2020年5月24日日曜日

「天の礼拝、地上の礼拝」

ヨハネの黙示録 5:6-14

ヨハネの涙 今日は第二朗読においてヨハネの黙示録が読まれました。パトモス島に抑留されていた時に、ヨハネが神によって見せていただいた幻です。彼は幻の中において、開かれた天の門を通り、いつしか天の玉座の前にいたのでした。そこで彼は二十四人の長老たちが冠を玉座の前に投げ出して礼拝し、また不思議な天の生き物が絶え間なく主を誉め称えているのを見たのでした。

 そして、この5章に入りまして、「またわたし(ヨハネ)は、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た」(1節)と書かれています。そこに記されているのは神の御心です。すなわち、裁きと救いをもたらす神のご計画です。

 そこで一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げるのを見ました(2節)。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった、と言うのです。そこでこう書かれています。「この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた」(4節)。

 これは一見奇妙な描写に見えます。思い描いて見ると、まるで中身を見せてもらえないで駄々をこねて泣きわめいている子供みたいです。しかし、よくよく考えますと、ヨハネの涙や嘆きには思い当たるところがあると気付きます。私たちもまた、苦しみや悲しみをもたらす現実に直面して、泣いたり叫んだりするわけですが、もっとも悲しいのは、そのような試練の中にあってしばしば神の御心が分からないということなのでしょう。神が何を為そうとしているのか分からない。最終的にどこに向かわせようとしているのか分からない。神のご計画が分からない。そのような時に、私たちは泣かざるを得ないのです。

 しかも、ヨハネはここで、この封印を解くにふさわしい者がこの世界の中にいないことを突きつけられるのです。人間の中に誰一人としてふさわしい人がいない。それは当然、人間には罪があるからということでしょう。だから誰もふさわしくはない。それを突きつけられたら泣くしかないでしょう。どんなに苦しいことがあっても、悲しいことが起こっても、その理由も目的も結局は分からないとなれば、泣くしかないのです。

 しかし、そこで「泣くな」という声をヨハネは聞いたのでした。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」(5節)。メシアが既に勝利を得られた。だから泣かなくていい。そのメシアが巻物を開いてくださるのです。

屠られた小羊 そこから今日の箇所に入ります。ヨハネがそこに見たのは、「屠られたような小羊」でした。確かに小羊は立っている。復活して立っているのです。しかし、そこには屠られた傷跡がありました。それは十字架の傷跡を持つキリストに他なりません。イエス様は傷を持つ御方であり続けてくださる。私たちのために十字架にかかられたキリストであり続けてくださる。その事実をヨハネは目にするのです。

 もちろん、ヨハネは屠られた小羊こそ勝利を取られた御方であることを、その時初めて知ったわけではありません。それは福音の言葉として既に地上の教会において聴いていたはずですし、ヨハネ自身もこれまで多くの人々に宣べ伝えてきたはずです。神の御心を明らかにし、それを実現するにふさわしい方。最終的な審判者であり、救い主である御方をヨハネは知っていたはずなのです。

 そうです。私たちも知っている。私たちも福音の言葉を通して聞いてきました。しかし、現実の苦しみに満ちた世界に目を向けている間に、いつの間にかキリストが誰であるかを忘れ、御心の巻物は永遠に封印されているかのように感じて、御心が分からないと言っては泣いているというのも事実です。だからこそ、私たちは繰り返し主の日の礼拝において屠られた小羊、しかも復活して立っている小羊を仰がなくてはならないのでしょう。あのヨハネのように。

 小羊が玉座の御前に立っておられます。ヨハネはその御方に七つの角と七つの目があるのを見たのでした。七は完全を現す数字です。角は力です。その御方は傷を持つ小羊でありながら無力ではありません。七という数字に表される完全な力をお持ちです。その御力をもって裁きと救いを実現することがおできになる。そのような御方が立っておられる。そして、その御方の七つの目。計り知れない叡智をもって全地をくまなく見ておられるキリストの目です。それは全地に遣わされている神の七つの霊であると語られています。あえて「七つ」と書かれているのは、そのお働きが完全であるからです。

 天のキリストの眼差しは遠いところからの眼差しではないのです。この地上において生きて働かれる神の霊のおられるところに、キリストの目もまたあるのです。その眼差しからいかなる地上の現実も洩れることはありません。「全地に遣わされている」と書かれているとおりです。流刑の地パトモス島も、また、苦しみの中にある教会も例外ではありません。現在のこの散らされている教会の現実もまたそうです。近くで見ていてくださる御方がいるのです。七つの目を持つ小羊が王座の前に立っておられるのです。

