ラベル エゼキエル書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル エゼキエル書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年1月19日日曜日

「苦くて甘い神の御言葉」

 2025年1月19日 主日礼拝説教

聖書:エゼキエル書 2:9-3:4


人の子よ
 今日は第一朗読においてエゼキエル書が読まれました。エゼキエルとは、今からおよそ2600年前に神の言葉を人々に語った預言者です。この預言者エゼキエルについて語るには、その背景として、一つの国家の滅亡について語らなくてはなりません。紀元前586年、エルサレムは時の超大国バビロニアによって陥落せられ、ユダの王国は滅びました。そして、国家の滅亡に前後して、ユダの王家をはじめ、国の主だった人々は遠くバビロンへと捕らえ移されていきました。世界史において「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事です。そして、その捕らえ移された人々の中にいたのが、このエゼキエルという預言者でした。彼は異国に捕囚となった人々に、神の言葉を語り伝えたのです。

 今日朗読された箇所には、「わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか」(2:9)と書かれていました。そして、エゼキエルはこう語りかけられます。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」(3:1)。

 「人の子よ」。彼はそのように語りかけられます。彼はこのエゼキエル書において、繰り返し「人の子よ」と語りかけられています。その最初は2章1節です。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」(2:1)。彼は神の御前にいるのです。彼は圧倒的な主の栄光の姿に触れ、その御前でひれ伏しているのです。ひれ伏すエゼキエルはいかなる意味においても神ではありません。神は神であり人は人なのです。いかなる人間であれ、本当の意味で神の御前に置かれるならば、顔を上げることすらできないのが人間です。そのようにひれ伏す彼に、「人の子よ」と主は語り掛けられるのです。

 しかし、そこで主は「自分の足で立て」と言われるのです。遣わすためです。しかも、このように続きます。「彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた」(2:2)。「自分の足で立て」と言われた神は彼を立たせるのです。立ち上がらせたのは神御自身です。「霊がわたしの中に入り」とはそういうことです。そこに働いているのは神の力です。神の力によって立ち上がった彼は、神の力によって為すべきことがあるのです。

 今日の箇所で「人の子よ」と語りかけられているのは、そのようなエゼキエルです。神の霊によって立ち上がらされたエゼキエルに巻物を差し出し、「これを食べよ」と神は言われます。それは神の言葉です。それはエゼキエルの神秘体験の中での出来事ですから、実際には何が起こったのかは分かりません。しかし、意味合いははっきりしています。確かに語るのは「人の子」であるエゼキエルです。あくまでも人間が語るのです。しかし、語られるのは神の言葉なのです。

イスラエルの家に語りなさい
 この「イスラエルの家に語りなさい」という言葉が何を意味するかは、その前に書かれています。「人の子よ、自分の足で立て」と言われた主は、彼を立ち上がらせてさらにこう言われたのです。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている」(2:3)。今日の箇所の直前にもこう書かれていました。「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」(2:8)。

 この日本という国は、今から79年前に敗戦を経験しました。私はその後に生まれましたから実際には経験していません。しかし、当時敗戦を経験した人でありましても、国家の滅亡は経験してはいません。一つの国家が滅亡し、異国に捕らえ移されるということが、どれほど悲惨である不幸な出来事であるかは、恐らく私たちの想像を絶することでしょう。しかし、神は彼らを「不幸で可哀想な人々」とは呼ばないのです。彼らを「わたしに逆らった反逆の民」と呼び、「反逆の家」と呼ぶのです。彼らは、神に背いてきた人々であり、今も背いている人々なのだ、というのです。

 そして、実際そうなのです。私たちが旧約聖書に見るのは、彼らが神に逆らい、神に背き続けてきた歴史なのです。聖書に書き記されているのは、宗教的に装われたきれいごとではありません。そこに書かれているのは、生々しい、罪深い人間の現実です。神が言われることは正しいのです。彼らは神に背き続てきたのであり、背き続けている人々なのです。「反逆の家」です。

 しかし、そこで驚くべきことが起こるのです。神が神であり、人が人でしかないならば、神は国家を滅ぼすだけでなく、人間そのものを滅ぼすこともできるのでしょう。しかし、神は御自分に背く人々を滅ぼそうとはしないのです。なんと神は、エゼキエルに巻物を食べさせて遣わされるのです。神の言葉を語りなさい、と。そのようにして神はなおも、自分に背く人間に語りかけようとされるのです。

