ホセア書 4:11‐19
ソロモンの時代まで統一王国であったイスラエルは、その子レハブアムの時代に、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。ダビデ王家に反旗を翻して北王国の王となったのはヤロブアムです。イスラエルの十の部族を治める者となった彼には、しかし、一つの不安がありました。それはエルサレムの神殿が南のユダにあるということです。彼は、こう心に思いました。「今、王国は、再びダビデの家のものになりそうだ。この民がいけにえをささげるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダの王レハブアムに向かい、彼らはわたしを殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰ってしまうだろう」(列王上12:26‐27)。そこで彼はよく考えた上で、金の子牛を二体造り、人々に言いました。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」。こうして彼は、一体をベテルに、もう一体をダンに置いたのです。
人々の心をつなぎ止めておくために、しばしば有効な手段として用いられるのは宗教です。世に現れた多くの支配者が、その手段を巧妙に用いてきました。ヤロブアムにとっても、また後の王にとっても、国家が維持されていくためには、イスラエルの宗教が民衆にとって魅力的であることがどうしても必要とされました。そこで、ヤロブアムは、さらに数ある聖なる高台に神殿を設け、そこでレビ人でない民の中から祭司に任じ、祭儀を盛大に執り行わせ、また王自ら祭壇に立っていけにえを捧げたのでした。その「聖なる高台」とは、先住のカナン人がかつて神々を礼拝していた聖所のあった場所のことです。ヤロブアムは改めてそれらの高台を主の礼拝の場所として重視したのでした。そのようにしてカナンのバアル礼拝と区別の付かなくなった彼らの礼拝は、王国において民衆の心を惹きつけたのです。そして、それは魅力的な宗教であり続け、約二百年後のホセアの時代にまで至っていたのでした。
さて、今日、日本の伝道が論じられる場において、しばしばキリスト教会の魅力のなさが語られます。もっと魅力的な教会にならねばならないと言われます。確かに、キリストの福音は、本来非常に魅力的なものであるはずです。代々の聖徒たちは、この福音の故に、喜んで命を捨てさえしたのですから。ですから、教会は本当の意味で、魅力的にならねばならない、福音の魅力をこの世界に証しすることのできる教会とならねばならないと思うのです。しかし、宗教の魅力というものを安易に提供したり求めたりするところには、大きな危険が伴うことを、私たちは見落としてはなりません。列王記を読みますと、ヤロブアムのしたことは、後々に至るまで「ヤロブアムの罪」として言及されているのです。そして、ホセア書において激しく告発されているのも、また一般的に見れば、多くの人々が喜んで熱心に関わっている、非常に盛んな聖所であり、そこにおける祭儀だったのです。
「ぶどう酒と新しい酒は心を奪う。わが民は木に託宣を求め、その枝に指示を受ける。淫行の霊に惑わされ、神のもとを離れて淫行にふけり、山々の頂でいけにえをささげ、丘の上で香をたく。樫、ポプラ、テレビンなどの木陰が快いからだ。お前たちの娘は淫行にふけり、嫁も姦淫を行う。娘が淫行にふけっても、嫁が姦淫を行っても、わたしはとがめはしない。親自身が遊女と共に背き去り、神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ。悟りのない民は滅びる」(4:11‐14)。
ここに彼らを魅惑した宗教がいかなるものであったかが言い表されています。それは「酒」と「淫行」によって代表されているのです。飲酒と性行為による陶酔の中で彼らは「木に託宣を求め、その枝に指示を受け」たのです。私たちは、この描写と近年の特殊なカルト宗教とを重ね合わせることができるかも知れません。しかし、実はこの一つ一つの要素は、決して私たちと無縁のものではないのです。私たちの信仰生活が、これと文字通り同じ行為を伴わないとしても、その本質がイスラエルのバアル宗教と大差ないものとなる可能性はいくらでもあるのです。
祭儀にぶどう酒や新しい酒が伴うのは、元来その年の収穫を感謝するという意味だったのでしょう。しかし、ここに見るように、それは本来の意味を失い、ただ熱狂と興奮を得るための手段となっていました。また、祭儀に性行為が持ち込まれているのも同じ意味合いでした。建前としては、作物を実らせる、男神バアルと、大地の女神アシェラの間の性行為を模倣するという意味でした。しかし、それもまた、ただ熱狂と興奮を得るための手段でしかなかったのです。
そのように、宗教に非理性的な世界、非日常的な世界を求めるのは、世の常です。非理性的・非日常的世界を求めるのは、いつでも理性的に向かい合わなくてはならない現実から逃避するためです。世俗の世界においてもしばしば酒や性行為がそのための手段として用いられます。それが宗教の世界に持ち込まれると、ここに書かれているようなことが起こるのです。しかし、そのような現実逃避は、今日の世界においても、酒が用いられなくても、性行為が用いられなくても、いくらでも起こります。様々な形で、宗教が現実逃避のために用いられることは起こり得ますし、そのような宗教はとても魅力的に見えるものなのです。
そして、彼らはそのような状態において、木に託宣を求め、その枝に指示を受けたのでした。「木に託宣を求める」とは、具体的には祭壇の傍らに立つアシェラ像よりの託宣を求めることを意味するものと思われます。また、「枝に指示を受ける」の「枝」とは、占い棒の類でありまして、一説によりますと、二本の棒を倒し、その倒れ方によって託宣を告げるようなものであったようです。詳しいことは、この記述だけでは分かりません。しかし、なんらかの形で、直接的な答えが与えられるようになっていたことは確かです。恐らく具体的な農作に関すること、様々な生活上の問題に関することなどが問われ、答えられたのでしょう。
