2025年1月12日 主日礼拝説教
聖書:ローマの信徒への手紙 6:15-23
かつて大阪に住んでいた時、毎週日曜日の夜、50キロぐらい離れた兵庫県の篠山というところに通っていた時期がありました。そこに行くには、まず中国自動車道を西に走りまして、途中から舞鶴自動車道に入り北に向かいます。するとだいたい一時間ぐらいで到着いたします。ところが、ある日のこと、ちょっと考え事をしながら車を運転しておりまして、ふと我に返ると全く見たことのない風景の中を走っていることに気がついたのです。実は舞鶴自動車道に入るジャンクションを見落として、ひたすら西に向かっていたのです。中国自動車道をいくら西に走ったとしても絶対に篠山には着きません。岡山に行ってしまいます。そのように走る方向が違えば行き着く先も異なるのです。今日の聖書箇所が語っていることも、それと似ています。人生が向かう方向が違っていたら、行き着く先も違います、という話です。
仕える主人が変わりました
15節からもう一度お読みします。「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(15‐18節)。
この直前の14節には「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と書かれています。今日の箇所はその続きです。「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。」パウロが念頭においているのは、要するに、「神の恵みの下にあるのだから、何をやったとしてもどうせ赦されるのでしょう」という考え方です。ある意味では誰もが考えそうなことです。しかし、パウロはそのような考えを断固として退けるのです。「決してそうではない!」と。
そう言ってパウロは二つの道を提示します。行き着くところが完全に異なる二つの道です。一つは罪に仕える奴隷として生きる道です。その行き着くところは「死」であると言います。もう一つは神に仕える奴隷として生きる道です。その行き着くところは「義」であると言います。「死」という終点と「義」という終点が対比されているのです。
ここで言われている「死」とは命から切り離された状態です。それはすなわち、命そのものである神との断絶を意味します。単に肉体が朽ちることではありません。この肉体の死よりも恐ろしいことは、神から完全に離れてしまうことです。神から永遠に切り離されること、それが本当の意味での裁きであり滅びであり「死」なのです。
であるならば、その「死」と対比されている「義」とは、完全な救いを意味していることになるでしょう。命そのものである神との完全なる交わり、それこそが永遠の命であり完全な救いとしての「義」なのです。この「義」に向かう道と「死」に向かう道は、中国自動車道と舞鶴自動車道のように、決して一つにはなりません。まったく異なる方向へと向かう二つの道なのです。
さて、ここで6章前半についても触れておく必要があります。この章の前半には洗礼について語られています。洗礼を受けるということは何を意味するのか。4節にはこう書かれています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(6:4)。
そのように、洗礼を受けるとは、キリストと共に葬られることです。それは古い自分の葬りの式です。古い自分を葬るのは、新しく生きるためです。「新しい命に生きる」と表現されています。このことを前提として、パウロは17節以下を語っているのです。「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(17‐18節)。ここで「義に仕える」とは、「罪に仕える」ことと対比されていますから、言い換えるならば「神に仕える」ということです。いずれにせよ、ここで語られているのは、要するに《主人が変わった》ということです。
古い自分が葬られて新しい命に生きるとはいかなることか。それは罪のしもべであった者が神のしもべとして生きることに他なりません。罪に対して死んだのですから、もはや罪は主人ではありません。罪を主人と見なしてはならないのです。信仰者であるとは、一度死んで主人を変えた、いや変えさせていただいた者であることを意味します。もはや罪を主人として死に向かって歩いているのではなくて、神を主人として義に向かって、最終的な完全なる救いに向かって歩き始めた者であるということです。その事実を忘れてはならないのです。これが18節までに語られている内容です。
救いの完成に向かって聖化の道を
それではその先を読み進んでいきましょう。「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」(19‐23節)。