 考えてみてください。言葉というものは、権力や武力とは異なります。言葉は、受け入れることも拒絶することもできるのです。力をもって臨めばいかに反逆の家といえども受け入れるしかないでしょう。しかし、言葉なら拒絶することができるのです。そして、それも主は分かっているのです。「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ」(2:7)と。

 このように、かつてイスラエルに現れたエゼキエルのような「預言者」という存在が示しているのは、神に逆らう者になお語り続ける神の姿です。背く者に呼びかけ続ける神の姿なのです。神はなぜ語り続けるのでしょうか。人が神を離れて、神を失った者として、滅びて欲しくないからです。

 「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」と命じられた主は、後にエゼキエルにこう語っています。「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる」(18:30‐32)。

 「お前たちは立ち帰って、生きよ」。そう主は言われるのです。しかし、反逆の家が立ち帰るためには、反逆しきたことが明らかにされねばなりません。神に犯してきた罪が罪として明らかにされねばなりません。人が神に立ち帰るのは、神に背いている自分を本当の意味で悲しむ時です。彼らは祖国から捕らえ移され、捕囚となって、自らの不幸を悲しみ、呻き、嘆いたかもしれません。しかし、本当に必要なのは、自分の不幸を嘆くことではなく、自分の罪について悲しみ、呻き、嘆くことなのです。そうあってこそ、神に立ち帰ることができるからです。

腹には苦いが口には甘い
 ですからエゼキエルはそのような神の言葉を語らねばなりません。それゆえに、エゼキエルに差し出された巻物については、こう書かれていたのです。「わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった」(9‐10節)。彼はそれを食べた。そこに書かれていたのは、人々の間に起こらなくてはならない、本当の意味での「哀歌と、呻きと、嘆き」だったのです。すなわちそれは、自らの罪に対する悲しみの歌と、呻きと、嘆きなのです。

 捕囚となった人々をただ慰め、未来への希望を与え、「必ず祖国に帰れます」と励ますだけならば人々から喜ばれるでしょう。感謝されもするでしょう。しかし、エゼキエルが遣わされるのはそのためではありません。人が神に立ち帰るために遣わされるのです。そこで語られねばならないのは、必ずしも人の耳に心地良い言葉ではありません。それはしばしば苦い言葉でもあるのです。

 本日読まれたヨハネの黙示録においても、ヨハネが巻物を食べたという話が出て来ました。それを差し出した天使がヨハネにこう言っています。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には密のように甘い」(ヨハネ10:9)。「腹には苦い」。エゼキエルが食べさせられた巻物もそうだったに違いありません。彼が語るべき言葉は、苦い言葉なのです。

 しかし、エゼキエルにせよヨハネにせよ、それは「密のように甘かった」とも書かれているのです。エゼキエルにせよヨハネにせよ、彼らは分かっているのです。それは最終的に神の断罪の言葉ではなく、神の救いの言葉なのだということです。反逆の家をただちに滅ぼすのではなく、なおも語りかけようとしているのは神の愛なのだということです。

 さて、エゼキエルが反逆の家に遣わされたこの物語が今日なおも読まれているのはなぜでしょうか。それはエゼキエルに巻物を食べさせ遣わされた神はまた、神に背いたこの世界にイエス・キリストを遣わされた神であるからです。

 神は「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい」と神の言葉を食べさせました。しかし、神は最終的に神の言葉そのものをこの世界に送られたのです。それがキリストなのです。それは腹に苦い言葉でした。人間にとって苦い言葉でした。ですからこの世は神の言葉であるキリストを十字架にかけて殺したのです。

 しかし、神はこのキリストを世の罪の贖いとし、キリストを復活させ、今もなお神の言葉なるキリストを教会を通して宣べ伝えさせておられるのです。そのように、神は今もなお反逆の家に、神に背いたこの世界に、語り続けておられるのです。「立ち帰って、生きよ」と。その恵みの言葉が私たちのところにも届きました。そして、私たちは確かにその恵みの中にいるのです。

