2026年2月4日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 1:1~27

サムエル記下 1:1-27

 今日からサムエル記の下巻を読み始めます。サムエル記の上巻は、サウルとヨナタン、そしてイスラエルの兵士たちがギルボア山において戦死したところで終わりました。下巻は、サウルとヨナタンの死を告げる者がダビデのもとに現れるところから始まります。

 ダビデがアマレク人を討ってツィクラグに帰り、三日目のことでした。サウルの陣営から一人の若者がたどり着きます。彼は多くの兵士がギルボア山において倒れて死に、サウルとヨナタンも死んだことをダビデに伝えました。

 彼がはるばるギルボア山からツィクラグまで来たことを考えるならば、ダビデがツィクラグに戻るよりも二日ほど多くかかったことでしょう。そうしますと、ダビデの勝利とサウルの敗北は同時に進行していたことになります。このこともまた、両者に起こったことが単に軍事的な勝利や敗北ではなくて、神の御手による救いと裁きであることが示されているのです。

 ところで、この若者の報告を読みますと、31章の描写とかなり食い違っていることが分かります。上巻の31章を御覧ください。サウルが深手を負い、いよいよ自分の最後を悟ったとき、彼は従卒にこう命じたのです。「お前の剣を抜き、わたしを刺し殺してくれ。あの無割礼の者どもに襲われて刺し殺され、なぶりものにされたくない」(31:4)。しかし、従卒はサウルを殺しませんでした。

 「だが、従卒は非常に恐れ、そうすることができなかった」と書かれています。これは後に大きな意味を持つので覚えておいてください。結局、サウルは剣を取り、その上に倒れ伏して死にました。それを見ると、従卒もまた剣の上に倒れ伏してサウルと共に死んだのでした。これが上巻の伝えるサウルの最後です。

 ところがダビデの元に来たこの若者は、次のようにダビデに報告するのです。「わたしはたまたまギルボア山におりました。そのとき、サウル王は槍にもたれかかっておられましたが、戦車と騎兵が王に迫っていました。王は振り返ってわたしを御覧になり、お呼びになりました。『はい』とお答えすると、『お前は何者だ』とお尋ねになり、『アマレクの者です』とお答えすると、『そばに来て、とどめを刺してくれ。痙攣が起こったが死にきれない』と言われました。そこでおそばに行って、とどめを刺しました。倒れてしまわれ、もはや生き延びることはできまいと思ったからです。頭にかぶっておられた王冠と腕につけておられた腕輪を取って、御主人様に持って参りました。これでございます。」(6‐10節)。

 この若者は明らかに嘘をついています。というのも、この男がダビデのもとに報告に来ること自体が不自然だからです。彼はアマレク人ですが、「イスラエルの陣営から逃れて参りました」(3節)と言っています。つまり、彼はイスラエルに寄留している者としてイスラエル軍に加わっていた男なのです。一方、ダビデはガトの王のもとに身を寄せてペリシテ人の軍隊に加わっているのです。要するに、この男にとって本来ならばダビデは敵側の人間のはずなのです。イスラエルはペリシテ人と戦っていたのですから。

 実際には、サウル王家はこの時点でまだ全滅したわけではありません。イシュ・ボシェトというサウルの息子が生き残っているのです。しかも、実質的に軍を束ねていた司令官のアブネルもまだ生き残っているのです(2:8)。サウルとヨナタンの死を報告するとすれば、本来は彼らのところに走らなくてはならないのです。さらに言えば、サウルの身に着けていた王冠と腕輪は彼らにこそ届けられねばならないはずです。

 しかし、この男はイシュ・ボシェトのもとにではなく、ダビデのもとに来たのです。しかも、彼は王冠と腕輪を携えて来て、「ご主人様に持って参りました」と言って手渡したのです。

 なぜ、彼はダビデのところに来たのか。しかも、なぜ自分が殺したなどと嘘をついたのか。――彼はサウル王家に未来はないと見たのです。未来はむしろ現在ペリシテ人の側にいるダビデの方にあると彼は考えた。ダビデを追っていたサウルは死んだのです。そして、サウル王家が没落するならば、きっとダビデはイスラエルに戻ってくる。ダビデがイスラエルを支配する人になるはずだ、と彼は考えたのです。

