2020年3月11日水曜日

祈り会用:ヘブライ人への手紙、8:1-13

 イエス様がメルキゼデクと同じような祭司であることについての話は続きますが、この著者は語ろうとしていることをここで短く要約しておくのが良いと思ったようです。この1節、2節にすべてが言い尽くされていると言えるでしょう。私たちには大祭司が与えられています。大祭司というのは、犠牲を献げるために任命されているのです。ですから、「この方も、何か献げる物を持っておらなければなりません」(3節)。しかし、この著者はこの話を9章後半まで置いておきます。その前にこの大祭司がどこにおられるかに注目させます。私たちの信仰告白においても言い表しているように、キリストは天に昇られ、全能の父なる神の右に座しておられるのです。つまりイエス様は天においてその務めを果たしておられるのだ、ということです。御子が地上に来られた時、地上には既に律法によって定められたレビの系統の祭司たちがおりました。ですから、復活と昇天がなければ、イエス様は祭司ではあり得ません。4節に書かれているとおりです。

 さて、ここには注目すべき対比があります。地上における祭司と天上における祭司です。そこで問題はどちらが本来的な祭司なのか、ということです。既に明らかにされてきたように、それは天上における祭司なのです。では、地上の祭司がしてきたことは、いったい何なのでしょう。そこで心に留めるべきは、「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋」という言葉です。天上の大祭司なるイエス様が仕えている天の聖所のことです。

 「天の聖所」に対応しているのは「地上の聖所」です。地上の聖所と言えば、これを読んでいる読者はすぐにエルサレムの神殿を思い起こすことでしょう。特に神殿の一番奥にありまして垂れ幕によって仕切られています至聖所と呼ばれる部分です。イエス様が十字架にかかられた時、上から下まで真っ二つに裂けたと言われているのは、この垂れ幕のことです。この一番奥に至聖所があるという神殿の形はモーセの時代にまで遡ります。もちろん、その時には建造物としての神殿ではなく幕屋です。しかし、構造は同じなのです。

 さてこのように幕屋があり神殿がある。当然のことながら、読者にとって身近なのは、この目に見える聖所の方です。ですから「天の聖所」と聞きますと、まず「地上の聖所」があって、それを比喩に用いて天のことを表現しているのだと考えてしまいます。私たちも、常々そのような考え方をしているものでしょう。例えば、「天の父」と言いますと、神様を「たとえて言うならば私たちのお父さんのような方」として理解しているのだと考える。「父の家」と言いますと、まず地上の家があって、それを比喩的に用いて天の御国を表現するならば、「父の家」になるのだ、というように考えているのではないですか。この場合も「天の聖所」というのは比喩的表現だと考えてしまっているかもしれません。

 しかし、本当はそうではないのだと今日の箇所は教えているのです。まず地上の聖所があるのではなくて、まず天の聖所があるのだ、と。その根拠となっているのは、出エジプト記25:40です。ご存じのように、この部分は神様がモーセに幕屋建設の指示を与えているところです。モーセはシナイ山で律法を受けます。その時に幕屋建設の指示をも受けるのです。その時、神様はモーセにこう言われたのです。「あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい」(出25:40)。ここで「作り方」となっていますが、そのギリシア語訳がヘブライ8:5に引用されていますように、それは「型」あるいは「原型」と訳せる言葉なのです。つまりモーセが最初の聖所を作る前に、その原型があったということです。どこにあるのでしょう。神様が示したのですから、それは神のもとに、天にあるのです。

 天の聖所は比喩的表現なのではないのです。まず天の聖所があるのです。そして、地上の聖所は「天にあるものの写しであり影であるもの」だと言うのです。その写しに仕えているのが地上のレビ系統の祭司だと言うのです。なららレビ系統の祭司たちもまた写しにすぎません。こうして千年以上も続いてきた地上の聖所とそこにおける祭司の意味が明らかにされました。それは天にあるものを不完全ながらも地上に示すものだったのです。

 そのように長い間、天にあるものの写しに仕えてきた祭司たちによって示されてきた、まことの祭司が現れたのです。それがわたしたちの大祭司、イエス・キリストです。その方の務めは写しに仕える務めよりもはるかに優っていることを、この著者は新約と旧約ということからさらに説明します。

 ここで引用されているのはエレミヤ書31章31節以下の部分です。モーセが与えられた幕屋建設の指示は律法として与えられました。律法は神と民との契約に基づいて与えられました。その契約については「わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約」(9節。引用もとはエレミヤ31:32)と呼ばれています。この契約に基づいて律法が与えられ、その中に幕屋建設と祭司制度もあったのですが、もしそれが完全であるならば「第二の契約」すなわち「新しい契約」が与えられる必要はなかったのです。しかし、実際には、神はエレミヤを通して「新しい契約」について語っておられるのです。「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る」と。

 「新しい契約」と表現されたということは、それまでの契約は古びてしまったということを意味します。つまり神様はこの地上の目に見える神殿も、そこにおける祭司制度も古びてしまったもの、消え去るべきものと見られたということです。「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます」(13節)。

 そして、その新しい契約は実現したのです。イエス様が最後の晩餐において「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われたようにです。そして、事実イエス・キリストの血が流されることになったのです。もはや古き律法の時代、古き祭司制度の時代は過ぎ去りました。その写しが示していたように、本来の大祭司が本来の祭儀を行うために天の聖所に入られたのです。私たちはそのまことの大祭司の執り成しのもとにあるのです。

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