2020年5月31日日曜日

「枯れた骨は生き返るか」

エゼキエル書37:1‐14

我々の骨は枯れた
 今年の聖霊降臨祭においては、第一朗読においてエゼキエル書が読まれました。今日は特に、預言者エゼキエルを通して語られた神の言葉に耳を傾けたいと思います。

 預言者エゼキエルは預言者エレミヤとほぼ同時代の人です。共にユダ王国滅亡の時代を生きた預言者です。彼とエレミヤの大きな違いは、エレミヤが主にエルサレムで活動したのに対し、エゼキエルが捕囚の地において活動した預言者であったところにあります。ヨヤキン王と共に上層階級の人々がバビロンに移された第一次バビロン捕囚の際、エレミヤはエルサレムに残され、一方のエゼキエルは捕囚民と共に捕囚の地へ捕らえ移されました。そして、その地において、エゼキエルは預言者としての召しを受け、捕囚民の間において神の言葉を語り始めたのです。捕らえ移されて5年ほど経った頃のことでした。

 その時点では、まだエルサレムは破壊されてはいませんでした。神殿も残っていました。ダビデ王家もまだ存在していました。ヨヤキム王も捕囚ではありますがまだ生きています。それが捕らえ移された人々の希望でした。エゼキエルが活動していたその頃、解放と救いを語る預言者は少なくありませんでした。そして、人々は彼らの言葉に熱狂的に耳を傾けたのです。必ず自分たちはエルサレムに帰還することができる。必ず元の生活に戻れる。そう信じて、希望を抱き続けたのです。

 しかし、彼らが帰還を夢見ていたエルサレムは、それから十年も経たない内に、バビロン軍に包囲され、陥落することとなりました。都の城壁は徹底的に破壊され、神殿も焼き払われてしまいました。そして、その知らせがやがて捕囚の地の人々にも伝えられることとなりました。人々は深い絶望の淵に叩き落されることとなりました。そんな人々の言葉が、今日お読みした11節にも記されています。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」(11節)。そのような人々に対して預言者はいったい何を語れば良いのでしょうか。神はその答えをエゼキエルに幻をもって示されたのでした。

 「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」(1‐2節)。そのように、エゼキエルは幻の中で、骨に満ちた谷の中に連れていかれます。そこには非常に多くの骨がありました。わざわざ「それらは甚だしく枯れていた」と書かれています。イスラエルには、死んだ後三日間は死んだ人の魂が屍の周りを漂っているという俗信がありました。死んで間もなくならばまだ希望はある。しかし、そこにあったのはすべて枯れた骨なのです。すなわちもはやまったく希望がないということを意味します。完全な死の支配がそこにあるのみです。

 11節において神がこの幻を説明しています。「これらの骨はイスラエルの全家である」と言われています。イスラエルの人々は「我々の骨は枯れた」と言っているのです。その時、神もまた、彼らが枯れた骨であることに同意するのです。「これらの骨はイスラエルの全家である」と。もちろん、人々が「我々の骨は枯れた」と言っても、実際に枯れているわけではないでしょう。あくまでも比喩的な表現です。絶望をそう表現しているだけです。しかし、神が彼らの言葉に同意して、「これらの骨はイスラエルの全家である」と言われる時、それはもはや比喩的表現ではないのです。神は知っているのです。彼らは、本当に枯れた骨なのだということを。つまり、彼ら自身の内には本当の意味で全く希望がないということです。なぜなら、彼らの絶望は彼ら自身の罪から来ているからです。そのことを一番良く知っているのは神御自身なのです。

 エルサレムが陥落したということは、人々にとっては災いなのでしょう。悲劇的な出来事なのでしょう。しかし、本当は単なる災いでも悲劇でもないのです。そうではなくて、それは神の裁きのもとにおいて、彼らの罪が明らかにされた出来事なのです。預言者が呼びかけても、耳を傾けようとはしなかった。神が「立ち帰れ」と語ろうとも、神に背を向け、神から離れたままだった。まさにそのようなイスラエルの全家が神に裁かれた出来事なのです。彼らの状態は、彼らが認識しているよりも本当はずっとずっと深刻なのです。神から見るならば、彼らは本当に枯れた骨だからです。

