2026年8月23日日曜日

「死から命へ――聖霊によって生かされる」

2026年8月23日 主日礼拝説教 

聖書:ローマの信徒への手紙 8:1-17

 8月も第4主日を迎えました。今月も、この第4主日においては、特に年度主題を覚えて礼拝をおささげしたいと思います。「聖霊の神殿である私たち」。これが年度主題です。今週も、私たちはまず、神の霊が、聖霊が、私たちを神殿として宿っていてくださるという事実に思いを向けましょう。

神の霊が宿っている限り
 今日の第2朗読ではローマの信徒への手紙が読まれました。その8章9節以下にはこのように書かれていました。

 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(9‐11節)。

 「宿っている」という言葉が繰り返されていましたでしょう。これは「家」という言葉に由来します。一時的な滞在ではありません。そもそも「神殿」ですから、まさに住んでくださるということです。

 ちなみに、「聖霊の神殿である私たち」ということですが、私たちを神殿として聖霊が宿っていてくださるとパウロが言う場合、その一つは、「私たち」すなわち「教会」に宿っていてくださるという意味です(1コリント3:16)。そして、もう一つは、私たち一人一人、すなわち個々のキリスト者の体に宿っていてくださるという意味です。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(同6:19)。

 今日の箇所において繰り返されている「宿っている」は、主に後者の意味合いです。すなわち、私たち一人一人の体に宿っていてくださる、ということです。ここでパウロは、ローマの信徒たちに、自分が何者とされているかを思い起こさせているのです。これはパウロがこの手紙において、既に他の章でもしてきたことです。

 例えば、洗礼式において必ず読まれる聖書の言葉があります。この手紙の6章です。パウロは既に洗礼を受けた人々にこう言っているのです。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、その死にあずかるために洗礼を受けたことを」(6:3)。

 そして7章ではさらに、「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」(7:4)と語られています。私たちは、復活されたキリストのもの、キリストに属する者とされたというのです。そして、パウロはここでさらに、キリストと結ばれて、キリストのものとされた者には、神の霊が宿っているのだ、ということを語っているのです。

 ところで、ここで、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」とパウロは言っていますが、これは「神の霊が宿っているかもしれないし、宿っていないかもしれない。そこで、もし宿っているとするならば…」と言いたいのではありません。ここはむしろ「神の霊があなたがたの内に宿っているので」と訳してもよい言葉なのです。「神の霊が宿っている」ということを前提として語っているのです。

 さて、皆さん、「神の霊が宿っている」といいますが、実感できますでしょうか。まさか見えはしないでしょう。しかし、パウロはここで、聖霊が宿っておられるということについて、感覚的な根拠は持ち出さないのです。感じられるかどうか、ではないのです。ただ彼らが「キリストに属する者」とされている事実こそが重要なのです。「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」(9節)とあえて言っているのはそのためです。

 ここでは聖霊が「キリストの霊」と言い換えられています。「キリストの霊を持たない者」と言っているのは、「あなたがたの中には、キリストの霊、聖霊を持つ者と持たない者がいる」と言いたいからではありません。先ほど触れましたように、パウロは彼らがキリストのものとなっていること、キリストに属していることを前提で話をしているのです。キリストのものであるならば、キリストに属しているならば、キリストの霊を持たないはずはない、と言っているのです。

体は罪によって死んでいても
 さて、そのように「神の霊」が宿っていることについて語られているのは、もともと宿っている別なものがあるからです。それはこの前の章、7章に書かれています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(7:18-20)。

 もともと住んでいるものとは何ですか。それは「罪」です。ここで「わたし」という言葉が繰り返されているように、これはパウロ自身の深い経験に裏打ちされた言葉であると言えるでしょう。

 「それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。――他の人が言ったなら、これは単なる責任転嫁に聞こえるかもしれません。「『もはやわたしではない』って言いますけど、いやそれをしているのはあなたでしょう」と言いたくなるかもしれません。

 しかし、彼は「自分の望む善」を行おうと恐らく死ぬほど努力してきた人なのです。「望まない悪」を行わないために必死で努力してきた人なのです。文字通り罪と格闘してきた人なのです。だからこそ、内に宿っているものがいかにおぞましいものであるか、また、いかに強力なものであるか、骨身に染みて分かっているのです。

 私たちは、恐らくパウロほどには、自分の内に住む罪と向き合ってはいないのです。こうしたいと思ってもできなくて、ああなりたいと思ってもなれなくて、自分の弱いところ、自分の悪いところばかりに思い至って自己嫌悪に陥ることはあるかもしれません。しかし、自分の内に「罪」が住んでいるという深刻な問題とは、恐らくパウロほどは向き合っていないのです。逆に言えば、だからせいぜい自己嫌悪どまりなのだ、とも言えるのでしょう。

 そのような私たちだからこそ、意識して、「『罪』が住んでいるのだ」とパウロが語る言葉に、私たちは繰り返し耳を傾けなくてはならないのだと思います。それはもはや、私たちの努力が頑張りや決心でどうにかなるようなことではないからです。

 パウロは10節において「体は罪によって死んでいても」という言い方をしています。皆さん、どう思われますでしょうか。「わたしはなんてダメなんだ。なんて情けないんだ。なんて汚いんだ」という程度の話ではないのです。もう「死んでいる」というのです。もちろん生物としては生きていますけれど、パウロに言わせれば、私たちに自覚があろうがなかろうが、既に「死んでいる」というのです。罪が住んでいるとはそういうことなのです。

聖霊による命
 しかし、感謝なことに、今や、罪だけが住んでいるのではないのです。死んでいるところに聖霊が来られたのです。キリストの霊が宿ってくださったのです。そして、キリストの霊が宿ってくださったことが、さらにこう言い換えられています。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」(10節)。

 死んでいるところに、「命」が来てくださった!もちろん、それで「罪」がいなくなったわけではありません。罪は依然として猛威を振るい、私たちを支配しようとします。それゆえ、戦いは続いているのです。しかし、それは望みのない孤独な戦いではありません。そこにはキリストもおられるからです。

 「義によって」と書かれていました。それは「救いによって」と言い換えてもよいでしょう。聖霊が宿っていてくださるとは、私たちの救い主であるキリストがいてくださるということなのです。私たちの罪のために十字架にかかられ、復活されたキリストがいてくださいます。ならば、もはや死んだままではありません。聖霊が宿っていてくださるとは、そういうことなのです。

 ですからさらに、神の霊は「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と呼ばれているのです。キリストは復活され、栄光の姿で弟子たちに現れました。そのように神の国における栄光の姿を与えられた方の霊が、私たちにも与えられているのです。それは何を意味するのでしょう。キリストの栄光の姿は、やがて与えられる私たちの姿でもあるということです。やがては完全な救いに至るのです。復活において、私たちの体は、罪からも死からも完全に自由なものとなるのです。戦いが終わる時が来るのです。

 そして、先に復活された方の霊が今、私たちに宿っていてくださるということは、最終的に完成するこの救いが、既に始まっていることをも意味します。そうです。事は始まっているのです。

 パウロが語っているのは神の御業です。完成に至る神の御業です。ならば私たちはこちら側ばかりに思いを向けていてはなりません。自分を含め、人間の姿や行いに一喜一憂していてはなりません。私たちの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿なのです。神が私たちの内になしていてくださること、そして、私たちを通して、私たちを用いてなそうとしておられることに、もっと思いを向けて、信仰の歩みを共に続けてまいりましょう。

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