サムエル記下 19:16‐40
今日の聖書箇所は、かつて都落ちをした惨めな姿で渡ったヨルダン川を、ダビデが再び渡ってエルサレムへと向かう場面です。そこで私たちは、既に登場した幾人かの人々に再び会うことになります。そこには一方において、シムイとツィバがあり、他方において、メフィボシェトとバルジライがおります。特にこの4人に注目しますと、彼らが実に対照的に描かれていることが分かります。
初めにシムイとツィバに目を留めましょう。この二者はダビデについて、明らかに全く異なる予想を抱いていました。
まずはシムイから。シムイにとって、都落ちをしたダビデは失脚した王であって、二度と再びエルサレムに戻ることはないと思われました。ですから、彼はここぞとばかりに、石を投げつけて、ダビデを呪ったのです。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者」(16:7)と。落ちぶれた姿とはいえ、ダビデにも兵士たちが同行していたのですから、これはある意味では命がけの行為であったと言えます。
しかし、今日の箇所を読みますと、シムイがそのような行動に出ることを可能にしたのは、ある程度の後ろ盾があったからであることが分かります。シムイがベニヤミン族の者千人を率いて来ているというところを見ると、彼がもともとベニヤミン族の中にあってかなりの実力者であったものと考えられます。彼の背後にはダビデがサウルの王座を奪ったと見なす人々、それゆえにダビデに元々敵対心を持っていた相当な勢力が控えていたものと思われるのです。
さて、そのシムイが今や手のひらを返したように、好意的にダビデを迎えに下ってきたのです。もちろんそれは、彼の予想に反してダビデが再び王位に戻ることになったからです。ダビデが正式に王座に着いたときに、かつてのシムイの無礼が取りざたされるならば、彼は死罪を免れることはないでしょう。彼の一族も滅ぼされることになるでしょう。それゆえに彼は先手を打って、いち早くヨルダンへと王を出迎えに行き、王の前にひれ伏してとにかく謝罪したのです。
彼は言いました。「どうか、主君がわたしを有罪とお考えにならず、主君、王がエルサレムを出られた日にこの僕の犯した悪をお忘れください。心にお留めになりませんように。わたしは自分の犯した罪をよく存じています。ですから、本日ヨセフの家のだれよりも早く主君、王をお迎えしようと下って参りました」(20‐21節)。王の帰還の時点で恩赦の言葉をなんとか得ておくこと。それがシムイの目論みでした。それが失敗に終わればシムイは処刑されます。彼もまたそのことを良くわきまえていたので、千人の者たちを率いてきたのでしょう。謝罪が受け入れられなければダビデと戦うまでのこと。その姿勢がよく現れています。
当然のことながらダビデの側近であるアビシャイはシムイが処刑されるべきであることを主張しました。しかし、ダビデはシムイの謝罪を受け入れ、「お前を死刑にすることはない」と誓ったのです。これを単純にダビデの寛大さと考えてはなりません。シムイがベニヤミン族における実力者であるとするならば、今後のベニヤミン族との関係を考えて政治的な恩赦を宣言せざるを得なかったとも考えられます。実際、ダビデは最期を迎えるときに、シムイの処刑をソロモンに委ねるのです(列王上2:8以下参照)。
さて、もう一方においてツィバはダビデが再びエルサレムに戻るであろうことを、ある程度予想していた人物でした。彼はダビデが都落ちをする時に、しっかりとダビデに恩を売っておくのです。サムエル下16章において読んだことを思い起こしてください。彼は、主人であるはずのメフィボシェトについて偽りの訴えをなし、主人に属するものを先に手に入れておいたのです(16:4)。このようなことは、再びダビデが王座に着かなければ意味がないのです。