 さらに言うならば、彼らは、エルサレムが陥落して、初めて枯れた骨になったのではないのです。むしろ、神に逆らい、神の言葉に逆らい、神から離れていた時に、彼らは既に死んでいたのです。罪の内に死んでいたのです。エルサレムが陥落して国が滅びたのは、既に死んでいたことが明らかになったに過ぎないのです。もともと絶望的な状態にあったのです。その絶望が表に現れたに過ぎないのです。

枯れた骨に預言せよ
 しかし、その希望のない枯れた骨について、主はエゼキエルに問うのです。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と。エゼキエルは答えます。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。エゼキエルの答えは、単に「全く絶望的です」ということを言い換えているに過ぎません。人間の側から見るならば望みはどこにもないのです。絶望です。ならば神の側にそのまま返すしかありません。「あなたのみがご存じです」と。

 そこで、神はエゼキエルに命じられます。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」(4‐5節)。その映像を思い描いてみてください。文字通り骨に語りかけている人がいたとすれば、それはまったく意味のないことのように見えるではありませんか。しかし、神の言葉をイスラエルに語るということは、まさにそのようなことに他ならないのです。

 いや、本来、イスラエルに限らず、人間に神の言葉が語られるということはそういうことなのでしょう。神の言葉が語られるということは、単に悪い者が良き者になるための教えが語られるといった類のものではないのです。人間は、何か良いことを教えられて、より良い者になればなんとかなるという状態にはないのです。枯れた骨は枯れた骨なのです。少しばかり手直ししても枯れた骨なのです。

 骨に語ることにもし意味があるとするならば、それは神の言葉が語られるところにおいて、神の霊が働くからです。語る行為そのものが人を生かすのではありません。語られた言葉の説得力や影響力が人を生かすのではありません。神の霊を通してなされる神の御業が人を生かすのです。神が生き返らせるのです。最初の創造において、土から作られた人に神が息を吹き込むと、その人は生きる者となりました(創世記2:7)。同じように、神から離れ、罪のために死んでいた人間を再び生かすのは神の霊の働きによるのです。

 エゼキエルは命じられたように預言しました。白骨死体の群れに語りかけているエゼキエルの姿を想像してみてください。彼の行為は客観的に見るならば愚かな行為でしかありません。語る者は自らの行為の無力さを知りつつ語ります。それはいつの時代の預言者も同じでした。今日教会において語られる説教においても同じです。福音の宣教は、それ自体の無力さを常に伴う務めなのです。パウロが「宣教という愚かな手段」(1コリント1:21)と表現しているとおりです。

 しかし、その一見愚かに見える行為を通して事が起こり始めます。「わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」(7‐8節)。神の言葉が語られる時に、現実が動き始めるのです。死んでいたものが、再び生きている者の形を取り始めるのです。しかし、それはまだ準備段階です。人間の形となったとしても、命はまだその内にはありません。「しかし、その中に霊はなかった」と続いているとおりです。

  本当に重要なのはその後に起こることです。主はエゼキエルに「霊に預言せよ」と言うのです。彼は命じられるままに預言します。「すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(10節)と書かれております。ここではじめて「生き返った」と表現されるのです。神の霊が来る時に、生き返るのです。

 「枯れた骨は生き返るか」。今日の説教題ですが、今日の聖書箇所ははっきりと「その通りである!」と私たちに答えてくれています。第2朗読は、毎年聖霊降臨祭において耳にしている箇所ですが、ここにおいても私たちははっきりと、「枯れた骨は生き返る」という事実を語り聞かされているのです。

 イエスを見捨てて逃げ去った弟子たち。そのような形において、神の子を十字架へと追いやった自らの罪と向き合わされた弟子たち。まさに神から見て枯れた骨でしかない自分たちであることを思い知らされた弟子たち。その彼らが再び集められたのです。カタカタと音を立てて、骨と骨が近づいた。そして、人の形となっていったのです。その彼らの内に天からの霊が降ったのです。枯れた骨の集まりでしかなかったものが、生きた神の民となりました。それが教会の誕生であると聖書は私たちに伝えているのです。それが教会の宣教の始まりです。

