2025年2月9日日曜日

「神に造られた尊い存在として生きる

2025年2月9日主日礼拝説教

聖書:ローマ1:18‐25

神の怒り
  今日の第2朗読においては、パウロがローマの教会に宛てた手紙が読まれました。読まれた今日の箇所は、次のような言葉から始まっていました。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」(18節)。ここには「神の怒り」について書かれています。今日はまず、「神の怒り」について御一緒に考えたいと思います。

 「神の怒り」については、聖書の至るところに書かれています。特に旧約聖書を読むと怒っている神の姿と厳しい神の裁きの記述に繰り返し出会うことになります。それゆえに「旧約の神は怒りの神、新約の神は愛の神」などと言う人もいます。しかし、今日お読みしたように新約にも神の怒りについては書かれているのです。そのように、聖書を読もうと思ったら、「神の怒り」という主題は避けて通ることができません。

 しかしながら、実際には、「神の怒り」の記述に抵抗を覚える人は少なくないと思います。ある人は、怒っている神の描写を読んで、「怒るなんて神様らしくない」と言っていました。皆さんはどう思われますでしょうか。しかし、実際、長年聖書に親しんできた人であっても、心のどこかで「怒るなんて神様らしくない。」「怒りは神にそぐなわない」そのように考えているかもしれません。

 しかし、それは神の怒りと人間の怒りを混同しているから起こることなのだろうと思います。人間の怒りについて考えてみてください。どんな人であっても、怒っている時には「自分が正しい」と思って怒っているものです。自分に正当性があればあるほど怒りは激しくなります。しかし、もう一方において、完全に正しい怒りなどないということも恐らく私たちはよく知っているのです。自分が怒りまくって相手を責め続けた後に、「これでよかったのだ」と腹の底からそう思えるかというと、そうではない。どこか後ろめたい思いを引きずることになるのでしょう。ましてや、他の人の怒りについてはなおさらだと思います。相手が怒って自分を責め続けた時に、相手の怒りは完全に正しいと思えることはそう多くないに違いありません。

 そのような「怒っている自分」「怒っている他者」の姿を神様に投影する時に、確かに「怒るなんて神様らしくない」と思うのは無理もないことかもしれません。しかし、神の怒りを私たちの怒りと同列に考えてしまうことが、そもそも間違いなのです。「正しさ」が怒りの根拠であると言うならば、本当の意味で怒ることができるのは神様だけなのです。「怒るのは神様らしくない」どころか、怒ることにおいて正当であるのは完全に正しい神だけなのです。そのことを、私たちはまず心に留めておく必要があるのです。

 そして、その「神の怒り」――完全に正しい「神の怒り」――が天から現されていると、ここには書かれているのです。この言葉を私たちは厳粛に受け止めなくてはなりません。単に聖書において描写されているだけではありません、聖書において「教えられている」ということでもありません。「現されている」のです。すなわち、この世界には天からの神の怒りが現実のこととして現れているのです。

 どのように現れていますか。それは罪が必ず結果を産むという形において現れているのです。神との正しい関係にないこの世界に、絶えざる苦悩が臨んでいるという事実において現わされているとも言えます。実際、この世界において、どんなに社会の体制が変わろうと、指導者が変わろうと、パラダイスは実現しないというところに、既に現れているのです。いや、厳密に言いますと、これは「現わされつつある」という言葉なのです。まだ完全には現わされていない。最終的に完全に現れるのは終末においてです。それは後に「神が正しい裁きを行われる怒りの日」(2:5)と表現されています。私たちはそのような神の正しい怒りのもとにある世界のただ中に存在しているのだということを、心に留めなくてはならないのです。

不信心と不義に対して
 そして、その神の怒りは何に対して現されているのか。18節をもう一度見てみますと、「不信心と不義に対して」と記されております。この「不信心」をある訳では「不遜」と訳していました。神に対する人間の不遜です。すなわち、神を神として畏れ敬わないことです。21節の言葉を用いるならば、神を神としてあがめず、感謝することもしないことです。この罪については弁解の余地がないと語られています。なぜでしょうか。パウロは言います。

 「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」(21節)。

 この世界は私たち人間が造ったわけではありません。私たちは朝、自分が造ったのではない世界の中に目覚めます。その一日を生きるために本質的に必要なものは、空気も水も太陽の光も、その他あらゆるものも、私たち自身が備えたわけではありません。私たちは自分が造ったのではない諸々のものを《受ける》ことによって生きています。すなわち、生きているのではなくて、明らかに生かされているのです。そのように神がお造りになり、私たちを生かすために用いているこの世界には、はっきりと現されているものがあるのだ、というのです。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(20節)。

