天の聖所の写しである地上の聖所については最初の契約の中にその規定がありました。聖所の作り方、礼拝の仕方には定まった形があったのです。ここで著者は、読者にとって身近なエルサレムの神殿ではなくて、聖書に記されている幕屋の作り方と礼拝の規定に言及します。聖所である幕屋は入り口の垂れ幕とは別に「第二の垂れ幕」によって中が仕切られています。その手前が「第一の幕屋」あるいは「聖所」と呼ばれ、第二の垂れ幕の向こうは「至聖所」と呼ばれていました。至聖所には契約の箱が置かれています。その中にはマンナの入っている壺、芽を出したアロンの杖、契約の石版が入っていました。そして、その蓋が「償いの座」もしくは「贖いの座」と呼ばれていたのです。
この至聖所にある「贖いの座」については、出エジプト記において次のように語られています。「この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る」(出エジプト25:21‐22)。つまり、この贖いの座こそ、神の臨在するところであり、神とお会いする場所として定められているのです。
しかし、その神の臨在の場、贖いの座がある至聖所には、通常、祭司たちは入ることができません。「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(6‐7節)。大祭司は、自分と民の罪の贖いをするために、贖いの血を携えていくのです。しかし、そのように罪の贖いがなされたとしても、祭司たちでさえ「第一の幕屋」までしか入れないということなのです。つまり本当の意味で神の御前には出られない。神の臨在の前に立つことはできないということです。このことは何を意味しているのでしょうか。この幕屋の構造は、基本的に聖所への道はまだ開かれていないということを意味するのです。贖いの犠牲の血をもってしても、人々は聖所の中心である臨在の場に行けないのですから。
この幕屋の構造は、「今という時の比喩」であると著者は言います。この場合、「今という時」とは、旧約に属するレビの系統の祭司がまだ存在する時を指しています。つまり、そこでは供え物といけにえとが献げられているのです。動物犠牲の血が罪の贖いとして流されているのです。年に一度は大祭司がその犠牲の血を携えて贖いの座の前に入っていくのです。それは他の律法の規定、すなわち食物規定や種々の洗いに関する規定と同じなのであって、暫定的なものに過ぎないのです。それは「肉の規定」と呼ばれています。それはあくまでも外的な行為に過ぎないのであって、「礼拝する者の良心を完全にすることができないのです」(9節)。
この最後の言葉は重要です。民が神の臨在の場に行くことができないのは、ただ単に垂れ幕が隔てているからではないのです。入ってはいけないという規定があるからではないのです。そうではなくて、動物犠牲は「礼拝する者の良心を完全にすることができないから」なのだというのです。
真に神を求める人は、神を礼拝しようとする者は知っているのです。神が求めておられるのは、動物の犠牲そのものではない、ということを。既にダビデがそのことを語っています。「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:18‐19)。
本来人間の心はただ形だけの礼拝ではなく、真に神が求めているものを献げ、まことの礼拝を捧げ、神との生きた交わりが与えられることを求めてやまないのです。それゆえにまた、良心は真の赦しを切望するのです。この詩編においても「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(同3‐4節)とダビデは祈っています。これは人間が聖なる神を慕い求める時に、当然のごとく起こる良心の叫びなのです。しかし、この良心の求めは、旧約の祭儀においては完全に満たされることはありませんでした。それが神ならぬ偶像であるならば、いくらでも気安く近づけるのです。ですから、神ならぬ代替物で人間は自分の良心をごまかすのです。そのようにイスラエルの人たちもごまかしてきたのです。そして、まことの神に対しては、やはり近づけない。あの幕屋の構造が示している通りなのです。「供え物といけにえが献げられても、礼拝する者の良心を完全にすることができない」。
しかし、その不完全なるものの終わりの時が来たのです。真の大祭司が現れたからです。写しではなくて、その実体なる聖所において執り成してくださる大祭司が現れたのです。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(11‐12節)。これまで写しである聖所に仕える祭司たちの儀式によって幾度となく予告されていた、「ただ一度」にして永遠なる祭儀が執り行われたのです。それは完全な贖いです。そして、永遠の贖いなのです。
そして、このキリストの血こそが、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」させるのです。ここで「死んだ業」は「生ける神」と対比されています。生ける神との交わりをもたらさない業のことです。それが何を意味するのかは、それぞれ静まって考えてみる必要があります。それは神に背いた悪い行いだけではありません。自分の力によって神との交わりを実現しようとして行う善い業、そして結局は良心の満足は得ず失望に終わる試み、あるいはその結果として神の代替物へと逃れていくことをも含みます。ただキリストの血のみが、そのような死んだ業から良心を解放し、まことの神との交わり、生ける神を礼拝することへと人を導くのです。