彼の予想どおりダビデが勝利を得てエルサレムに帰還するに当たって、再びツィバは息子たちと召使いとを率いて現れます。そして、シムイの率いてきた千人に分け入るかのようにして、自ら渡し場を渡って(原文の表現は「繰り返し渡って」の意)、王家の人々を助けたのです。それはヨルダンを渡るに困難な子供や年老いた者たちのことを考えてではありません。その目的は何か。聖書はそれを「王の目にかなうよう」(19節)と表現しています。
あくまでも王の目にどう映るかが問題なのです。そこに働いていたのは、かつてメフィボシェトの財産を自らのものにしたときに働いていたのと同じ打算でありました。彼は王の目にかなうようにと、自らずぶ濡れになりながら、一生懸命に王家の人々を渡らせたのです。そのツィバの姿が目に浮かぶようです。
このように、当初の予想は全く異なる二人でありますが、ダビデを迎えた意図においては一致していました。ダビデの恩赦にせよ、ダビデの好意にせよ、彼らはダビデから良きものを引き出すためにせっせと立ち回るのです。私たちは、ダビデが勝利を得るや否や、手の平を返したように立ち回る北イスラエルの人々の姿、そしてユダ族の姿も見てきました。加えて、このようなシムイやツィバの姿を読んで、なんと浅ましいことかと思わせられます。
しかし、その浅ましさは、他ならぬ私たちの姿であるかもしれません。彼らがエルサレムへ帰るダビデを迎えた姿は、私たちのメシアに対するあり方を考えさせられます。私たちがキリストに一生懸命に仕えるのも、また神妙に罪を言い表すのも、それはキリストからただ良きものを引き出そうとしている打算の現れであるかもしれません。
しかし、もう一方で、シムイやツィバとは全く異なる姿が私たちの目を引きます。メフィボシェトとバルジライの姿です。
メフィボシェトも王を迎えるために下ってきました。ツィバは、まさか足の不自由なメフィボシェトがダビデを出迎えに下って来るとは思いもよらなかったに違いありません。とはいえ、メフィボシェトがたとえ王を出迎えたとしても、彼自身としては王のために何が出来るわけでもありません。ならば何のために来たのか。メフィボシェトは、ただ王の帰還を喜ぶために下って来たのです。
彼がどれほど王の帰りを待ちわびていたかは、その姿が物語っていました。「彼は、王が去った日から無事にエルサレムに帰還する日まで、足も洗わず、ひげもそらず、衣服も洗わなかった」(25節)と書かれています。メフィボシェトは、ツィバに欺かれた次第を語りました。ツィバに欺かれた結果、彼に属するものは、すべてツィバのものとなってしまいました。しかし、メフィボシェトは、それらを取り返すために王に訴えているのではありません。ダビデが帰ってきた今、そんなことはもはやどうでも良いのです。彼は言いました。「主君、王が無事に王宮にお帰りになったのですから、すべてツィバのものとなってもかまいません」(31節)。そこには、打算を超えた、打算とはもはや無関係な愛がそこにあるのを見るのです。
また、渡し場での出来事とは前後しますが、32節以下にはバルジライがヨルダン川まで見送りに来ていたことが伝えられています。彼は、ダビデがマハナイムに逃れていた時に、王と兵士たちの生活を支えていた人たちの一人です。既に、彼は八十歳になっていたと聖書は記します。ヨルダン川においても、あのツィバの一族のような奉仕が出来るわけではありません。ただダビデとの別れを惜しんで、純粋に王を見送るために、老いの身をおして、ヨルダンまで共に旅をしたのです。
王はそんなバルジライに言いました。「わたしと共に来てくれないか。エルサレムのわたしのもとであなたの面倒を見よう」(34節)。もはやあの亡命者ダビデではありません。再び、全イスラエルの王としてエルサレムに戻るダビデのありがたい申し出です。しかし、バルジライは、その申し出を丁寧に断わりました。王は彼に口づけして祝福し、バルジライは自分の町へと帰って行ったのです。
メフィボシェトとバルジライの打算を越えた王への愛と忠誠。キリストと私たちの関係において失ってはならない大切なことを示しているように思います。