 ちなみに、「神の永遠の力と神性とは被造物に現れており」ということは、注意して読む必要があります。私たちがこの被造物世界を観察することによって神を理解することができるという意味ではありません。人間の理性によって神を捉えることができると言っているのではないのです。むしろその逆です。人は神を捉えることも把握することもできない。現されているのは「《永遠の》力と神性」と表現されているのです。

 人間は神を理解することも論ずることもできない。ただ畏れ敬い、御前に平伏して御名をあがめ、生かされていることを感謝することしか出来ないのです。神が神であり、私たちは被造物に過ぎないとはそういうことです。それが「神について知りうる事柄」なのです。それこそが「神の永遠の力と神性」を知るということなのです。そのことを知ることが「神を知る」ということなのです。

 ですからそこでは神についてどれだけ理解しているかではなくて、神を崇めて感謝して生きているかどうかだけが問われるのです。そうです、それだけが問われているのです。山に登り、自然に触れて「神を感じる」と言う人は多いでしょう。いやそうではなくても、「私は神が存在することを信じる」と言う人は少なくはありません。しかし、それがどうしたと言うのでしょう。問題は神を感じたかどうかではなく、神が存在していると信じているかどうかではなく、本当に神を崇めて生きているかということなのです。すなわち神を礼拝して生きているか、ということであり、神を誉め讃え、神に感謝して生きているかということなのです。

 そして、明らかなことは、現実のこの世界は神をそのように崇めてはいないし、感謝もしていないということです。それが神との正しい関係を失ったこの世界の姿なのです。

むなしい思いにふけり
 そして、神との正しい関係を失っている事実は、確かに私たちの人間社会の現実の生活の中に現れてまいります。聖書は何と言っているでしょうか。「かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」(21節後半)と。

 ここで「むなしい思いにふけり」と書かれていることは、ただ単につまらないことを考えるようになった、ということではありません。その考えること、生きることにおいて、無価値な者、むなしい者となってしまった、ということです。言い換えるなら、価値ある者として考え、尊い存在として生きることが、もはや出来なくなってしまった、ということです。そして、心が鈍く暗くなってしまった。ここで「心」とは知性や感情や意志をすべて含みます。人間全体を指すと言ってよいでしょう。それが鈍く暗くなってしまったのです。暗くなったというのは、本来持っているはずの光を失ったということです。存在そのものが暗闇になってしまったのです。

 どこに問題があるのでしょう。崇めるべきお方を崇めていない、礼拝すべきお方を礼拝して生きていないところに本当の問題はあるのです。感謝すべきお方に感謝して生きていないところにこそ、問題はあるのです。なぜなら、創造者との関係においてしか、被造物は自らの本当の価値を見いだすことはできないからです。

 人間が作ったボールペンが、人間の手を離れて、部屋の隅の埃なかにころがっている姿を想像してみてください。もし人間の手を離れたボールペンに意思があって、「わが存在の価値とは何ぞや」と悩んでいたらどうでしょう。滑稽でしょう。人間の手を離れてしまったボールペンの価値など、どんなに考えても見出し得るはずがありません。しかし、人間はそんなことを繰り返しているのです。創造主なる神を神として畏れ敬い、礼拝して生きることを失うならば、神によって造られた自らの尊さをも見失うことにもなるのです。「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」とパウロの言うとおりです。これが正しい状態にない、神の怒りのもとにあるこの世界の現実であり、人間の現実なのです。

 しかし、これが結論ではありません。これはまだこの手紙の始まりです。パウロは、このような人間の現実のただ中に、救い主が来られたことを伝えたいのです。それは何を意味するかを伝えたいのです。なぜならキリストの救いのゆえに、人間はもはや人の手を離れてころがっているボールペンのような姿で生きる必要はないからです。創造主なる神を神としてあがめることも感謝することもしないままで、生きていく必要はないからです。創造主によって造られた尊い存在であるにもかかわらず、自らを価値なきもののようにみなして、価値なきもののように自らを扱って生きる必要はないからです。イエス様が、私たちを神、との正しい関係に回復するために来てくださったからです。 

 そして、そのキリストによって実際に集められた私たちはここにいるのです。私たちは、神との関係を回復された者として、週毎に集まり、神を礼拝し、神に感謝を捧げて、そしてまた一週間の生活の場へと出て行くのです。神様は私たちを、神に造られた尊い存在として、神の恵みをこの世界に現し、指し示す存在として生きるように、ここから送り出してくださるのです。

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