基本的なメッセージは同じです。商人が良い真珠を見出した。もう二度と巡り会うことができないような真珠を見出した人の話です。
彼は、あちらこちらを旅して回って良い真珠を捜し求めてきたのでしょう。昔の話ですから、必ずしも思い通りに旅が進むとは限らない。困難も生じます。長い期間、停泊地で足止めを食うこともあります。そのように商人の旅には予定外のことがつきものです。しかし、その商人がまさにこれぞという真珠と巡り会う。すべての不都合はまさにこの真珠との出会いのためであったかのようにも思えてくる。当然のことながら、彼は持てるすべてを売り払います。手放します。惜しくもなんともない。大喜びです。真珠のことを思ったら、もう嬉しくて嬉しくてたまらない。そんな話です。
畑に隠された宝を思って生きる
これが聖書の語る信仰生活なのです。考えてみてください。実際、迫害の時代のキリスト者は、文字通り不当な仕方で自分の持ち物や自分の命さえも奪われることを良しとしたのです。なぜですか。宝が見えていたからです。真珠が見えていたからです。いや、奪われることを良しとしただけではありません。むしろ、積極的に捧げて生きたのです。自分の命、自分の人生を捧げて生きた。自分の時間、自分の能力、持ち物、お金、あるいは文字通り生命を、誰かを愛するために、誰かの救いのために、捧げて生きたのです。
そして、どんなに犠牲を払ったとしてもなお、「わたしはこんなに犠牲を払っている」という意識にはならなかったのでしょう。なぜですか。宝を知っているからです。真珠を知っているからです。その人にとっては、どんな犠牲さえも、いわば宝を思いながら、真珠を思いながら、いそいそと持ち物を売り払うようなものだったのです。そのような人々がいたのです。だからこそ、今の私たちもいるのでしょう。そのような人々がいたからこそ、日本にも教会も建っているのです。
そのように畑に隠された宝を思って生きる。やっと巡り会えた真珠を思って生きる。そのように、「いのちより大切なもの」を思いながら生きていく。それが信仰生活なのです。「いのちよりも大切なもの」を知ったなら、ある意味で、この世の命は惜しまず使っていくことができるのでしょう。恐れることなく使っていくことができるのでしょう。神の御計画の中にあって、神の導きのもとにあって、神の目的のために使っていくことができる。大切なことは、畑に宝が隠されていることを知り、畑に宝を見出すことです。価値ある真珠を見出すことです。
そして、そのためにこそイエス様は来てくださったのです。イエス様は、その身をもって、天の国、神の国を指し示し、また自らの姿をもって、神の国を見せてくださったのです。この十字架の苦しみさえも、神の支配の中にある。神の壮大な救いの御計画の中にある。そして、その神の愛の支配の中に、あなたもいるのだ、と教えてくださったのです。
神は、独り子をさえ惜しまず与えるほどに、そして、罪の贖いとして十字架にかけられるほどに、この世を愛されました。あなたをも愛されました。そして、あなたを完全な救いの世界へと導いておられます。そのようにして、「隠されていて見えないけれど、確かに宝はある」とキリストを通して教えてくださり、信仰の目をもって見出すことができるようにしてくださったのです。
天の国は湖に投げ降ろされた網
そして最後に、三つ目のたとえ話が語られています。湖に投げ降ろされた網のたとえです。最終的な裁きに関するたとえ話です。なぜこの話が続くのでしょう。それは、「どんな時に天の国が一番見えにくくなるか」を考えると分かります。それは悪の力の方がこの世界を支配しているように見える時です。そして、この世の悪によって、誰かの悪によって、不当に命のある部分を、あるいはすべてを奪われる時です。そのような時、確かに神の愛の支配の中にあることは見えにくくなるし、信じることは困難になります。
実際どうでしょう。自分から不当に何かを奪った「悪人」の方にばかり意識が行って、「いのちよりも大切なもの」に思いが向かなくなることはあり得るのではありませんか。怒りと憎しみに支配されてしまって、本当の意味で自分の命を使うべきところに使えなくなる。悪が現実に存在するこの世の中にあって、本当にしなくてはならないことがあるはずなのに、それができなくなる。そのようなことは起こり得るのではありませんか。
そのような私たちに対して、「天の国は最後まで隠れたままで終わらない」とイエス様は教えてくださっているのです。それが最後のたとえ話です。天の国が完全に現れるときがくる。神の支配は完全に現れる。すなわち、神の正義も完全に現れる。だから最終的な裁きは神様にお任せしなさいと語られているのです。怒りや恨みによって命を費やしてはならないのです。大切なことは宝を思うことです。そして、喜びに溢れながら、本当に捧げるべきことのために命を捧げ、本当に用いるべきことのために命を使って生きることなのです。
(祈り)