 この男の時代の流れを見抜く目は、非常に鋭かったと言えます。事実、彼が予測したとおりに時代は動いていったのですから。ダビデはやがてサウルに代わって王となるのです。そこで彼は今から未来の支配者に取り入る最善の方法は何かと考えた。それはサウルのとどめを刺してきたという土産話と共に王冠をダビデに渡すことだったのです。

 ところが事は彼が期待したようには展開しませんでした。ダビデは彼に言ったのです。「主が油を注がれた方を、恐れもせずに手をかけ、殺害するとは何事か」(14節)。そして、ダビデは従者の一人を呼び、彼を討つように命じるのです。こうして、かの若者は処刑されました。ダビデは言います。「お前の流した血はお前の頭に返る。お前自身の口が、『わたしは主が油を注がれた方を殺した』と証言したのだから」(16節)。

 考えて見れば不運な男です。実際には、彼はサウルを殺してはいないのですから。サウルは自害したのです。結局、この男はサウルを殺してもいないのに処刑されたことになります。

 しかし、あえてこのことが記されているのには理由があるのです。ここには、これまで繰り返されてきたテーマが現れているのです。すなわち「主が油を注がれた方に手をかけることを恐れる」ということです。

 14節の言葉は、新共同訳では分かりにくいのですが、中心となる動詞は「殺害する」ではありません。「恐れもせず」なのです。つまり、ここで強調されているのは、彼が「恐れなかった」ということなのです。それは31章において従卒が「非常に恐れ、そうすること(殺すこと)ができなかった」(サムエル記上31:4)と対照をなしています。また、ダビデがこれまで同じ理由からサウルに手をかけなかったこと(サムエル記上24章、26章)とも対照をなしています。

 このように、ダビデは主が油注がれたという事実にどこまでもこだわりました。主が任職されたということを、この上なく重んじました。そのことに主が関わっておられるという事実を畏れをもって受け止めました。サムエル記はそのようなダビデを描き続けるのです。実際、主が任職されるということ、主が関わっておられるということは、とてつもなく重いことだからです。

 これはこの歴史物語全体を読む上でも重要なことです。王というものが主の任職によるのだ、油注ぎによるのだという事態の重さを深刻に受け止めてこそ、その王が主に背くという事態の重さを理解することができるからです。なぜ王国が滅びに至ってしまうのかも、そうあってこそ初めて理解できる。神に属することを深刻に受け止めることがなければ、人間の罪の問題の深刻さも分からないのです。

 それは今日でも、例えば、教会が、牧師職が、様々な奉仕が、教会における諸々の営みが、神によって与えられた事として深刻に受け止められないなら、そこにおける罪が深刻な事として理解されないのと同様です。

 また、さらに言いますならば、これは新約聖書を理解する上でも重要なことなのです。十字架において起こっているのは、まさに油注がれた方(メシア)が人間の手によって惨殺されるという恐るべきことだからです。その恐るべきことが起こることを主はあえて良しとされたのです。私たちの罪が贖われるためです。油注ぎの重大さが分からないと、メシアが十字架にかけられることによって実現した罪の贖いの重大さも理解できないのです。

 さて、17節以下には、ダビデの哀悼の歌が記されております。ダビデと深い友情で結ばれていたヨナタンの死を悼むだけでなく、ダビデの命を狙い続けていたサウルの死を悼んで、ダビデがこのような歌を作ったことは、それ自体驚くべきことです。彼がサウルの死を喜ぶのではなく、恨みを残すのでもなく、むしろ「麗しき者」として語り得たのはなぜであるのかを私たちは良く考えるべきでしょう。

 しかし、ここで重要なのは、ダビデの物語の中にこの歌が入れられたことの意味です。この後には、ユダの王としてのダビデ王家とサウル王家の対立について語られ、やがてダビデ王家の勝利によってダビデが全イスラエルの王となっていく過程が記されることになります。そのような流れの中で、この歌は、ダビデが「王座を奪った」のではないことを示しているのです。

 実際には、後々まで、「ダビデが王座を奪ったのだ」と考えていた人々はいたのです。例えば16章において、シムイという男が「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる」(16:7)と言ってダビデを呪うのです。そのことを考えますと、この歌は極めて重要なことを指し示していることがわかります。ダビデが奪ったのではない――、つまり歴史は人間が作り出すのではないのです。神が裁かれ、また救われるのです。エレミヤの言葉によるならば、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植える」(エレミヤ1:10)のは神なのです。


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