2023年5月14日日曜日

「神の協力者として遣わされた人」

テサロニケの信徒への手紙 3:1‐10

神の協力者として
 今日はテサロニケの信徒への手紙一を共にお読みしました。この手紙が宛てられているテサロニケの教会は、パウロの伝道によって誕生した教会です。テサロニケの教会が生まれた次第は、使徒言行録17章に記されています。しかし、結論から言いますと、パウロは信仰を持って間もないテサロニケの人々を残して、テサロニケの町を後にしなくてはなりませんでした。パウロに反対するユダヤ人たちの扇動によって、暴動と混乱が起こったからです。

 今日は3章からお読みしましたが、今日の箇所の直前には、後に残されたテサロニケの教会への思いが切々と記されています。「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました」(2:17)。この「引き離される」と訳されている言葉は、元々の意味は「孤児とされる」という言葉です。生まれたばかりのテサロニケの教会は、パウロたちを失って、まさに孤児となったような状態にあることを、パウロもまたよく分かっていたのです。

 それゆえに、実際、パウロは一度ならず、テサロニケを訪ねようとしたのでした(2:18節)。しかし、それは実現しませんでした。パウロは「サタンによって妨げられました」と言います。詳しい事情は分かりません。しかし、テサロニケの教会をそのままにはできません。「そこで、もはや我慢できず・・・・」と今日の箇所に続きます。パウロは自分の代わりにテモテを遣わすという決断をするのです。

 テモテは第2回目の伝道旅行の途中からパウロに同行するようになった若者です。パウロがテモテをどれほど信頼していたかは、他の手紙を読んでもよく分かります。そのテモテをテサロニケに送ったということは、パウロがこの派遣をいかに重く見ていたか、ということをも意味します。テサロニケの教会には、どうしてもテモテを遣わすことが必要だったのです。

 もちろん教会は、ただ人間の働きによって保たれるのではありません。先ほど、「テサロニケの教会は、パウロの伝道によって誕生した教会です」と言いましたが、厳密に言えば、それは正しくありません。テサロニケの教会を誕生させたのは神なのです。ですから、テサロニケの教会が困難の中でも生き続けるとするならば、それは神によるのです。テサロニケの信徒たちの内に善き業を始められたのは神なのです。ならば成し遂げてくださるのも神なのです(フィリピ1:6)。

 しかし、パウロは神が自分たちとは関係なく単独で何かを「成し遂げてくださる」とは思っていないのです。ですから、あえてテモテという《人間》を遣わすのです。神は人間を用いて御業を進められ、完成することを信じているからです。それはパウロがテモテについて語っている言葉からも分かります。彼はこう言うのです。「わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました」(2節)。

 パウロはテモテを「神の協力者」と呼びます。「協力者」と訳されているのは「共に働く者」という意味合いの言葉です。細かい話をしますと、ここで共に働くのは誰と誰なのかということで理解が二通りに分かれます。一つの理解は、「神のために共に働く者」という理解です。その場合、共に働くのはパウロとテモテです。それはそれとして、とても大事なことを教えていると言えます。実際に行くのはテモテです。しかし、あくまでもパウロや他の兄弟たちと「共に働く者」として行くのです。教会はスタンドプレーを必要とはしません。チームプレーが重要なのです。それが神のために仕えるというあり方なのです。

 しかし、もう一つの理解があります。「神と共に働く者」という理解です。新共同訳の「神の協力者」という訳はそのように理解から来ています。もちろん神と人とは対等な意味での協力者ではあり得ません。しかし、神はあえて自ら直接事をなさらずに、人間を用いて事をなされるのです。人間を通して、人間と人間との関わりにおいて、事をなされるのです。その意味で、人間は「神の協力者」となり得るのです。

互いに励まし合うために
 では、パウロは神の協力者としてのテモテを遣わして、いったいテサロニケの教会に何をもたらそうとしているのでしょうか。こう書かれています。「それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした」(2‐3節)。

