2020年5月3日日曜日

「キリストが教会の扉をたたかれる時」

ヨハネの黙示録3:14‐22

キリストを閉め出してしまった教会
 教会がキリストを外に閉め出してしまって、もはや教会にはキリストがおられない。そんなことがあり得るのでしょうか。教会がキリストを外に閉め出してしまって、もはや聖餐の場にキリストはおられない。そんなことがあり得るのでしょうか。――今日お読みした聖書箇所は、確かにそのようことがあり得ることを明瞭に示しています。

 今日は第2朗読においてヨハネの黙示録が読まれました。「黙示録」と呼ばれていますが、内容的には手紙です。差し出し人と宛先は1章に書かれています。「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」(1:4)。時は紀元1世紀も終わりの頃。皇帝ドミティアヌスの治世。帝国規模に広がった迫害の中で苦しんでいた教会に宛てられた手紙です。それは集まって共に礼拝する中で朗読されるために書かれた手紙です。

 差し出し人であるヨハネはパトモスと呼ばれる島にいました(1:9)。その島は流刑地の一つでした。ヨハネは囚われの身としてそこにいたのです。そのヨハネがある主の日に声を聞きます。声の主は復活されたキリストでした。主はヨハネに言われました。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(1:11)。そうしますと、差し出し人はヨハネですが、実際にはキリストから七つの教会への手紙と言うこともできるでしょう。

 そのような手紙の中で次のように語られていました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(20節)。ここで語っておられるのはキリストです。ここでキリストがたたいておられるのは、まだキリストを信じていない未信者の心ではありません。繰り返しますが、これは教会に宛てられた手紙なのです。

 この言葉は、14節に見ますように、「ラオディキアにある教会」の天使に書き送られた言葉です。つまり、その教会に対して語られた言葉なのです。外に立っておられる主がたたいておられるのは、教会の扉であり、キリスト者の扉なのです!教会がキリストを外に閉め出してしまって、もはや教会にはキリストがおられない。そんなことがあり得るのでしょうか。――そうです、あり得ることなのです。

あなたがたは熱くも冷たくもない では、キリストを閉め出してしまったラオディキアの教会とはどのような状態にあったのでしょうか。ラオディキアのキリスト者はどのような人々だったのでしょうか。主は15節以下で次のように語っておられます。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(15‐16節)。

 彼らは冷たくはなかったのです。冷たくはないというのは、キリストを否み、信仰を捨てた人々ではない、ということです。彼らは棄教したわけではないのです。教会の迫害者の側にいるわけでもありません。彼らはあくまでもキリスト者です。ラオディキアの教会は、あくまでも教会なのです。

 しかし、彼らは冷たくはないのですが、熱くもないのです。これは単に熱心でない、ということではありません。熱心に伝道し、熱心に奉仕をしていない、ということでもありません。むしろ、彼らはもしかしたら、いわゆる熱心なキリスト者であり、熱心な教会であったかもしれないのです。

 ここで「冷たくも熱くもない」と言われていることの内容は、17節に次のように説明されています。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17節)。

 ラオディキアは商業都市として栄えた町であり、いわば当時の世界の商業的中心地でありました。そこにある教会は、貧しいエルサレムの教会と比べて、豊かな人々が比較的多かったに違いありません。サポートする側とされる側ということを言うならば、明らかにサポートする側の教会だったと思います。「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」という言葉は傲慢に聞こえますが、しかし、実際にはそのような豊かな教会が、貧しい教会を支えていたのです。熱心に支えていたのです。そして、そのような教会は、全教会の中においても重要な位置を持っていたのでしょう。

 いや、単に経済的な豊かさだけではありません。ラオディキアの教会は、霊的な意味においても豊かな教会、指導的な立場にある教会を自認していたのではないかと思われます。彼らは「わたしは見えている」と思っていたのです。見えている人々は、見えていない人々を指導せねばならないと思うのでしょう。手引きしなくてはならないと思う。「あなたの目からおが屑を取らせてください」(マタイ7:4)と言って、奉仕することが自分たちの努めであると思うのです。

