日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章1~8節
2014年最初の主日を迎えました。いつものように今日もこうして集まることができたことを感謝したいと思います。私たちがキリストを信じる者として今ここにいるとするならば、それは私たちにキリストを伝えてくれた人たちがいたからです。この日本に教会が存在するのは、日本にキリストを伝えに来てくれた人たちがいたからです。今、この世界に教会が存在し、私たちが教会に身を置いているのは、教会が伝道を続けてきたからです。神は教会が伝道することによってキリスト教信仰が存続することを良しとされました。その意味で「伝道」はキリスト教信仰の本質に属します。今日御一緒に考えたいのはその「伝道」についてです。福音を宣べ伝えられた私たちであること、そして、福音を宣べ伝えるためにこの世に遣わされている私たちであることを思いつつ、聖書の言葉に耳を傾けてまいりましょう。
不純な動機やごまかし?
そこで今日の礼拝において読まれましたのは、パウロがテサロニケにおける伝道について語っている箇所です。このように書き出します。「兄弟たち、あなたがた自身が知っ
ているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」(1‐2節)。
しかし、この続きが変です。いきなり何の脈絡もなくパウロは弁明をはじめるのです。「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」(3節)。また5節にもこんなことが書かれています。「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます」(5節)。
いささか唐突の感を免れません。しかし、このように書かれているということは、裏を返せば、そのように書かざるを得ない事情があったということでしょう。つまりパウロの宣教について、それが不順な動機によるものだという非難や、彼は人々にへつらって人集め金集めをしているだけだという中傷があったということです。どうして、そのような中傷が起こってきたかは、使徒言行録に書かれているテサロニケ伝道の様子や、あるいは同じ頃に書かれたガラテヤの信徒への手紙を読めばある程度見えてきます。
使徒言行録17章は次のように始まります。「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。 それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った」(使徒17:1‐4)。
パウロはいつものようにユダヤ人の会堂に行ってイエスがメシアであることを宣べ伝えました。そして、彼らのある者は信じたと書かれています。そう、信じたユダヤ人もいなくはなかった。しかし、信じた人たちの大多数はユダヤ人ではありませんでした。「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たち」でした。
「神をあがめる多くのギリシア人」というのは、ユダヤ人ではないけれど会堂に出入りしていた人たちです。彼らは経済的にもユダヤ人の会堂を支えていた人たちです。よりによって、その彼らがパウロとシラスの方に行ってしまいました。いや、そればかりではありません。「おもだった婦人たち」が二人に従った。「おもだった婦人たち」というのは町の有力者の妻たちのことです。彼らまでがパウロたちの方に行ってしまったのです。
さて、パウロとシラスの行動はユダヤ人たちの目にどのように映ったことでしょう。せっかく会堂に来て律法を学んでいる異邦人をうまい言葉で自分たちの方に引き込んでいるように見えたでしょう。ラビとしての自分の勢力範囲を広げるために、また裕福な婦人たちを騙して金集めをするために動いているように見えたに違いありません。
そう見えたとしても、ある意味では仕方なかったとも言えます。というのもパウロが宣べ伝えていたのは「神の福音」すなわち「神からの良い知らせ」だったからです。パウロの宣教の中心にあったのは神の恵みによる救いでした。その救いを純粋に福音として語っていたのです。それはガラテヤの信徒への手紙に見るとおり、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(ガラテヤ2:16)ということだったのです。
人間の行いによって救われるのではない。十字架にかけられたキリストを信じる信仰によって救われる。そのことを聞いて、神をあがめるギリシア人もおもだった婦人たちも信じたのでしょう。しかし、それは律法を幼い頃から遵守してきたユダヤ人たちからしたらどうでしょう。そんな虫のいい話があるものか。パウロは異邦人の有力者たちにへつらっているだけではないか。ユダヤ人たちが異邦人と全く同じ扱いを受けることは、まことに許しがたいことであったに違いありません。
パウロやシラスに対する誹謗中傷は、当然パウロが去った後のテサロニケにおいても続いていたことでしょう。テサロニケの教会は、そのような中に置かれているのです。ですからパウロはこう語らざるを得なかったのです。「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」と。
神に喜んでいただくために
しかし、それでもなおパウロは「神の福音」を語り続けたのです。どんな誤解を受けようが中傷されようが、神の恵みによる救いを語り続けたのです。なぜですか。パウロはこう言っています。「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです」(4節)。そうです、福音はゆだねられているからこそ語るのです。神に喜んでいただくために伝えるのです。
さて、今日、私たちが神の恵みによる救いを伝えることは、この日本の社会においてどのように受け止められるのでしょうか。人は行いによって救われるのではなく、ただ信仰によって救われるのだという言葉は、この国においてどう受け止められるのでしょう。社会が正しく保たれるためには厳しいルールと、そのルールを守らせる権威が必要である。それが今日の流れなのでしょう。そこで神の恵みを強調するならば、宗教の役割は道徳的行動を神の権威をもって要求することにこそあるのではないか!という言葉が返ってくるかもしれません。そんなことを言っているから日本はだめになるのだ、と。
しかし、私たちはそれでもなお純粋に神の恵みを語ることを恐れてはならないのです。なぜなら、私たちは神から福音をゆだねられているからです。神の恵みにあずかった者だからこそ、神の恵みを伝えることができるのです。恵みによって集められた教会こそが神の恵みを語らなくてはならないのです。
「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです」とパウロは言いました。そのように、伝道というのは神の願い、神の求めに基づくものなのです。「私たちが伝道したいから」というのが伝道の第一の理由ではないのです。私たちが誰かの救いを願う以前に、神御自身がその人を追い求めておられるのです。罪を犯して遠く離れてしまった人間を追い求めておられるのです。そして、恵みをもって救おうとしておられる。神の恵みを伝えようとしておられるのは他ならぬ神御自身なのです。
思い見れば私たちもそのようにして福音を伝えられたのでしょう。私たちを救う神の恵みを伝えられたのでしょう。私たちに伝えた人は、神を喜ばせるためにそうしたのでしょうか。もしかしたら、そのことを意識していなかったかもしれません。しかし、結果的には神の喜びとなった。そうです、私たちに福音が伝えられ、私たちが福音を聞いたことは、神の喜びだったのです。
そこでもう一度今日の聖書箇所の冒頭に戻ってみましょう。今日の聖書箇所は、「兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした」という言葉から始まっていました。そして、2節で「無駄でなかったどころか」と続くのです。しかし、改めて読みますと、この1節と2節は続きが悪いと思いませんか。「無駄でなかったどころか、あなたたち神をあがめるギリシア人の多くが救われたのです」とか、「無駄でなかったどころか、あなたたちのような素晴らしい教会が誕生したのです」と続くなら話は分かります。しかし、そうではないのです。「…激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」とパウロは言っているのです。
分かりますでしょう。パウロは、ただ「福音を語った」という事実をもって、テサロニケに入って行ったことは「無駄ではなかった」と言っているのです。福音が受け入れられて、誰かが救われて、教会が誕生して、そこで初めて「無駄ではなかった」ということではないのです。
私たちは福音をゆだねられているから伝道するのです。神に喜んでいただくために伝道するのです。私たち為しえることは、ゆだねられている福音を伝えるところまでなのです。神の恵みを伝えたらよいのです。神の愛を伝えたらよいのです。それがどう受け取られるかは私たちが考えることではないのです。後は聖霊のお働きによって神御自身が人と出会われるのであって、私たちの領域ではありません。神の恵みを福音として純粋に伝えることです。それができたら、それですべては「無駄ではなかった」と言えるのです。神に喜んでいただくためにそのことを行い得たのですから。