2023年8月13日日曜日

「信仰と愛と希望によって」

テサロニケの信徒への手紙一 1:1-10

神とキリストとに結ばれて
 今日はパウロがテサロニケの教会に宛てた手紙の冒頭部分をお読みしました。テサロニケの教会はパウロの第2回伝道旅行において誕生した教会です。パウロのテサロニケ滞在については使徒言行録17章に記されています。使徒言行録によるならば、パウロとシラスがテサロニケに滞在したのはわずか四週間たらずでした。しかし、そのわずかな期間に、神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちが福音を信じるに至ったのです。しかし、一方、このことを快く思わないユダヤ人たちは、広場にたむろしているならず者たちを抱き込んで暴動を起こしました。その結果、パウロとシラスはテサロニケを去らざるを得なくなったのです。

 かくして、生まれたばかりのテサロニケの教会は、指導者を失うことになりました。しかもユダヤ人たちの敵意の中に置かれることになったのです。パウロはどれほど彼らのことを心配したことでしょう。テサロニケの信徒たちはどうしているだろうか。どのような迫害を受けているのだろうか。彼らは信仰をしっかりと保っているだろうか。――彼らを案ずるパウロは幾度かテサロニケに行くことを試みたようです。しかし、その願い叶わず、代わりにテモテを遣わすこととなりました。

 テモテはテサロニケにしばらく滞在し、やがて再びパウロのもとに戻ってきました。彼はパウロに、テサロニケの教会の様子を伝えます。それは実に喜ばしい知らせでした。テサロニケの信徒たちはしっかりと信仰を保ち、主に結ばれている(3:8)ことをテモテはパウロに伝えたのです。パウロはどれほど喜んだことでしょう。彼は大きな喜びをもって手紙をテサロニケに書き送りました。それがこの手紙です。

 そのような事情を踏まえて読みますと、この1節の単純な挨拶に込められたパウロの思いが強く迫ってまいります。「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」――パウロは万感の思いを込めてこの言葉を記したに違いありません。まさにテモテのもたらした喜ばしい報告は、この事実を明らかにしていたのです。

 なぜ指導者を失った教会が多くの苦難の中においてなおもしっかりと立つことができたのか。それはその共同体がただ伝道者パウロとの関係で成り立っていたのではないからです。もしそうであったなら、パウロが去ったら簡単に崩壊していたに違いありません。しかし、そうではなく、彼らは「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」でした。

 また、彼らはただ自分たちの利益や楽しみのために集まって、自分たちのために教会を作ったのではありませんでした。もしそうであったなら、苦難の中において集まることが困難になり不都合が生じたら、簡単に消滅してしまっていたことでしょう。しかし、テサロニケの教会はそうではなかった。それは「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」に他ならなかったのです。

 「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている」という言葉は、「父である神と主イエス・キリストの中にある」というのが直訳です。これは父なる神とイエス・キリストにおける救いの御業の中にある、ということでもあるでしょう。教会は神の御業において初めて教会となるのです。

 ですから、教会の伝道の働きにおいて問われるのは、福音が真に伝えられ、一人一人が神の救いにあずかり、信仰によってキリストとしっかり結ばれているかどうか、というところにおいてなのです。言い換えるならば、教会がまことの教会として、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」として残るかどうかなのです。そして、テサロニケにはまさにそのような教会が残った。そのことをパウロは心から喜んで、その教会に書き送っているのです。

信仰と愛と希望
 さらにパウロは感謝の言葉を続けます。「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」ということで、パウロが具体的に何を考えていたかが、その言葉から分かります。3節の言葉は、今日の私たち自身について考える上でも、非常に重要なことを語っているように思います。パウロが感謝しているのは、次のことでした。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(3節)。

 ここには、パウロがしばしば用いる三つの言葉が出てきます。それは「信仰」と「愛」と「希望」です。教会がただ人間に結ばれた人間の集まりではなく、神の救いの御業によってなるまことの教会であるということの現れを、パウロは「信仰」と「愛」と「希望」に見ているのです。

 では「信仰」と「愛」と「希望」があるとは、具体的にどのようなことなのでしょう。パウロはここで、それぞれに対して三つの言葉を結びつけています。「信仰」については「働き」、「愛」については「労苦」、「希望」については「忍耐」です。「信仰」「愛」「希望」は抽象的な概念ではありません。それは具体的な形を取るのです。それは「働き」「労苦」「忍耐」です。一つ一つ見てみましょう。

