15節において、話は再び「新しい契約」に戻ります。既に8章において、エレミヤ書31章31節以下に基づいて語られていました。その約束の中心は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という言葉です。本来、神に対して「あなたはわたしの神です」と言えない者に対して、神様の方から「わたしはあなたたちの神である」と言ってくださる。また「わたしはあなたの民です」と言えないような者に対して、神様の方から「あなたたちはわたしの民だ」と言ってくださる。それが新しい契約です。ですから、そこでは罪の赦しが前提とされています。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」とエレミヤの預言に語られているとおりです。
この契約の仲介者となってくださったのがイエス様なのです。「罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので」と書かれています。このゆえに、私たちは神に対して「あなたはわたしたちの神」と言うことができ、「わたしたちはあなたの民」と言うことができる。だから希望が持てるのです。それを聖書は「永遠の財産を受け継ぐ」と表現しています。永遠という言葉は、神との関わりにおいてしか使えないのです。「あなたはわたしの神です」と呼べるからこそ、永遠の希望を持てるのです。キリストはそのような契約の仲介者です。
ですから、私たちにとって大事なことは、この新しい契約が「有効」であるとの確信なのです。それゆえにその有効性が言葉を尽くして語られているのです。まず取り上げられているのは、「遺言」の例です。ギリシア語では「契約」も「遺言」も同じ単語です。遺言は遺言者が死んだら有効になるでしょう。だから同じように、この遺言(契約)もキリストが死んだゆえに有効なのだと言っているのです。
一読して分かりますように、この議論は「新しい契約」が有効であることの証明にはなっておりません。遺言者が死ぬことと、キリストが死んだことは意味合いが全く違うからです。どうも彼は「遺言」の例もって「新しい契約」の有効性を証明しようとしているのではなさそうです。これは「有効性」の話の導入に過ぎないのです。本当に言いたいのはその次です。「だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。」最初の契約においてもやはり血が流されました。契約締結の時だけでなく、その後の祭儀において繰り返し血が流されたのです。なんのためですか。罪の赦しのためです。22節に「こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」と書かれているとおりです。
最初の契約、すなわちエジプトの奴隷であった者たちがエジプトから導き出されて与えられた契約もまた、それは神と人との契約ですから、神が彼らに「わたしはあなたたちの神である。あなたたちはわたしの民である」と言ってくださることを意味しました。その時に律法が与えられました。しかし、そこには既に罪の赦しが前提とされていたのです。ですから、繰り返し動物が屠られ、血が流されたのです。最初の契約もまた、血が流されての契約、罪の赦しがあってこその契約だったのです。
しかし、それはあくまでも「写し」に過ぎませんでした。天の聖所においては、そのような写しではなく、完全な清めが行われねばならなかったのです。かつては旧い契約における大祭司が、契約の箱を挟んで、見えざる神の前に立って動物の血を注いだわけですが、まことの大祭司キリストは、本当の意味で完全な罪の贖いのために、父なる神の前に立ってくださったのです(24節)。
最初の契約が動物の血が流されることにおいて有効とされたのなら、ましてやキリストの血によって、新しい契約は完全に「有効」となったはずではありませんか。しかも、最初の契約においては、大祭司が毎年、血を携えて至聖所に入らなくてはならなかったのですが、キリストにおいてはそうではありません。既に繰り返し語られていたように、一回限り、決定的なことが行われたのです。ここにおいても、キリストが聖所に入られたのは、「度々御自身をお献げになるためではありません」と書かれているとおりです。キリストは「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れて」くださったのです。
さて、ここに書かれているような、新しい契約が有効であるのか、そうでないのかという議論は、私たちにとって重大なこととして響いているでしょうか。私たちが本当に神の民であり得るのか、私たちは本当に神を「わたしたちの神よ」と呼び得るのか。それは私たちにとって重大な問題となっているでしょうか。なっていないとするならば、それはなぜなのでしょうか。その場合、恐らく私たちに一つ言えることは、私たちが自分の置かれている立場を理解していないということであろうと思うのです。神様を礼拝できて当たり前。お祈りできて当たり前。信仰生活ができて当たり前。ともすると、私が決心して神様を「信じてあげた」ぐらいにさえ思っているかもしれません。「わたしたちの神よ」と呼べることを当然のことのように考えているのではありませんか。
しかし、私たちの置かれている立場は、本来はいわば未決囚なのです。正しい裁判にかけられるのを待っている囚人なのです。27節にはこう書かれています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と。このことを真剣に受け止めるならば、どうですか。新しい契約が有効であることは極めて重大な問題ではありませんか。罪の赦しが有効でなかったら、御子が執り成してくださるのでなければ、その裁きの座の前で、自分一人で自らについて語らなくてはならないのです。有罪判決は免れないでしょう。
私たちが、罪の赦しを告げられて、新しい契約に入れられて、安心して神を「父よ」とさえ呼ぶことができて、裁きを恐れず死ぬことができる。それは、本来、天地がひっくり返るような驚くべきことなのです。そうです。だからこそ、その実現のためにまさに天地がひっくり返るような驚くべきことが起こったのです。神の子キリストが大祭司ともなって、自らの血をもって罪の贖いをしてくださるということが起こったのです。ヘブライ人への手紙は、そのことを私たちに告げているのです。