ガラテヤ2:15‐21
第2朗読においてガラテヤの信徒への手紙が読まれました。今日、特に心に留めたいのは20節の言葉です。大変印象的な言葉です。パウロは言います。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(20節)。
生きているのは、わたしではありません
「生きているのは、もはやわたしではありません」。それはすなわち、「わたしは生きていない」「わたしは既に死んだ」ということです。実際には生きているパウロが、自分を既に死んだ者と見なしているのです。しかも、ただ死んだと言うだけではありません。その直前には、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(19節)と彼は言うのです。
パウロの言葉を理解するために、この手紙を少し遡ってみることにしましょう。15節にはこう書かれていました。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(15節)。これは当時のユダヤ人のごく一般的な理解です。
ユダヤ人は一つの自負を持っていました。《我々は神の律法を持っている》という自負です。すなわち、正しい神が何を求めておられるかを知っている、ということです。ですから、神が何を求めているかも知らずに生活している異邦人を「罪人」と呼んで蔑んだのです。
しかし、パウロはユダヤ人の間で一般的に語られていたその言葉を取り上げて問題にするのです。確かに、我々は律法を持っている。正しい神の要求が何であるかを知っている。しかし、本当にそれを完全に実行することができるのか。律法を守ることによって、神から「正しい者」と認められる人間はいるのか。――否、そんな人は一人もいないのではないか。それゆえ16節の最後において、パウロは言い切るのです。「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」(16節)と。「義とされない」とは「正しい者と認められない」ということです。
「だれ一人として義とされない」――これは実は、文字通りではありませんが、詩編の引用なのです。詩編143編に次のような言葉があります。「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」(詩編143:2)。既にいにしえのユダヤ人が、その深い洞察をもって、自分自身について、人間というものについて、そう告白しているのです。そして、パウロもその言葉に同意します。パウロ自身、正しい人間になることを求めたのでしょう。律法によって義とされることを望んだのでしょう。しかし、そのパウロもまた、同じ結論に行き着かざるを得なかったのです。「御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」と。
正しい神の要求を完全に満たすことによって、正しい者と認められる者は誰もいない。それは異邦人であろうがユダヤ人であろうが関係ないのです。すべての者は、神に正しいとは認められないままで、神の裁きのもとにある者として、死んでいかなくてはならないということです。私たちの人生は、神との正しい関係にはなかったものとして、神の裁きのもとにあるものとして総括されねばならないということです。
しかし、そこでパウロは一つの重大な真実を知ったのです。何を知ったのでしょう。もう一度16節を御覧ください。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」。そう彼は言うのです。律法の実行によって義とされる道は固く閉ざされていました。しかし、パウロはそこに、もう一つの道が開かれていることを発見したのです。それは「イエス・キリストへの信仰」という道でした。
パウロがイエス・キリストについて語る時、それは十字架につけられたキリストのことに他なりません。先ほど、私たちは皆、神に正しいとは認められないまま、神の裁きのもとにある者として、死んでいかなくてはならないと申しました。しかし、そのような私たちが受けるべき裁き、受けるべき神の怒りを、すべて引き受けてくださった御方がおられるのです。それがイエス・キリストなのです。その御方は、自らは完全に神に従い通された正しい御方であるにもかかわらず、私たちのために、十字架の上で神に裁かれた者として死んでくださったのです。
そのキリスト・イエスについて、「わたしたちもキリスト・イエスを信じました」とパウロは語ります。日本語では分かりませんが、そこには「キリスト・イエスの《中へ》(信じる)」と書かれているのです。つまり、自分の全存在をキリストの中に投げ込んでキリストと一つになることです。「わたしは律法の実行によっては義とされません。神の裁きのもとにある者として死ぬしかありません。私たちはただ十字架につけられたあなたに自分をまかせるしかありません。」そう言って、自分の身柄をキリストに引き渡してしまうことです。
そうしてキリストと一つとなる時に、キリストの死は私たちの死となるのです。私たち自身は十字架につけられて死んではいません。にもかかわらず、既に十字架につけられて裁かれて死んだものと見なされるのです。神が私たちをそのように見なしてくださる。神の律法に背いた者として、律法に基づいて裁かれるべき罪人は既に死んだのです。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」とはそういうことです。そこにこそ、私たちの罪が赦され、義とされることの根拠があるのです。
キリストがわたしの内に生きておられる
さて、先にお読みしました16節に続く17節と18節は難解でありまして、様々な解釈がなされてきました。今日は、その一つ一つを紹介することはしません。皆さんがそれぞれ考えを巡らしてください。ここではただ一つのこと、「…キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか」という問いに対して、「決してそうではない」とパウロが断言しているということを心に留めたいと思います。
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」――これを「律法を実行しなくても義とされる」と単純に読み替える人は、昔も今も少なくありません。つまり「神の前に正しくなくても義とされるのだな。別に罪を犯していても、神に背き続けていても、結局は義と認められるのだな」と考えるわけです。ローマの信徒への手紙を読みましても、「恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか」(ローマ6:1)などという言葉が出てまいります。
そうなりますと、当然のことながら、「キリスト教は《律法によらずに義とされる》という言葉をいいことに、平気で罪を犯す人間を造り出す」という批判、すなわち「キリストは罪に仕える者である」という批判が起こってくるでしょう。しかし、パウロはそのような非難に対して、全面的に否定するのです。キリストは罪に仕える者だって?決してそうではない!と彼は断言するのです。問題はどこにあるのでしょうか。「人は律法を実行しなくても義とされる」と単純に読み替えたところに問題があるのです。
良く見てください。パウロは、「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と言っているのです。「イエス・キリスト」という御方との関わりが決定的に重要だということです。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストという御方の内に自らを投げ込んで、イエス・キリストと一つになって、その死にあずかって、キリストと共に十字架につけられた者として、私たちは義とされるのです。
そして、キリストは十字架につけられただけではありません。キリストは復活されたのです。十字架につけられたキリストと結ばれたならば、復活したキリストとも結ばれて一つになるはずです。キリストの死にあずかったならば、キリストの命にもあずかることになるのでしょう。人がキリストと共に死んだ者とされるのは、キリストの命にあずかって新しく生きるためなのです。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」とパウロは言いました。律法の実行によらずして義とされるのは、律法を与えた神と無関係に生きるようになるためではありません。神の御心や神の求めとは無関係に生きるようになるためではありません。神に背いた生活を安心してできるようになるためではありません。「それは神に対して生きるためだ。神にしっかりと向いて、神のために生きるためなのだ」とパウロは言うのです。そして、キリストの死にあずかっただけではなく、キリストの命にもあずかった新しい生を、パウロは次のように表現しているのです。「キリストがわたしの内に生きておられるのです」と。
もともと旧約聖書の世界に、「わたしの内に生きておられるメシア」などという概念はありませんでした。これは、メシア=キリストの到来、その十字架と復活、そして昇天と聖霊の降臨によって開かれた、全く新しい地平です。ファリサイ派ユダヤ人パウロが、キリスト者であるパウロとなったということは、彼が「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語る者となったということに他なりませんでした。
私たちにとっても、キリスト者としての生活とは、「キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語りながら生きていくことに他なりません。私たちは、この言葉を本当の意味で自分の言葉として生きることを、これからも求めていきたいと思います。