 第一は、「信仰によって働き」ということです。「働き」とは「行い」とも訳せる言葉です。直訳すれば「信仰の行い」です。

 これを書いているのはパウロです。そして、そのパウロが別の手紙において、人は行いによって救われるのではないことを語っていることを私たちは知っています。例えば、エフェソの信徒への手紙には次のように書かれています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8‐9)。

 そのように、確かに私たちが救われるのは、私たちの行いによるのではありません。救いはイエス・キリストの十字架において現された神の恵みによるのであり、その恵みを信じる信仰によるのです。もし、私たちが自分の行いによって救われるのならば、そこから生じるのは自分の行いを誇る思いでしょう。しかし、私たちがただ神の一方的な恵みによって救われるならば、そこに誇りが入り込む余地はありません。生じるのは、ただ神への感謝です。そして、神への感謝が行動を生み出すのです。それこそパウロが「信仰の行い」と呼んでいるものです。

 私たちが生きているこの世界はギブ・アンド・テイクの世界です。信仰によらなければ、神に対してもギブ・アンド・テイクで関わろうとするのが人間です。自分の善い行いを差し出して、神様に「救いを与えてください」と願うのです。そのように神様と取引を始めるのです。また信仰によらなければ「行い」は常に比較の対象となってくるのでしょう。自分の「行い」と他人の「行い」を比較して、誇ってみたり卑下してみたり。あるいはある人の「行い」と別な人の「行い」を比較して褒めそやしてみたり軽蔑してみたり。

 取引や比較とは無関係な「行い」はただ感謝から生まれてくるのです。一方的な神の恵みに対する感謝の応答として生まれてくるのです。それが「信仰の行い」です。その「信仰の行い」こそが、まことの教会の原動力となるのです。そのような「信仰の行い」をパウロはテサロニケの教会に見たのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 次に挙げられているのは「愛の労苦」です。「愛」は単に「好きになること」ではありません。愛するとは隣人になることです。共に生きることです。

 私たちが築いている人間関係は往々にして自己中心です。「私のための誰か」を求めることによって成り立っています。私に優しくしてくれる人。私を助けてくれる人。私の欲求を満たしてくれる人。私を幸せにしてくれる人。私のためになるならば一緒にいるし、私のためにならないならばその人との関係は終わります。

 しかし、そのように「私のための誰か」を求めることを聖書は「愛」と呼びません。愛とは、「私のための誰か」を求めることではなく、「誰かのための私」になることです。誰かの隣人になることです。ですから、そこにはしばしば労苦が伴います。強いられてではない、自発的に愛のゆえに、共に生きるために、あえて労苦を引き受けること、それが「愛の労苦」です。

 その愛の労苦は、まずキリストが私を愛してくださった、という事実から生まれます。キリストが私の隣人になってくださいました。キリストが私を愛し、私のために労苦してくださいました。キリストが私のために十字架にかかってくださいました。キリストが、御自分のすべてを与えてくださいました。このキリストの大きな愛によって押し出されて生まれるもの、それが私たちの小さな「愛の労苦」です。パウロは、テサロニケの教会に、確かにその「愛の労苦」を見ていたのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 最後は、「希望の忍耐」です。その希望については、特に「わたしたちの主イエス・キリストに対する」という言葉が加えられています。その意味するところは10節に書かれています。「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(10節)。

 ここに語られているのは、「キリストの再臨」というテーマです。そして、実はそれこそがこの手紙で展開されている主要なテーマなのです。それは要するに、完全な救いはまだ実現していないけれど、それは必ず向こう側からやって来る、という信仰です。向こうから必ず来ると信じる人だけが、本当の意味で忍耐をもって待ち望むことができるのです。苦しくても、辛くても、待ち望むことができるのです。パウロは、テサロニケの教会に、確かにその「希望の忍耐」を見ていたのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 さて、そのようにテサロニケの教会のことを見てきました。たった四週間たらずの伝道によってでさえ、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」は形成されます。教会を真に教会とするのは神の御業だからです。ですから、私たちもまた求めることができるのです。それは神の御業だからです。私たち自身、父である神と主イエス・キリストに結ばれている教会として、父である神と主イエス・キリストに結ばれている信仰者として、「信仰の行い」「愛の労苦」「希望の忍耐」に生きられるよう祈り求めましょう。
(祈り)

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