 ヨハネは、その小羊なる方が、確かに巻物を受け取るのを見ました。未来は私たちの知らない運命の手の中にあるのではなくて、私たちのために屠られて、そして復活して立っておられる小羊の手の中にあるということです。すると四つの生き物と二十四人の長老は、小羊の前にひれ伏して、小羊を誉めたたえます。巻物を手にしておられる方が、どれほど素晴らしい御方かを知っているからです。まさに手にするに最もふさわしい御方が手にしていてくださることを、彼らは知っているのです。

天に連なる私たちの礼拝 一方、私たちは残念ながら、まだ十分に巻物を手にしておられる御方のことを知りません。しかし、有り難いことに、四つの生き物と二十四人の長老が、香のいっぱい入った金の鉢を小羊のところに持って行ってくれていると言うのです。その香とは何か。「この香は聖なる者たちの祈りである」(8節)と書かれています。聖なる者たちとは、後で見ますが、それは私たちのことなのです。

 私たちはまだ、神の御計画が書かれた巻物を手にしておられる御方を十分に知らないのです。ですから、この地上において恐れたり、嘆いたりしているのでしょう。恐れながら、嘆きながら、この地上の礼拝と生活において祈ります。讃美を歌って祈るにしても、本当の信頼と喜びをもって小羊に栄光を帰するところからはほど遠い。そんな祈りであり礼拝です。しかし、それを天の長老が小羊のところに携えていってくれるのです。そうやって、私たちもまた礼拝に参加させていただいているのです。私たちが今日、それぞれの場所で捧げるまことに不信仰な粗末な礼拝も、このようにして天の礼拝に連なっているのです。

 そして、四つの生き物と長老たちは、新しい歌をうたいます。「あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、 彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します」(9‐10節)。

 屠られた小羊のしてくださったことが、ここに高らかに歌われています。ここに歌われているのは、まさに私たちに直接関係していることです。私たちはもともと神の民ではなかったのです。異邦人だったのです。しかし、恵みからずっとずっと遠くにいた私たちをも、小羊は御自分の血で、神のために贖ってくださいました。神のものとし、「神に仕える王、また祭司」としてくださったのです。

 私たちは「神に仕える王」としていただきました。当時、ローマ帝国においては、それぞれの地域に支配者が立てられていました。その上に皇帝が支配していたのです。ですから皇帝は「地上の王たちの支配者」と呼ばれていました。しかし、聖書はそれに否を唱えるのです。「地上の王たちの支配者」は皇帝ではない。真の支配者はキリストであると。ですから1章5節ではイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているのです。そのキリストが支配する王たちとは誰か。それは私たちだというのです。私たちは最終的に、キリスト以外の何ものにも支配されることはないのです。キリストに支配される王ですから。

 そしてまた、キリストは私たちを「祭司」としてくださいました。祭司は神と人との間に立つのです。もちろん、真に神と人との間に立って執り成してくださるのはまことの大祭司なるキリストだけです。しかし、その大祭司のもとにある祭司として、私たちもまた務めを果たすのです。

 そのように小羊は、私たちを神に仕える王としてくださいました。祭司としてくださいました。そのために小羊自らが血を流して、私たちを贖ってくださいました。それは本当はこの上ない喜びであるはずです。しかし、私たちはなかなかそれが分からない。ですので、先に天の長老たちが喜びをもって歌っていてくださるのです。

 いやそれだけではありません。そこに万の数万倍、千の数千倍の天使たちが現れて小羊を誉めたたえます。また、天と地と地の下と海にいるすべての被造物が誉めたたえます。屠られた小羊は、天使たちのために屠られたのではなくて、私たちのためでしょう。なのに、まず天使たちが屠られた小羊をふさわしく讃えていてくれているのです。全被造物が先に誉めたたえていてくれているのです。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように」と。

 そして、この讃美の歌声の最後に、四つの生き物が「アーメン」と叫ぶのです。「そのとおり!」と叫ぶのです。この幻が書き記されて私たちに伝えられているのは、私たちも遅ればせながら、その「アーメン」を唱和できるようになるためであるに違いありません。私たちもまた、地上において「そのとおり。アーメン」と信仰を言い表して天の礼拝に連なる地上の礼拝をおささげするのです。
(祈り)

以前の記事