そのように、生活に関わることに直接的な答えが託宣という形で与えられることは、いつの時代おいても多くの人々が切に求めていることであります。それは今日でも、多くの人々が占い師のもとを訪れ、直接的な託宣を告げる新興宗教に向かうことからも分かります。当時の人々にとって、特に自然と関わる農業に携わる人々にとって、現在と未来についての手軽な答えを与えてくれる宗教は非常に魅力的であったろうと思われます。
しかし、魅力あるものには、往々にして危険が伴うのです。そのように非理性的・非日常的な雰囲気の中で託宣を受ける人々は、確かな道筋を得ているようでありながら、実は迷いの内にあるのです。神のもとにあるように見えながら、実は神を離れることになるのです。「淫行の霊に惑わされ、神のもとを離れて淫行にふけり…」(12節後半)と書かれているとおりです。
彼らは、神御自身を求め、神を知り、神との愛に基づいた人格的な関係に生きようとはしませんでした。また、神が信仰者に何を求めておられるのかを知ろうとはしませんでした。信仰者がどこに向かうべきなのか、その根本的な方向付けに全く関心を持たず、ただ目先の関心についての安易な答えしか求めないならば、迷うことになるのは当たり前です。自らの人生の方向が正しいか、間違っているかを振り返ろうとせず、ただ目先の問題の安易な解決しか求めていないならば、結局迷いながら生きざるを得ないのです。そうすることによって、神ならぬ悪しき霊に惑わされ、結局は神を離れ、神の御心から外れた道を進んで気付かないのです。
そして、一つの世代が迷うなら、次の世代も迷いながら生きることになります。「お前たちの娘は淫行にふけり、嫁も姦淫を行う」(13節後半)。しかし、それはある意味で当然の結果であると主は御覧になっておられます。「娘が淫行にふけっても、嫁が姦淫を行っても、わたしはとがめはしない」とまで言われるのです。それは、当然起こるべくして起こったことだからです。「親自身が遊女と共に背き去り、神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ」。そして、この言葉をホセアは、当時の諺をもって締めくくります。「悟りのない民は滅びる」。魅力的なものには危険が伴います。その危険は大きいのです。それは滅びをもたらします。主イエスも、言われたではありませんか。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」(マタイ7:13)。
しかし、主がいくら呼び掛けても、イスラエルの民は立ち帰ろうとはしませんでした。そこで主は彼らにこう言われます。
「イスラエルよ、たとえお前が遊女であっても、――ユダは罪を犯すな――、ギルガルに赴くな、ベト:アベンに上るな。「主は生きておられる」と言って誓うな。まことにイスラエルは強情な雌牛のように強情だ。どうして主は、彼らを小羊のように、広い野で養われるだろうか。エフライムは偶像のとりこになっている。そのままにしておくがよい。彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね、恥知らずなふるまいに身をゆだねている。欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み、彼らはいけにえのゆえに恥を受ける」(4:15‐19)。
イスラエルは強情な雌牛でした。飼い主がどんなに引こうが、自分の行きたい方向にしか進まない、またどんなに押そうが動きたくないと思ったら絶対に動かない、そんな強情な雌牛です。熱心に聖所に集い、盛んに祭りを行う、一見非常に信心深いイスラエルの民は、神から見るならば強情な雌牛以外の何ものでもなかったのです。結局は、主が本当に望んでおられる方向になど進むつもりはないのです。彼らが熱心にしていることは、自分の心が喜びとすることだけだったのです。
しかし、それは決して他人事ではありません。今日の日本の教会においても、いくらでも起こり得ることです。人の目から見てどんなに信仰熱心に見えたとしても、結局は自分のしたいことだけをし、自分の心の欲するものだけを追い求め、主の御心に従う意志が微塵もないならば、神の目から見てそれは強情な雌牛と変わらないのです。少なくともそれは、羊飼いの声を聞いて、その声に導かれて生きる羊の群れではありません。
それゆえに、ホセアはイスラエルの民について言うのです。「どうして主は、彼らを小羊のように、広い野で養われるだろうか」。強情な雌牛を羊と同じように養うことは、本来無理なことなのです。しかし、その無理なことを、あえて主がなさる時があるのです。主は、強情な雌牛を、広い野に放たれるのです。「エフライムは偶像のとりこになっている。そのままにしておくがよい」(17節)と。家畜が野に放たれ、もはや誰も引き戻そうとしなくなったらどうなるでしょうか。それはその家畜にとって非常に不幸なことと言わざるを得ないでしょう。
そのように、強情な雌牛のような者にとって、本当に不幸なのは、何かが出来ない時ではなく、むしろ心の欲するままにしたいことが自由に出来、行きたいところに自由に行けるようになることなのです。その結末をホセアはこう語ります。「欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み、彼らはいけにえのゆえに恥を受ける」。私たちは、主によってしたいことを妨げられ、心の欲するところに向かうことを留められる時には、そこに働いている神の恵みを知るときでもあるのです。