2020年3月1日日曜日

「生きている神の言葉」

ヘブライ4:12‐16

神の言葉は両刃の剣
 レントに入りました。その最初の主日の第2朗読として、ヘブライ人への手紙が読まれました。

 「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(12節)。

 ここでは「神の言葉」について語られています。私たちは先ほど、心を合わせて神の言葉を求めて祈りました。そして、神の言葉を求めて聖書の言葉に耳を傾けました。私たちが毎週そのように祈り、聖書を開くのは、神が「語りかける神」であると信じているからです。神は私たちの祈りを聞いてくださるだけではない。私たちの賛美を受け入れてくださるだけではありません。神は語られるのです。聖書が朗読され、聖書が解き明かされるとき、私たちは語り給う神の御前に置かれ、神の言葉を聞いているのです。

 そして、神の言葉は生きていると書かれています。神の言葉は力を発揮するのだと書かれています。生きている神の言葉はどのように力を発揮するのでしょうか。神の言葉は両刃の剣に喩えられています。その両刃の剣はこの世のいかなる剣よりも鋭いと語られています。そのような両刃の剣として力を発揮するのです。

 神の言葉が両刃の剣のように力を発揮するということは、私たちが切られるということでもあります。刺し貫かれるということでもあります。「精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに」と書かれています。人間の非常に深い所まで切られるということです。どれほど深くにまで及ぶのでしょう。「心の思いや考えを見分けることができる」。それほどに深くにまで及びます。

 心の思いや考えというのは、人の目から隠しておける部分です。実際、私たちは心の思いや考えをある程度隠しながら生きているものでしょう。そして、時には深く、深く、誰からも分からないところに、隠しておくこともできるのでしょう。しかし、神の言葉はそこにまで切り込んでくるのです。そのような私たちの隠れた思いや考えを見分けるほどに刺し貫いてくるのです。それはすなわち、深いところにある心の思いや考えまでも、神によって見られ、判断され、裁かれるということです。

 そのようなことが、神の御前に集まり、神の言葉を求めるところにおいて起こるのです。それは私たちの日常にはないことです。私たちは通常はジャッジする側にいますから。私たちは物事を主体的に判断し、他の人々や物事を裁きながら生きているのでしょう。そして、時として、そのように裁く者として神にも向かうのだと思います。そのように裁く者として聖書にも向かうのかもしれません。

 しかし、神の言葉を求めるところにおいては、立場は逆転します。神が語られる場においては、神が判断し、神が裁く側に立つのです。人間は裁かれる側に置かれるのです。神が人間に語られるのです。その言葉は最も深いところにまで及びます。

 実際、神を礼拝する生活をスタートし、神の言葉に耳を傾けるようになると、そのことを経験し始めます。「神は確かにわたしを知っておられる」と思わずにはいられない時が確かにあるのです。私が抱いているこの思いは誰にも話してはいないのに、誰にも知られてはいないはずなのに、確かに神は知っておられる。墓場に至るまで秘めておこうと思っていたその心の思いについてさえも神は知っておられる。聖書の朗読を聞きながら、また聖書の解き明かしを聞きながら、そう思わずにはいられない時があるのです。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」と書かれているとおりです。

 それは昔から人々が経験してきたことなのです。もはや神の言葉の前には隠し立てすることはできない。そのことを思い知らされてきたのです。それゆえ彼はさらにこう続けます。「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(13節)。

 神の御前でなければ、私たちは他の人のことを言っていられるのです。神が語られるところにいるのでなければ、私たちが他の人について語れるのです。あの人が悪い、この人が問題だ。家族が悪い、政治家が悪い、世の中が悪い、と。しかし、神の言葉が私たちの最も深い心の思いや考えにまで及び、神の御前においてすべてがさらけ出されていることを知るなら、私たちはもはや他人を問題にしているわけにはいきません。問われているのは私たち自身だからです。「この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」。神が私たちに語られるとは、そういうことです。

