2026年2月11日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 2:1~32

 サムエル記下 2:1-32

 1章では、サウルとその子らの戦死の報がダビデのもとに届けられ、ダビデが哀悼の歌をうたったことを見てきました。今日の箇所は、その後の展開を伝えています。

 この箇所において中心的な位置を占めるのは、ダビデとアブネルという二人の軍人です。アブネルはサウルの軍の司令官であり、血筋から言えばサウルのいとこに当たります。一方、ダビデは、かつてサウルの軍においてアブネルのもとで千人隊の長を務めていた人物であり、サウルの娘婿でもありました。サウル亡き後、この両者の間に対立が生じることになります。

 この世的な視点で見れば、それは極めて自然なことであり、世界史において繰り返されてきた覇権争いが、ここにおいても例に漏れず「跡目争い」として生じたことになります。そして最終的にアブネルは暗殺され、ダビデが全イスラエルの王となっていく……ダビデの勝利に終わりました、という話です。

 しかし、聖書はダビデとアブネルの関係を単にそのようには描いておりません。この極めて生臭い政治的な問題において、やはり重要になってくるのは「神との関わり」なのです。ですから、この章において、まずダビデが託宣を求めた次第が記されているのです。

 彼は「どこかユダの町に上るべきでしょうか」と主に尋ねます。主に尋ねるということは、ユダの町に上らないという選択肢もあり得るということです。すなわち、主が「待て」と言われるならば、そのままガトの地に留まるつもりでいるのです。

 かつてサムエルがダビデに油を注いだ時から、恐らく既に十年以上は経過していたことでしょう。サウルに命を狙われ続け、最終的にはペリシテの地にまで逃れてきた。すべては神の約束の実現とは正反対に進んでいるかのようでした。しかし、そのサウルは死んだのです。普通に考えるならば、今こそダビデはイスラエルに戻るべき時なのでしょう。

 しかも、ツィクラグが焼き払われたというあの悲劇的な出来事は、結果として、ダビデとユダの町々との関係を修復するものとして働くことになりました。サムエル記上30章26節以下をもう一度振り返ってみましょう。ダビデたちがアマレクを討ち、奪われた人々を取り返した時、さらにダビデは多くの戦利品を得ることとなりました。そして、その戦利品の中から、ダビデはユダの長老たちに、彼らの友人として贈り物を送ったのです。

 これがユダの人たちにとって、どれほど強烈にダビデの好意を印象付けることになったかを考えてみてください。ダビデが逃げ惑っていた時に、ユダの町々は身内でありながら彼を裏切ったのです。ダビデの居場所をサウルに密告するようなことをしてきたのです。しかし、それでもなお、自分たちはダビデの「友」として見られていることを知ったのです。ダビデがもしイスラエルに帰ったならば、少なくともユダの町々は彼を受け入れるであろうことは、目に見えていました。

 これらのことを考えるならば、既にダビデがイスラエルに帰還するための下地は整っていると言えます。しかし、ダビデは託宣を求めるのです。「時」を待つのです。最終的に一歩を踏み出すにあたって、主に問うたのです。「どこかユダの町に上るべきでしょうか」と。

 主は「上れ」と答えられました。そして、ユダのヘブロンを指し示されました。特に「ヘブロン」がここで示されたことには特別な意味がありました。というのも、ヘブロンはイスラエルの父祖たちの物語と深く結びついている土地だからです。

 そこにはアブラハムとサラ、そしてイサクもヤコブも葬られているマクペラの洞穴があります。それはアブラハムが買い取った唯一の土地です。約束の地において、唯一自らのものとした土地。それはいわば「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束とその実現を象徴的に指し示している土地でした。そのヘブロンにおいて、もう一つの約束が成就し始めます。それはダビデが王となるという約束です。そして、土地についての約束と、ダビデ王朝に関する約束は、この後、イスラエルの歴史において決定的に重要なものとなっていくのです。

 ダビデがガトの地からヘブロンに上ってそこに移り住んだことが知れ渡ると、ユダの人々がそこにやって来てダビデに油を注ぎ、ユダの家の王としました。ダビデが王となるという神の約束は、まずユダの部族において実現したことになります。この実現において、ダビデはあくまでも受け身であったことが強調されています。ユダの人々がダビデを王としたのであって、ダビデがユダの人々に対して王権を主張し始めたというのではありません。つまり、ダビデにはサウル王家と対立する意図は全くなかったことが繰り返し語られているのです。前回見たとおり、聖書はあくまでも、ダビデが王権を自らの意志に基づいて奪い取ったのではないと語っているのです。そこに強調点があることを、ぜひ心に留めておいてください。

