ホセア書 6:11b‐7:16
預言者ホセアが見ていたのは、戦乱と内紛によって引き裂かれ、傷つき、深く病んでいる末期的状況のイスラエルでありました。そこには回復を必要とする国家がありました。そこには癒しを必要とする人々がおりました。そのようなイスラエルの民に、主はホセアを通してこのように語られたのです。
「わたしが民を回復させようとし、イスラエルをいやそうとしても、かえって、エフライムの不義、サマリアの悪が現れる。実に、彼らは偽りをたくらむ。人は家に忍び込み、外では追いはぎの群れが人を襲う。わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている。しかし、彼らは少しも意に介さない。今や、彼らは悪に取り囲まれ、その有様はわたしの目の前にある」(6:11b‐7:2)。
主が望んでおられるのは、イスラエルの民が滅びることではありませんでした。主が与えようとしておられたのは、回復であり癒しでありました。しかし、本当の回復と癒しというのは、ただ事態が元通りになることではありません。ただ荒れ果てた国家が再び繁栄を回復することではありません。ただ危機的状況が過ぎ去ることでも、苦しみが取り除かれることでもありません。主は、傷や病そのものが本当の問題なのではないことを御覧になっておられるのです。問題はもっと深いところにあります。それは人間の罪です。問題は彼らの不義と悪にこそあるのです。
偽りを企むのは心の中においてです。それは他人の目からは隠れています。盗人が家に忍び込むことも、人々の目の前では行われません。それは人目を忍んですることです。これもまた隠れた事柄です。追いはぎの群れが人を襲うのも町の外においてです。自分たちが捕らえられ、法的に裁かれ、刑罰を科せられることがないように、それを行うのです。このように、人間の不義と悪は、いつでも人間の目と人間の裁きから隠れたところにおいて行われるのです。
しかし、人の目から隠れていても、神の目から隠れることはありません。主は言われるのです。「わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている」と。しかし、続けて言われます。「しかし、彼らは少しも意に介さない」。問題は、神の目を「少しも意に介さない」ところにあるのです。人の目は気にするのです。自分の悪が人目に曝されることは恐れるのです。しかし、神の目は恐れません。神を侮って生きています。
このように、本当の病根は、神との正しい関係が失われていることにあるのです。社会が神を失い、人生が神を失っていることにこそあるのです。人は、不幸そのものを問題にいたします。苦しみや痛みそのものを問題にいたします。しかし、その根がどこにあるのかに関心がありません。それは木が枯れてしまった時に、葉が落ちてしまうことばかりを嘆いているようなものです。本当は、根が腐っているから木が枯れ、葉が落ちるのです。主は、まさに根が腐っていることを問題にしておられるのです。「今や、彼らは悪に取り囲まれ、その有様はわたしの目の前にある」と言われるのです。主は、その根の腐りきった現実を次のように描写します。
「彼らは悪事によって王を、欺きによって高官たちを喜ばせる。彼らは皆、姦淫を行う者、燃えるかまどのようだ。パンを焼く者は小麦粉をこねると、膨むまで、火をかき立てずにじっと待つ。我々の王の祝いの日に、高官たちはぶどう酒の熱で無力になり、王は陰謀を働く者たちと手を結び、燃えるかまどのようなたくらみに心を近づける。夜の間眠っていた彼らの怒りは、朝になると燃え盛る火のように炎を噴く。彼らは皆、かまどのように熱くなり、自分たちを支配する者を焼き尽くした。王たちはことごとく倒れ、ひとりとして、わたしを呼ぶ者はなかった」(7:3‐7)。
罪に捕らえられた人間の欲望の炎は「燃えるかまど」として表現されています。彼らのある者はこの世の権力にすり寄り、支配力を求めます。ある者は快楽を求め、倦むところを知りません。イスラエルには不正が満ち、淫行の霊が人々を支配しています。いずれにせよ、彼らを動かしているのは燃えさかる欲望の炎であることには変わりありません。
そのような中、次から次へとクーデターが起こります。「自分たちを支配する者を焼き尽くした」というのは、そのような事情を指しているものと思われます。欲望の炎は自分を支配する者を焼き滅ぼします。自分が支配する者となるためです。そのようにして、王たちは次々と倒れてゆくのです。イスラエルを統治した王は18人いました。その約半数は殺害されて治世を終えています。それがイスラエルの現実でした。そして、ホセアの時代、王国は末期的状況を呈している瀕死の状態にあったのです。
しかし、本当に悲しむべき事態は7節の終わりに記されています。「ひとりとして、わたしを呼ぶ者はなかった」と主は言われるのです。他者を殺害して王となった者は、自分自身としては、政治的に安定した社会を求めたに違いありません。しかし、彼らの内に、神を真実に呼び求める者はいなかったと言うのです。いや、それは王だけではないでしょう。新しく王位に着いた者も民衆も共に、支配体制が代わり、新しい世となり、国家に再び繁栄と平和を回復することを望んでいたに違いありません。しかし、神を呼び求める者は一人もいなかったのです。回復と癒しは求めても、神を呼び求める者はいなかったのです。神との関係が壊れているところにこそ問題を見いだし、自らの罪を悔い改め、真実に神を呼び求めようとする者はいなかったのです。それは今日の私たちにおいても同じであるかも知れません。そこに主の深い失望と嘆きがあるのです。