パウロはここでさらに二つのことを思い起こさせます。過去の自分に関する二つのことです。一つは、いかに自分の五体を汚れと不法のために用いていたかということです。罪という主人が要求することに対して、私たちはいかに熱心であったかということです。そのことを思い起こさせながら、かつて罪という主人に仕えていたように、「今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」と言っているのです。
ちなみにこの「聖なる生活を送りなさい」という言葉は、完成された状態を表す言葉ではなくて、完成へと向かうプロセスを表す言葉です。教会は伝統的にこれを「聖化(聖と化すること)」と表現してきました。今は五体を神に献げ、神のために用いて神に仕えなさい。そして救いの完成へと向かって、完全に神のものとして生きることを目指して、聖化の道を進みなさいとパウロは言っているのです。
そして、彼はもう一つのことをも思い起こさせます。それは恥ずべき過去の罪の実りです。「あなたがたは罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした」と書かれています。何にも束縛されないで、自分の欲するままに生きられることが自由であると一般的には考えられているかもしれません。しかし、神の束縛から離れ、自分の欲するままに生きようとする人は、やがて極めて不自由な自分を見出すことになるのです。思いのままに生きている人は、自分の欲の奴隷となるからです。人間は何にも束縛されないで生きることなど出来ないからです。
そして、罪は必ず「実り」をもたらします。それがいかなる実りであるか、罪の奴隷である時には気づきません。罪が主人でなくなって、初めて気づくのです。なんと恥ずべき実りを生み出してきたことか、と。 恥ずべきことは忘れたいと思うのが人情でしょう。しかし、パウロはわざわざ過去の恥ずべき実りを思い起こさせるのです。なぜでしょうか。忘れてはならないからです。恥を知ってこそ、人は聖なる生活の実りを求めるからです。恥を知らない人は聖化を求めることもありません。恥を知らない人は、「恵みの下にいるのだから、罪を犯してよい」などと言い始めるのです。ですから、過去の恥ずべき実りを忘れてはならないのです。
私たちも知っているように、ペトロは三度主を否定しました。その話が聖書に残っているのは、ペトロが忘れなかったからです。この手紙を書いているパウロ自身、自分が迫害者であったことを忘れませんでした。多くの血を流してきたことを忘れませんでした。そんな彼が、「では、そのころ、どんな実りがありましたか」と問うているのです。自分自身、過去の恥ずべき実りを知る者として、語っているのです。そのように語り得たのは、ただキリストの恵みにより、新しく生きる道を与えられたからです。そのキリストの恵みの光の中で語っているのです。
キリストの恵みの光が明るければ明るいほど、暗闇の暗さもまた際だちます。ですからパウロは言うのです。「それらの行き着くところは、死にほかならない」と。――「わたしは自由だ!」と言いながら、実は罪の奴隷でしかなく、恥ずべき実りを沢山実らせながら、最終的に行き着くところは死に他ならない。――だから、本当はそんな道を最後まで歩き通す必要はないのです。なぜなら、その最終的な死を、既にキリストが死んでくださったからです。十字架にかかって、私たちの代わりに死んで下さったからです。それゆえ人は、その死にあずかって、一度死んだものとして、既に裁きを受けた者として、古い自分を葬って、新しい別な道を生き始めたらよいのです。方向を変え、違うゴールに向かって歩み出したらよいのです。
そして、事実、ローマの信徒たちはそのように歩み出したのでした。彼らがキリスト者であるということは、そういうことなのです。既に神の御業が始まっているのです。もしかしたら遅々とした歩みでしかないかもしれない。けれど、ともかく彼らは聖化の道を歩みはじめ、神の霊の働きによって聖化の実が結ばれはじめているのです。そのことをパウロは思い起こさせているのです。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」と。
さて、最初の話に戻りますが、ふと我に返っていつもと風景が違うことに気がついた私は、ともかく次のインターで下りました。気づいた時には既にかなり行き過ぎていましたが、ともかくも高速に入り直し、違う方向に走り始めました。そして、かなり遅くはなりましたが、無事篠山には着きました。――何も不思議なことはないでしょう。方向が間違ったままならば本来の目的地には絶対に着きません。方向が正しければ必ず目的地には着くのです。問題は《どこにいるか》ということではありません。《今、どちらに向かっているか》なのです。これは人生においても同じです。今自分がどんな状態にあるか。恥ずべき実りをどれだけ実らせて生きてきたか。速く走っているかゆっくりであるか。それは大した問題ではありません。大事なことは、今、永遠の命に向かっているか、そうでないのか、ということなのです。