 その宣教の歴史の先に私たちが今いるのです。教会の歴史は、枯れた骨が生き返らされてきた歴史です。宣教によって、神の霊のお働きによって、枯れた骨が神の民として生き返らされてきた。私たちもそこに加えられました。枯れた骨でしかなかった私たちが、生き返らされてそこに加えられました。ならば、私たちは神の霊によって生かされた神の民として、どのように歩んだらよいのでしょうか。

2020年5月10日日曜日

「新しい心、新しい霊」

エゼキエル書 36:24‐28

恵みの上にある生活
 「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」(24節)。そう語られていました。「すべての地から集め」と言われているのは、すべての地に散らされているからです。「お前たちの土地に導き入れる」と言われているのは、実際には自分の土地から離れたところに散らされているからです。

 ここで「お前たちの土地」と言われていますが、その土地はもともと彼らの土地ではありませんでした。彼らはもともとエジプトの奴隷だったのです。その奴隷であった民が神によって解放され、エジプトから導き出され、荒れ野を導かれ、やがて神が約束されたその土地に導き入れられたのです。

 それは聖書において「乳と蜜の流れる地」と呼ばれる豊かな土地でした。そこに導き入れられたのは、彼らがそれを受けるに相応しかったからではありませんでした。彼らがエジプトから導き出されたのも、約束の地を与えられたのも、すべては神の恵みによったのです。その土地の上に営まれる生活は、まさに神の恵みの上に成り立っている生活でした。

 そのように、神の恵みによって与えられた生活であるならば、大切なことは神の恵みに応えて生きることなのでしょう。ですから、約束の地に入る直前に、モーセはこう言っているのです。

 「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」(申命記6:10‐13)。

 恵みに応えて生きるとはこういうことでしょう。今の生活を恵みによって与えてくださった御方を決して忘れないこと。その御方のみを畏れ、その御方に仕えること。「仕える」とは「礼拝する」という意味です。主を尊び、畏れ敬い、主を礼拝して生きること。それが恵みに応えて生きるということです。

恵みを踏みにじった人々 しかし、今引用したようなモーセの言葉が、こうして書き残されているのはなぜなのか。――それはいつの時代においても、主を忘れるということが起こり得るからでしょう。人がどんなに大きな恵みを受けても、その御方を忘れるということは起こり得るのです。どんなに大きな恵みを受けても、与えてくださった方を尊びもせず、感謝もせず、礼拝することもなくなる。そのようなことは起こり得ることです。そして、事実そのようなことが繰り返しイスラエルにおいて起こったのです。

 エゼキエル書に戻ります。今日お読みした箇所の少し前にはこんなことが書かれています。「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した』」(16‐17節)。彼らは恵みの上に生活していたのに、その恵みを象徴する土地を「汚した」というのです。言い換えるなら、神の恵みを踏みにじったということです。何によって。「自分の歩みと行い」によってです。そうです、人は恵みの上に生活させていただいていても、自分の歩みによってその恵みを踏みにじって汚すようなことをするのです。

 その後に、「自分の歩みと行いによって汚した」ということが、別の表現で言い換えられています。「彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚したからである」(18節)。「血を流す」とは他の人間を傷つけること、さらには殺すことです。「偶像によって」とは、神ならぬものを神とすることによって、ということです。他の人間を人間として大切にしないこと、神を神として大切にしないこと。人を人とせず神を神としないこと。恵みを与えてくださった神を忘れたそのような生活によって、そのような歩みによって、人は神の恵みを踏みにじり汚すのです。それがイスラエルの歴史において起こったことでした。

 その結果どうなったのでしょう。「わたしは彼らを国々の中に散らし、諸国に追いやり、その歩みと行いに応じて裁いた」(19節)と書かれています。彼らは恵みによって与えられた土地を汚したので、その土地を失うことになりました。恵みを踏みにじるなら、恵みを失うことになるのです。恵みの上に成り立っていた生活を失うことになるのです。

神の赦しにより再び恵みの中へ
 しかし、そのような人々に対して、主は今日の聖書箇所でこう語っておられるのです。「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」。彼らは確かに土地を失いました。しかし、土地そのものが消えて無くなったわけではありません。しかも、それは依然として「お前たちの土地」と呼ばれているのです。