それゆえ、主はさらに、イスラエルの民の現実について、嘆きつつ次のように語られます。
「エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ、エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。他国の人々が彼の力を食い尽くしても彼はそれに気づかない。白髪が多くなっても彼はそれに気づかない。イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。彼らは神なる主に帰らず、これらすべてのことがあっても主を尋ね求めようとしない。エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行く。彼らが出て行こうとするとき、わたしはその上に網を張り、網にかかった音を聞くと、空の鳥のように、引き落として捕らえる」(7:8‐12)。
イスラエルの民は、主のもとに帰ろうとはしませんでした。神を求める代わりに、彼らはエジプトに助けを求め、あるいはアッシリアに頼って行きます。それは、人間的に見るならば、その時の最善の政策であったのでしょう。しかし、主はそのような姿を、愚かで悟りのない鳩のようだ、と言われるのです。そして、イスラエルが最終的にアッシリアに滅ぼされ、その時エジプトは何の頼りにもならなかったことを思います時に、預言者の言葉は真実であったことを思わされます。
人が神を求めることをしないなら、危機において「どうしたらよいか」ということしか考えられなくなるのは当然のことです。そのようにして、安易な解決を求めるのです。手軽な回復と癒しの道を求めて動き回るのです。そのように、ただ「どうしたらよいか」ということだけを考えて右往左往している姿は、確かに愚かで悟りのない鳩のようではありませんか。そして、実際それがしばしば私たちの姿であろうかと思うのです。
そのようなイスラエルはまた、「裏返さずに焼かれた菓子」と表現されています。菓子を裏返さずに焼いたらどうなるでしょう。表がこんがりと良い色に焼けていたとしても、裏は真っ黒に焦げてしまっています。それと同じように、イスラエルは国家としての体裁は整えているかもしれないし、目の前の危機は逃れたように見えるかもしれないけれども、本質的には救いへと向かってはいないのです。むしろ、滅びへと向かっているのです。見えないところで、既に真っ黒焦げになっているのです。他国に頼りながら、実は力を吸い取られている。老衰状態へと向かっているのです。安易な救いを求めることによって、かえって滅びを招いているのです。そして、そのことに気付かないのです。
そのように、裏返さずに焼かれた菓子のようなイスラエルに対して、主はこう言われます。
「なんと災いなことか。彼らはわたしから離れ去った。わたしに背いたから、彼らは滅びる。どんなに彼らを救おうとしても、彼らはわたしに偽って語る。彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない。寝床の上で泣き叫び、穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが、わたしには背を向けている。わたしは、彼らを教えてその腕を強くしたが、彼らはわたしに対して悪事をたくらんだ。彼らは戻ってきたが、ねじれた弓のようにむなしいものに向かった。高官たちは自分で吐いた呪いのために剣にかかって倒れ、エジプトの地で、物笑いの種となる」(7:13‐16)。
危機的状況そのものが滅亡をもたらすのではありません。神に背いているという事実そのものが滅亡をもたらすのです。「わたしに背いたから、彼らは滅びる」と主は言われるのです。主は彼らを救おうとしておられます。神は彼らが真実に主に立ち帰り、主の名を呼び求めることを期待しておられるのです。しかし、失望と落胆のうちに主は言われます。「彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない」。
もちろん、彼らは「助け」そのものを求めていないわけではありません。いや、むしろ助けは熱心に求めているのです。寝床の上で泣き叫びます。収穫を再び得られるようになることを求めて自分自身の身を傷つけることさえするのです。そうです、人は癒されるために、回復されるために、いかなることをもするものです。しかし、彼らが求めているのは「助け」なのであって、必ずしも「主なる神から来る助け」ではありません。ここに書かれているのは、バアル祭儀の典型的な姿です。泣き叫び、身を傷つけるのです。一見熱心に見えるのです。しかし、繁栄を得、助けを得るためには熱心であるけれども、祈り求める対象は要するに何でもよいのです。助けを与えてくれるものならば、何だってよいのです。それが偶像礼拝の特徴です。そのような姿は、この国にいくらでも見られます。そのような人々に対して、「わたしに背を向けている」と主なる神は言われるのです。
国内の腐敗と混乱、人間的な思惑による対外政策による破局、熱心ではあるが神との真実な関係を失っている偶像礼拝、これらはみな一つのことがらです。人間のすることはいつの時代でも変わりません。そのようなところに真の回復も癒しもないのです。私たちは、神の嘆きの声に耳を傾けなくてはなりません。現代に生きる私たちもまた、ここで何が問題とされているのかをしっかりと心に留めなくてはらなりません。