 これと対照的なのがアブネルの姿です。彼はサウルの子イシュ・ボシェトを擁立してマハナイムに移ります。後にこのアブネルがサウルの側女であるリツパという女性と関係を持っていることが明らかになりますが、それは単なる個人的な情事ではありません。王の側室を自分のものとすることは、実権の主張に他ならないのです。そこに見ることができますように、イシュ・ボシェトはあくまでも傀儡に過ぎません。実権を握っているのはアブネルなのです。

 もっとも、この世的な観点で見れば、アブネルの権力志向そのものは決して悪事ではありません。イシュ・ボシェトは確かにサウルの一族ですが、彼にはこの難局を乗り切る力はありませんでした。少なくともアブネルには、そう見えたのです。

 実際に、敗戦後のイスラエルを建て直すことがどれほど困難であったかは、彼らがマハナイムからスタートしたことからも分かります。彼らは一旦、ヨルダンの東側に退くのです。ペリシテ人の支配下にあって、安全にイスラエルの再建を企てることができるとするならば、一旦ヨルダンの東に退くしか道はなかったのです。

 そこで新しい王を中心としてイスラエルの人々の意識を固めてからでないと、ベニヤミンの地のギブオンに移ることなど到底できません。そのような非常に厳しい局面において、アブネルは何としてでもサウル王家を守り、イスラエルの政治機構を建て直そうとしていたのです。それは、自分が実権を握らなくてはできないことだったのです。

 ところが、そのような時にユダという一部族が単独でダビデを王とした。これは、サウル王家を守って全イスラエルを建て直さなくてはならない大事な局面にあって、あまりにも身勝手な行動に映ったに違いありません。アブネルから見れば、これは明らかにサウル王家に対する「謀反」でしかないのです。

 しかし、アブネルはそこで、サウル王家に対してクーデターを企てたユダ族を滅ぼして自らの政権を安定させようとはしませんでした。少なくとも彼自身には、そのような意図は全くなかったのです。彼はむしろ平和主義者です。無意味な流血を懸命に回避しようとする彼の姿がそこにあります。彼にとってユダの民はあくまでも同じイスラエルであり、「兄弟」なのです。

 そのアブネルの意識を示すエピソードが三つ並べられています。
 第一に、アブネルは全面戦争を避け、代表者による戦いで決着を付けようと申し出ました。しかし、この企ては両者共に倒れるという、あり得ないような結末によって失敗に終わります。結局、全面的な戦いに発展してしまいました。

 第二に、アブネルは追ってくるアサエルとの戦いを回避しようとします。軍人としての腕前で見れば、アブネルが勝つことは明らかだったのでしょう。彼は槍の石突き(いしづき)をもってアサエルを突きました。これはアブネルに殺意がなかったことを意味します。しかし、運悪く、それは防具のないところに入ってしまったのです。アブネルは図らずもアサエルを殺してしまいました。これが後々まで、アサエルの兄弟ヨアブとの確執として残ることになります。

 第三に、アブネルはヨアブに停戦を呼びかけます。ここでもユダと他のイスラエルの部族とは兄弟であることを訴えます。ヨアブは停戦を受諾しました。しかし、既に時遅く、アブネルの兵360人が戦死した後だったのです。

 このように、アブネルの意図そのものは決して悪くはなかったのです。サウル王家のもとで自らが実権を握り、全部族を統一しようとしたのは、真にイスラエルの将来を考えてのことだったのです。ですから、次の章に見るように、ダビデが支配者として相応しい人物であると判断したならば、彼はダビデのもとにまで下るのです。

 しかし、そこには決定的な欠落があります。既に上巻を読んできた私たちには、その問題がはっきりと見えるはずです。すなわち、彼の中には「神の支配に向ける眼差し」がないのです。彼の判断の背後に、神の御心を求めるということがありません。アブネルは、サウル王家に起こった出来事の中に、神の裁きを見ていないのです。また、ダビデという存在の中に、神の選びを見ていないのです。

 アブネルにとって、ペリシテに対する敗北は一つの「災い」でしかありませんでした。あくまでも復興することが最大の課題なのです。彼は、復興よりも、本当は「悔い改め」こそが必要とされていることを知りません。イスラエルの未来が、ただ神の憐れみの上にこそ成り立つのだ、ということを知りません。その意味において、アブネルは確かに非常に有能な武将であり、困難な現実を打開する力をも持った人物であったには違いないのですが、神の約束を信じて待ったダビデとは、実に対照的であったと言えるのです。そして、それが彼に悲劇をもたらすことになるのです。

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