 彼らは恵みの上に成り立っていたかつての生活を失いました。しかし、恵みそのものが無くなってしまったのではありません。神は彼らの土地に再び導き入れることがおできになる。赦しの神は、罪を赦して恵みの中に再び導き入れることがおできになるのです。神は人が恵みを失ったままでいることを望んではおられないのです。人を恵みの中に導き入れ、人を恵みの中に回復することを望んでおられるのです。聖書が私たちに伝えているのはそのような神様です。「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」と言われる神なのです。

 そのようにイスラエルは神に赦され、再び自分たちの土地に入れられます。もちろん、それは必ずしも元の生活が直ちに回復することを意味しません。この36章には繰り返し「廃墟」という言葉が使われています。そうです、彼らが再び自分たちの土地に導き入れられるなら、そこで廃墟を目にすることになるのです。廃墟とは何か。罪の結果です。人は罪の結果を見ることになる。罪は赦されても廃墟は残るのです。

 そのように、イスラエルは自分たちの土地に導き入れられても、そこで廃墟を見ることになるのです。しかし、そこではまた逆のことも言えるのでしょう。イスラエルはそこで廃墟を見ていたとしても、すでに自分たちの土地の上にいるのです。神によって罪を赦していただいたのなら、たとえ廃墟のような現実を目にしていたとしても、既に恵みの中にあるということもまた事実なのです。だから既に恵みの中にあることを信じて生きたらよいのです。そして、恵みの中にあるならば、神が廃墟を建て直してくださると信じたらよいのです。神が恵みの上に営まれる生活を回復してくださる、と。

わたしの霊をお前たちの中に置く
 そのように、神が廃墟を建て直してくださいます。36章の最後にはそのような神の約束が書かれているのです。

 しかし、今日の聖書箇所は、それ以上に大事なことがあるのだということを私たちに伝えています。神が廃墟を建て直してくださるということは、ただ元通りにしてくださることを意味しないのです。ただ失われたかつての生活が戻ってくるということを意味しません。神が望んでおられるのは廃墟が変わることではなくて、廃墟をもたらした人間が変わることなのです。恵みを踏みにじって生きてきた人間そのものが変わることなのです。神は廃墟を建て直すこと以上に、人間が変わることに関心を持っておられるのです。

 それゆえに主は言われるのです。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(25‐27節)。

 これが神の望んでおられることであり、行おうとしていたことなのです。ならばエゼキエルの言葉を聞く人々もまた、廃墟が建て直されること以上に、このことをこそ願い求めなくてはならないのでしょう。そのようにして、彼らは約束の地の上で、神の民として再び生きることができるのです。「お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」(28節)と書かれているとおりです。

聖霊降臨祭に向けて
 「早くコロナ禍が収束して、みんなが教会に集まれるようになりますように」。――現在、世界中の教会で口にされている祈りだと思います。そして、廃墟を建て直したもう神様は、再び礼拝堂に集まることができるようにしてくださるに違いありません。

 しかし、だからこそ、もっと大事なことがあるのだということをエゼキエル書から私たちは聞かなくてはならないのでしょう。神様にとって、礼拝堂に人が集まって聖餐を行えるようになること以上に重要なことは、恵みを踏みにじって生きてきた私たちそのものが変えられることであるはずなのです。そこにこそ真の回復はあると言えるのでしょう。私たちが何も変わらず以前のままで、ただ再び集まれるようになったとしても、それは聖書が語る回復とは何の関係もありません。

 「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」。また、「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」と、神様はそう言ってくださいました。そして、その神の御心は、長い時を経て、あのイエスの弟子たちの内にもはっきりと現された事実を、私たちは知らされているのです。キリストの復活から五〇日目。五旬祭の日の出来事でした。その日を記念して、私たちは毎年聖霊降臨祭を祝います。その日が今年も近づいてきました。

 散らされた姿で、私たちはレントの時を過ごしてきました。散らされた姿で復活祭を迎えました。今、聖霊降臨祭に向かおうとしている時、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と主は言われます。そのことが実現し、神によって新たにされた者として、神によって集められた者として、再び礼拝堂において礼拝を捧げられることを私たちは求めたいと思うのです。そして、教会が本当の意味で回復された姿を見ることを共に祈り求めたいと思うのです。
(祈り)

以前の記事