エフェソ5:6‐14
以前は暗闇でした
「光の子として歩みなさい」。神様はパウロを通して、かつてエフェソの教会の人たちにそう語りかけました。そして今、頌栄教会の私たちにも、同じように語りかけておられます。「光の子として歩みなさい」。なぜでしょう?わたしたちは既に主に結ばれて光となっているからだ、と聖書は教えています。キリストを信じ、キリストに結ばれるということは、光となることなのです。
神様は私たちを教会に導き、キリストに出会わせてくださいました。それは私たちを光とするためでした。イエス様御自身も言われたではありませんか。「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と。イエス様は「世の光になりなさい」とは仰いませんでした。今日の箇所でも「光となりなさい」とは語られてはいません。「光となっています」と言われているのです。せっかく光にしていただいたのです。ならば限られたこの一生を光の子として歩みたいものです。
「光の子として歩みなさい」という勧めの意味を理解するためには、その前に書かれていることにまず心を向ける必要があります。そこには、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが」と語られています。「暗闇でした」です。「暗闇の中にいた」ではありません。「あなたは暗闇の中にいた可哀想な人でした。とっても不幸な人でした」と言っているのではないのです。「あなたは暗闇そのものだった」と言っているのです。
今日、自分が暗闇の中を生きているように感じている人は少なくないと思います。暗い人生であると感じている人も少なくないでしょう。しかし、実は暗闇は自分の外にあるのではない。暗闇はあなた自身の内にあるのであって、あなた自身が暗闇をもたらしてきた張本人だったのだ。暗闇そのものだったのだ、と聖書は言っているのです。
このことを認識することは大事なことです。いつも他の人を悪者にしている私たちですから。しかし、今は受難節です。他の誰でもない《私たちの》罪を負って十字架にかかってくださったキリストの御受難を思うときです。そのような意味において自らを省みる時です。
キリストなくしては、わたしは暗闇でしかない。暗闇をもたらす暗闇そのものでしかない。そのことが心底分かってこそ、ここに書かれていることが、どれほど大きな恵みであるかも見えてくるのでしょう。あなたは確かに暗闇だったけれど、今は主に結ばれて光となっているのですよ。あなたは既に光となっているのだから、光の子として生きられるはずなのですよ。「光の子として歩みなさい」とはそういうことです。
主に結ばれて光としていただいているならば、そう神様が仰るなら、わたしは光の子として歩みたい。その願いが大事なのです。その願いがなければ、ここに書かれていることは、不可能なことを要求する厳しい戒めにしか聞こえないでしょう。
「光の子として歩みなさい」――この言葉を私たちに与えられている恵みとして受け取りたいと思うのです。既に光とされているからこそ、こう語られているのですから。その上で、「光の子として歩む」ということがいかなることかを、さらに御言葉に聴いていきたいと思います。
キリストの光をもたらす人に
光に何よりも期待されているのは、照らすことでしょう。明るく照らし出すことです。私たちは周りを明るく照らすことが期待されているのです。それはいわゆる「明るい人になる」ということではありません。周りの雰囲気を明るくすることが大事なのではありません。実はそのようなことよりも、遥かに激しいことが書かれているのです。11節以下をご覧ください。そこには「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです」(11‐12節)と書かれているのです。「暗闇の業を明るみに出す」――これが周りを照らすということです。
しかし、「暗闇の業を明るみに出す」というのは、単に他人の隠れた罪を暴いて責め立てることではありません。そのようなことは何も聖書が語らなくても、世の中で自然に行われていることです。「暗闇の業を明るみに出す」ということの意味を正しく理解するためには、その続きを読まねばなりません。そこにはこう書かれているのです。「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです」(13‐14節)。
この最後の「光となるのです」が重要なのです。光に照らされて、罪が罪であると明らかにされると、今度は照らされたものが光となっていく。暗闇であったものが光となるのです。そのような仕方で光を照らすことを言っているのです。――何の話か、もうお分かりでしょう。キリストの救いの光を照らすということです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と語られていたことを思い起こしてください。そのことが、私たち自身に起こっただけでなく、今度は私たちの周りに起こってくるということです。
ですから、次のように続くのです。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」(14節)。これは旧約聖書の引用ではありません。恐らくは当時歌われていた賛美歌の一節です。ここで重要なのは「キリストはあなたを照らされる」という言葉です。ここにおいて先ほどから語られてきた「光」が何であるかが明らかにされているのです。
神様が呼びかけておられるのです。「死者の中から立ち上がれ」と。罪の中に死んでいる者よ。死んだままで良いのか。立ち上がれ。よみがえれ。そう呼びかけて、罪からの救いをもたらすキリストの光を照らそうとしておられるのです。そのために神は教会を用いようとしておられるのです。先に主に結ばれて光とされた者を光として用いようとしておられるのです。そのようにキリストの救いの光を照らすために用いようとしておられるのです。
実際、そうでしょう。私たち自身も先に主に結ばれた人々を通して、キリストの光に照らされたのではありませんか。先に主に結ばれた教会があったから、キリストの光に照らされたのでしょう。キリストの光によって私たち自身の姿が見えてきたのでしょう。私たち自身の姿も見えてくるようになったのでしょう。そのようにして悔い改めへと導かれ、神の赦しをいただいて、神と共に生きるようになったのでしょう。そのようにキリストの光、恵みの光に照らされて、罪が罪として明らかにされるのです。キリストの光に照らされて、初めて私たちのしてきたことが「口にするのも恥ずかしいこと」であることが認識されるのです。まさに闇の業であるということが分かってくるのです。
しかし、キリストの光が罪を明らかにする時、暗闇が暗闇であることを明らかにする時、それは断罪し絶望させるためではないのです。人はもはや光から逃げなくても良いのです。なぜなら、キリストが照らすその光は、人を起き上がらせる恵みの光だからです。キリストが救ってくださるのです。「明らかにされるものはみな、光となる」(14節)のです。
そのようなキリストの光をこの世に輝かせる者となる、それが「光の子として歩む」ということに他なりません。先ほども言いましたように、誰かの罪を暴いて、責め立てるだけならば、この世において行われてきたことです。そのために光の子として歩む必要はありません。いくらでも上手にできるようになるのでしょう。しかし、誰かの救いを願い、キリストの光を輝かせるということならば、光の子として歩んでいることが必要です。「今は主に結ばれて、光となっています」とあるように、あくまでも「主に結ばれて」なのです。光はもともと私たちの内にあるのではありません。キリストから来るのです。
ですから主に結ばれてキリストと共にある具体的な生活が重要になってくるのです。光の子として「歩む」ということです。この「歩む」というのは継続を表す表現で書かれています。キリストに結ばれて歩み続けるのです。キリストに結ばれて生きていく生活が形作られていくことを意味するのです。
新型コロナウイルス感染症のゆえに、主に結ばれているものとして、このように具体的に主の日に集まることが非常に難しくなってまいりました。実際、主の体と血とにあずかる聖餐式、目に見える形で主につながる聖餐式を、今月は行うことができませんでした。しかし、このように共に集まれなくなった時こそ、聖餐を行うことが困難になった時こそ、キリストに結ばれること(キリストの内にあること)、キリストの体である教会に結ばれていることが何を意味するのかを改めて考える機会でもあるのでしょう。そして、主に結ばれて光の子として歩むとはどういうことなのかを考える機会でもあるのでしょう。私たちはその意味でも、このような形で与えられたレントの時を大切にしたいと思うのです。