 しかし、主はラオディキアの教会に言われます。「 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」そして、イエス様はこう言って勧めるのです。「裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身につける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(18節)と。

 「わたしから買うがよい」とイエス様が言われるということは、要するに、彼らはそれらをイエス様にこれまで求めてはいなかった、ということを意味するのでしょう。イエス様から得ることなくして、豊かになっていたのです。豊かなつもりでいたのです。イエス様に求めることなくとも、目の見える者として振る舞えたのです。イエス様によって目に塗る薬を与えられずとも、目の見える者のように他者を裁くことさえできたのです。いつのまにか、自分の貧しさが分からなくなり、熱心にイエス様に求めることもなくなってしまった。イエス様に祈り求めることなくして、他者に何かを与え得るかのように、他者に何かを為し得るかのように思っていたのです。そのようにして、いつの間にか、イエス様を教会から閉め出してしまっていたのです。自分の信仰生活からも閉め出してしまっていたのです。

 「熱くも冷たくもなく、なまぬるい」とはこういうことです。それはいわゆる「なまぬるいクリスチャン」のことではないのです。見たところ熱心なキリスト者、熱心な教会かもしれないのです。「なまぬるいので、口から吐き出そう」――それは要するに傲慢なキリスト者のことなのです。自分の貧しさを知らない、目の見えないことを知らない、傲慢なキリスト者、傲慢な教会のことなのです。

熱心に努めよ。悔い改めよ
 しかし、ありがたいことに、キリストは教会をそのような状態に放ってはおかれません。教会が、キリスト者が、イエス様を閉め出したままの傲慢な状態、それゆえに惨めな状態であり続けることを、主は良しとはされないのです。主は愛する者を皆、「叱ったり、鍛えたりする」と言われるのです。

 私たちは実際、しばしば主の御手によって、自分の傲慢さ、そして自分の惨めさを思い知らされるのです。「なぜ教会にこんなことが起こるのか。なぜ私の人生にこんなことが起こるのか」と思えるような事ごとを通して、私たちは自分自身を思い知らされるのです。そこで、主は言われるのです。「だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」と。

 主の懲らしめの時、それは言い換えるならば、主が教会の扉をたたかれる時です。また、キリスト者の人生の扉をたたかれる時なのです。主は扉をたたき続けられます。諦めることなくたたき続けられます。私たちは主のノックの音、そして呼びかける声を聞くのです。そして、主の声を聞いて自ら扉を開けて主を迎える。それこそが、ここで語られている悔い改めに他なりません。扉を大きく開いて、主をお迎えするのです。

 そうする時に、主は私たちと食事を共にしてくださるのです。ここに語られているのは、特にパン割き、すなわち聖餐のことであろうと思われます。主が共に食事をしてくださってこそ、聖餐が本当の意味で聖餐となるのです。聖餐が聖餐となるのは、扉を開けることによってなのです。すなわち、悔い改めによってなのです。

 3月1日の主の日、私たちは聖餐式の執行を中止しました。新型コロナウイルスの感染リスクが高いとの判断に基づく決断でした。恐らく戦時中を除いて教会としては初めての聖餐の執行中止であったと思います。そして、その主日以降、私たちは聖餐式を行うことができていません。イースターにさえ、私たちは聖餐を行うことができませんでした。それはある意味では主が聖餐を行うことをお許しにならなかったからであると言えるでしょう。

 私たちはそのような事態の中で、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」と呼びかけられているのです。そのような私たちはいったいいつ共に聖餐にあずかることができるのでしょうか。主は言われるのです。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(20節)。

 私たちが再び集まって聖餐が行えるようになるのは、感染拡大が収束に向かうことによってではないのです。そうではなく、主がたたく音を私たちがしっかりと聞いて、悔い改めた者として扉を開けることによって、主が私たちと食事を共にしてくださるのです。私たちは、そのように真の聖餐を行うことができる時に向けて、私たち自身を備えたいと思うのです。

(祈り)

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