コリントの使徒への手紙二 1:18‐22
「然り」であると同時に「否」?
「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」(18節)。そう書かれていました。しかし、普通に考えるなら、この文章の繋がり方はおかしいと思います。
「『然り』であると同時に『否』である」とは「信頼に値しない」という意味です。「はい」が同時に「いいえ」だったら信頼に値しないでしょう。「行きます、あるいは行きません」という人を頼りにできるか。その人に何かを頼むことができるか。できません。「行く」か「行かないか」どちらかにしてほしいと思います。でないと、信頼することができない。そのように、「『然り』であると同時に『否』である」とは「信頼に値しない」ということです。
なぜこのような話が出てきたかと言いますと、その背後には、パウロがコリント訪問の計画を変更したということがあります。どのような変更があったのかは、どうもよく分かりません。いずれにしてもパウロが「やります」あるいは「行きます」と言ったことを変更したことは確かです。「やりません」「行きません」になった。「はい」が「いいえ」になりました。このようなことは、通常の社会生活の中でまま起こり得ることです。
しかし、何らかの事情が重なったのでしょう。パウロは「はい」と言ったのに「いいえ」と言う、信頼のおけない人物だという評価が下されたようです。パウロの言葉は信用できない、と。さらには、パウロという人間そのものに対して、彼は不真実である、不誠実であるという評価が下されたのでしょう。ですから、そのことに対して、パウロは弁明をしているのです。なぜなら、これは彼の宣教にも関わることだからです。
パウロにはパウロなりの理由があるのです。信仰的な理由があるのです。神に従うゆえの変更だったのでしょう。それはコリントの人たちに対しても、精一杯真実であり誠実であろうとしての変更だったのです。今日の箇所の直後にはこう書かれています。「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです」(23節)。確かなことは分かりませんが、理由の一部はこのようなところにも垣間見えます。
ですから、今日の箇所の直前でもパウロはこう言っているのです。「このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって『然り、然り』が同時に『否、否』となるのでしょうか」(17節)。もちろん、答えは「そうではない」ということです。人間的な考えによって、「はい」が「いいえ」になったのではない、ということです。
ならば、最初の話に戻りますが、この18節は変なのです。ここでパウロは「わたしはコリントの信徒たちに対して不真実なことはしていない」と言いたいわけでしょう。ならば最初に来るのは、「神は真実な方です」ではなくて、「わたしは真実です」という主張が来るのでしょう。そして、自分が真実であることを弁明し、論証し、その上で「だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」と言うのでしょう。それならば話は通じます。。
ということで、この繋がり方は変なので、以前の口語訳聖書では「神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、『しかり』と同時に、『否』というようなものではない」(18節口語訳)と訳されていたのです。しかし、「神の真実にかけて言うが」というのはあくまでも意訳です。むしろ話の流れとしては、「神の真実」の方が重要になってくるのです。
神は真実な方です
その先を読みますと、パウロは自分の真実についての弁明などはそっちのけで、「神の真実」の話へと流れていきます。次のように続きます。「わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです」(19節)。
神の子イエス・キリストの話になりました。神の子イエス・キリストの話であるならば、それは人間にとって救いに関わる話です。救いについては、神が「然り」と言ったら「然り」なのです。神が「否」と言ったら「否」なのです。神が「然り、わたしはあなたがたを救う」と言われたら、神の救いは実現するのです。「否、わたしは救わない」と言われれば、救われないで滅びるのです。
では、神は私たちについて何と言われたのでしょう。神はキリストにおいて何と言われたのでしょう。「然り」なのでしょうか。「否」なのでしょうか。「然り」であると同時に「否」という、まったく不確かな、信頼に値しないようなことが語られたのでしょうか。いいえ、そうではありません。「イエス・キリストは『然り』と同時に『否』となったような方ではない」とパウロは力説するのです。そして、「この御方(イエス)においては、『然り』だけが実現したのです」と語るのです。
私たちの救いの話です。それは既に旧約聖書において約束されていたことです。神が救いについて語っておられたのです。その約束がまさに「然り」として実現したということです。ですからパウロはこう続けるのです。「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです」。パウロは何を言いたいのでしょう。「神は真実な方です」ということです。神の真実なることは、イエス・キリストにおいて完全に現されたのです。
そして、キリストにおいて完全に現れた神の真実なることの故に、今のパウロがあることを彼はよく知っているのです。神によって救われた者として、今神と共にあるのは、彼が救われるに値するからではなくて、神が真実だったからなのです。それはここにいる私たちにしても同じです。今、私たちがこうして神と共にあるのは、神が真実な方だからです。
神が約束どおりキリストをお送りくださり、約束どおり罪の贖いを成し遂げてくださり、約束どおり新しい契約を与え、約束どおり神の民としてくださったのです。私たちの救いについて神は「然り」と言われ、その「然り」が実現して、今私たちはここにいるのです。そのように神の真実なることを知るゆえに、私たちは神をたたえるのでしょう。ここに集まっている者も、今、自宅において祈りを合わせ礼拝している人たちも、共に神をたたえているのでしょう。
だからパウロもこう言っています。「それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』ととなえます」(20節)。まさに私たちが今していることです。「アーメン」とは「そのとおりです。真実です」という意味です。真実なる神の「然り」に対する私たちの「然り」です。
真実なる神に応えて
そして、大事なことは、この真実なる神の現れであり「然り」そのものであるイエス・キリストと私たちが神によって結ばれているということです。パウロはこのように続けます。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました」(21‐22節)。
神が私たちをキリストに固く結びつけてくださいました。これは私たちをキリストの中に固く保ってくださっているという意味の言葉です。私たちは神の真実の現れ、神の「然り」であるキリストの内に、しっかりと守られているのです。真実なる神様がそうしてくださいました。私たちが聖霊を与えられ、信仰によって歩んでいるとはそういうことです。これをパウロは、「(神が)わたしたちに油を注いてくださった」と表現しています。また、聖霊を与えてくださったのは、神がわたしたちに「証印を押して」くださったということだというのです。
そのように真実なる神がしてくださったことによって、真実なる神の現れであるキリストの内にあって、この信仰生活は成り立っているのです。ならばそこで、当然のことながら「神の真実」と「私たちの真実」とは切り離せないものとなるのでしょう。「神の真実」によってなされたすべてのことに対する私たちの応答は「私たちの真実」であるはずだからです。
だからこそ、最初の話に戻りますが、パウロはこう語っているのです。「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」(18節)。普通に考えるならば、これは繋がりがおかしい、と冒頭に申し上げましたが、この繋がりこそが、パウロにとって信仰に生きるということに他ならないのです。