 信仰者が信仰をもって生きるためには励ましが必要です。特に苦難の中に置かれているならばなおさらです。もちろん信仰を強めることができるのは、人間ではなく神です。必要とされているのは神の霊による働きであり、神からの励ましなのです。しかし、神の霊による、神からの励ましが与えられるためには、実際にテモテが旅をして、その体を彼らのもとに運んで、その体をもって彼らに会うことによって為されなければならないのです。神の励ましは、人間の言葉を通して、人間の行いを通して、与えられるのです。

 そのように信仰が他の信仰者を通して、他の信仰者との交わりにおいて強められなくてはならないのは、もう一方において、「誘惑する者」(3:5)がいるからです。これは明らかに人間のことではありません。サタンのことです。サタンが惑わすのだと言うのです。その惑わしは、具体的には苦難と共にやってきます。「このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした」(3節)と書かれていましたでしょう。それは、動揺して信仰から離れてしまうことがあり得るからそう書かれているのです。それこそがサタンの「惑わし」なのです。

 この「惑わす」という言葉は「試みる」という言葉です。元の言葉はそれ自体、必ずしも悪い意味に使われるわけではありません。これは良い意味で「試練を与える」ことをも意味します(ヘブライ11:17)。しかし、苦難はまず惑わしとして働くことをパウロは知っているのです。サタンによって神から引き離す力として働くことを知っているのです。なぜなら、パウロ自身、幾多の苦難を経てきたからです。だから励ましが必要なのです。信仰は強められなくてはならないのです。苦難に遭っても動揺しないためです。

 そこで重要なのは、苦難についての正しい認識が与えられることです。パウロはこう言いました。「わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました」(3‐4節)。

 「定められている」とは、そこに神の御心があることを意味します。神の意図があるのです。しかも、キリスト者に対して、教会に対して定めているならば、それは明らかに滅ぼすためではありません。苦難は神の呪いではないのです。なぜなら、呪いは既にキリストが受けてくださり、呪われたものとして木にかけられてくださったからです(ガラテヤ3:13)。ならばそこに残されているのは、父なる神の善意だけなのです。

 後にペトロもまた、試練の中にある教会に対して、次のように書き送りました。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1ペトロ3:5‐7)。また、こうも言っています。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(同3:12‐13)。

 このペトロの言葉においても明らかなように、この正しい理解において重要なのは、キリストの再臨に目を向けることです。終わりの日の完全な救いに目を向けるということなのです。サタンは、私たちの目を常に手前手前へと引き戻します。目の前の苦しみに私たちの目を釘付けにするのです。そうやって動揺させ、神から引き離そうとするのです。私たちは、サタンに惑わされないために、信仰を強められねばなりません。

 さて、そのようにパウロはテサロニケの信徒たちを励まし、その信仰を強めるためにテモテを遣わしたわけですが、今日の聖書箇所の直後には、そのテモテが持ち帰った知らせによって、パウロたちもまた励まされたことが書かれています。いや、それだけでなく、「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きているといえるからです」(8節)とさえ言うのです。パウロやテモテという人間を用いて神がテサロニケの信徒たちを励まし強めるのと同じように、神はテサロニケの信徒たちを用いて、パウロたちを励まし、復活の命に満たし、「わたしたちは生きている」と口にさせるのです。

 さて、ペンテコステが近づいてきました。私たちはこの季節、聖霊を信じる信仰を新たにせられます。聖霊は天から降り、人の内に住まわれるのです。聖霊を信じるということは、ここに見るように、神が直接事をなされるのでなく、人間を神の協力者とし、用いてくださることを信じることでもあるのです。

 そして、神が人を用いられるとき、パウロとテサロニケの教会に見るように、それは一方通行ではなくて、相互に向かう関係となるのです。そして、ここに見ることができる、聖霊の与えてくださる豊かな交わりは、もちろん、ここにいる私たちにも与えられているのです。互いに信仰を励まし合い、互いに支え、強めるために、主に用いていただきましょう。

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