 それはある意味で恐ろしいことでもあります。知られているということは恐ろしいことです。心の思いや考えまでも判断されているということは恐ろしいことです。エデンの園においてアダムとエバは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れました(創世記3:8)。彼らがしたことは私たちにも良く分かります。まことに神が語られるところに身を置いて、私たちが他の誰かではなく自分自身のことを申し述べねばならないとするならば、神の顔を避けて、隠れたくもなるのでしょう。

大胆に御座に近づこう
 しかし、そこで神の顔を避けないで、園の木の間に隠れないで、暗闇の中に身を置かないで、光の中にとどまり、神の言葉にとどまり、信仰にとどまるところにこそ、まことの救いもあるのです。なぜなら、神は憐れみの神であり、恵みの神であるからです。そのような神であるからこそ、私たちのために、偉大な大祭司、神の子イエスを与えてくださったのです。それが14節以下に書かれていることです。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」(14節)。

 「大祭司」とは何であるか。続く5章に記されています。もともとは罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命された人のことです。彼は罪のための供え物やいけにえを献げて、神の御前に立って人々のために執り成しをするのです。

 そのように、イエス様が大祭司であるとは、イエス様もまた、罪のための犠牲を献げて、私たちのために執り成しをしてくださる御方だということです。大祭司は罪の贖いのための犠牲を献げます。イエス様が罪のために献げてくださった犠牲とは御自身の命です。イエス様はただ一度、十字架において完全な罪の贖いの犠牲を献げてくださいました。そして、永遠に私たちのために執り成してくださる大祭司となってくださったのです。

 その大祭司である神の子イエスについては、次のように書かれています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(15節)。

 「試練」という言葉は「誘惑」とも訳せる言葉です。本日の福音書朗読で読まれたマタイによる福音書4章では「誘惑」と訳されていました。あの御方は、私たちと同じこの体をもって、地面の上を歩いてくださいました。この世においてこの体をもって生きるということがどれほど過酷なことであるかを自ら味わってくださいました。私たちが苦しみの中で何を感じるのか、どんな行動をとってしまうのか、そこにどんな誘惑があるのか、どれほど激しい罪との戦いがあるのか、すべて知っていてくださるお方です。

 だからこの大祭司は私たちの弱さを分かってくださるのだと語られているのです。私たちが自らの弱さと罪に深い悲しみを抱くとき、同じように悲しんでくださる御方です。時として自分で自分を罰したくなるほど、打ち叩きたくなるほど悲しい思いをする時に、その悲しみを分かってくださる御方です。その方が大祭司として私たちのために執り成していてくださるのです。「彼らの罪を赦したまえ」と。

 先にも述べましたとおり、そのような大祭司を与えてくださったのは、他ならぬ父なる神御自身なのです。「すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」と書かれていました。そのように、私たちの全てを知っておられる方が、私たちの罪も過ちも全てご存じの方が、それでもなお私たちが神に近づくようにと、大祭司であり罪の贖いの犠牲でもある御方を与えてくださったのです。ですから、その大祭司の存在そのものが神の呼び声に他ならないのです。「わたしに立ち帰りなさい。わたしに近づきなさい」と。

 だからもう、私たちは神の顔を避けて、隠れる必要はないのです。暗闇の中に逃げ込む必要はないのです。光の中に立ち帰ることができるのです。神の言葉に耳をふさいで生きる必要もないのです。安心して神の言葉を求めたらいい。そこには既に神の憐れみがあります。そこには既に神の恵みがあります。だからこう書かれているのです。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(16節)。

 それゆえに、私たちは今日もこうして、恵みの座に近づき、神の言葉を神の言葉として受け取って生きるのです。私たちの最も深いところまで刺し貫く両刃の剣よりも鋭い神の言葉として受け取って生きるのです。神の言葉が私たちの最も深いところまで刺し貫くゆえに、そこにまで神の憐れみと恵みが届くのです。だからこそ神の言葉が刺し貫く最も深いところからの信頼をもって生きることができるのです。誰も奪うことのできない最も深いところに希望をいただいて生きていくことができるのです。これからも両刃の剣より鋭い、生ける神の言葉を共に求めていきましょう。

(祈り)

以前の記事