2025年1月19日 主日礼拝説教
聖書:エゼキエル書 2:9-3:4
人の子よ
今日は第一朗読においてエゼキエル書が読まれました。エゼキエルとは、今からおよそ2600年前に神の言葉を人々に語った預言者です。この預言者エゼキエルについて語るには、その背景として、一つの国家の滅亡について語らなくてはなりません。紀元前586年、エルサレムは時の超大国バビロニアによって陥落せられ、ユダの王国は滅びました。そして、国家の滅亡に前後して、ユダの王家をはじめ、国の主だった人々は遠くバビロンへと捕らえ移されていきました。世界史において「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事です。そして、その捕らえ移された人々の中にいたのが、このエゼキエルという預言者でした。彼は異国に捕囚となった人々に、神の言葉を語り伝えたのです。
今日朗読された箇所には、「わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか」(2:9)と書かれていました。そして、エゼキエルはこう語りかけられます。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」(3:1)。
「人の子よ」。彼はそのように語りかけられます。彼はこのエゼキエル書において、繰り返し「人の子よ」と語りかけられています。その最初は2章1節です。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」(2:1)。彼は神の御前にいるのです。彼は圧倒的な主の栄光の姿に触れ、その御前でひれ伏しているのです。ひれ伏すエゼキエルはいかなる意味においても神ではありません。神は神であり人は人なのです。いかなる人間であれ、本当の意味で神の御前に置かれるならば、顔を上げることすらできないのが人間です。そのようにひれ伏す彼に、「人の子よ」と主は語り掛けられるのです。
しかし、そこで主は「自分の足で立て」と言われるのです。遣わすためです。しかも、このように続きます。「彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた」(2:2)。「自分の足で立て」と言われた神は彼を立たせるのです。立ち上がらせたのは神御自身です。「霊がわたしの中に入り」とはそういうことです。そこに働いているのは神の力です。神の力によって立ち上がった彼は、神の力によって為すべきことがあるのです。
今日の箇所で「人の子よ」と語りかけられているのは、そのようなエゼキエルです。神の霊によって立ち上がらされたエゼキエルに巻物を差し出し、「これを食べよ」と神は言われます。それは神の言葉です。それはエゼキエルの神秘体験の中での出来事ですから、実際には何が起こったのかは分かりません。しかし、意味合いははっきりしています。確かに語るのは「人の子」であるエゼキエルです。あくまでも人間が語るのです。しかし、語られるのは神の言葉なのです。
イスラエルの家に語りなさい
この「イスラエルの家に語りなさい」という言葉が何を意味するかは、その前に書かれています。「人の子よ、自分の足で立て」と言われた主は、彼を立ち上がらせてさらにこう言われたのです。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている」(2:3)。今日の箇所の直前にもこう書かれていました。「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」(2:8)。
この日本という国は、今から79年前に敗戦を経験しました。私はその後に生まれましたから実際には経験していません。しかし、当時敗戦を経験した人でありましても、国家の滅亡は経験してはいません。一つの国家が滅亡し、異国に捕らえ移されるということが、どれほど悲惨である不幸な出来事であるかは、恐らく私たちの想像を絶することでしょう。しかし、神は彼らを「不幸で可哀想な人々」とは呼ばないのです。彼らを「わたしに逆らった反逆の民」と呼び、「反逆の家」と呼ぶのです。彼らは、神に背いてきた人々であり、今も背いている人々なのだ、というのです。
そして、実際そうなのです。私たちが旧約聖書に見るのは、彼らが神に逆らい、神に背き続けてきた歴史なのです。聖書に書き記されているのは、宗教的に装われたきれいごとではありません。そこに書かれているのは、生々しい、罪深い人間の現実です。神が言われることは正しいのです。彼らは神に背き続てきたのであり、背き続けている人々なのです。「反逆の家」です。
しかし、そこで驚くべきことが起こるのです。神が神であり、人が人でしかないならば、神は国家を滅ぼすだけでなく、人間そのものを滅ぼすこともできるのでしょう。しかし、神は御自分に背く人々を滅ぼそうとはしないのです。なんと神は、エゼキエルに巻物を食べさせて遣わされるのです。神の言葉を語りなさい、と。そのようにして神はなおも、自分に背く人間に語りかけようとされるのです。
考えてみてください。言葉というものは、権力や武力とは異なります。言葉は、受け入れることも拒絶することもできるのです。力をもって臨めばいかに反逆の家といえども受け入れるしかないでしょう。しかし、言葉なら拒絶することができるのです。そして、それも主は分かっているのです。「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ」(2:7)と。
このように、かつてイスラエルに現れたエゼキエルのような「預言者」という存在が示しているのは、神に逆らう者になお語り続ける神の姿です。背く者に呼びかけ続ける神の姿なのです。神はなぜ語り続けるのでしょうか。人が神を離れて、神を失った者として、滅びて欲しくないからです。
「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」と命じられた主は、後にエゼキエルにこう語っています。「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる」(18:30‐32)。
「お前たちは立ち帰って、生きよ」。そう主は言われるのです。しかし、反逆の家が立ち帰るためには、反逆しきたことが明らかにされねばなりません。神に犯してきた罪が罪として明らかにされねばなりません。人が神に立ち帰るのは、神に背いている自分を本当の意味で悲しむ時です。彼らは祖国から捕らえ移され、捕囚となって、自らの不幸を悲しみ、呻き、嘆いたかもしれません。しかし、本当に必要なのは、自分の不幸を嘆くことではなく、自分の罪について悲しみ、呻き、嘆くことなのです。そうあってこそ、神に立ち帰ることができるからです。
腹には苦いが口には甘い
ですからエゼキエルはそのような神の言葉を語らねばなりません。それゆえに、エゼキエルに差し出された巻物については、こう書かれていたのです。「わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった」(9‐10節)。彼はそれを食べた。そこに書かれていたのは、人々の間に起こらなくてはならない、本当の意味での「哀歌と、呻きと、嘆き」だったのです。すなわちそれは、自らの罪に対する悲しみの歌と、呻きと、嘆きなのです。
捕囚となった人々をただ慰め、未来への希望を与え、「必ず祖国に帰れます」と励ますだけならば人々から喜ばれるでしょう。感謝されもするでしょう。しかし、エゼキエルが遣わされるのはそのためではありません。人が神に立ち帰るために遣わされるのです。そこで語られねばならないのは、必ずしも人の耳に心地良い言葉ではありません。それはしばしば苦い言葉でもあるのです。
本日読まれたヨハネの黙示録においても、ヨハネが巻物を食べたという話が出て来ました。それを差し出した天使がヨハネにこう言っています。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には密のように甘い」(ヨハネ10:9)。「腹には苦い」。エゼキエルが食べさせられた巻物もそうだったに違いありません。彼が語るべき言葉は、苦い言葉なのです。
しかし、エゼキエルにせよヨハネにせよ、それは「密のように甘かった」とも書かれているのです。エゼキエルにせよヨハネにせよ、彼らは分かっているのです。それは最終的に神の断罪の言葉ではなく、神の救いの言葉なのだということです。反逆の家をただちに滅ぼすのではなく、なおも語りかけようとしているのは神の愛なのだということです。
さて、エゼキエルが反逆の家に遣わされたこの物語が今日なおも読まれているのはなぜでしょうか。それはエゼキエルに巻物を食べさせ遣わされた神はまた、神に背いたこの世界にイエス・キリストを遣わされた神であるからです。
神は「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい」と神の言葉を食べさせました。しかし、神は最終的に神の言葉そのものをこの世界に送られたのです。それがキリストなのです。それは腹に苦い言葉でした。人間にとって苦い言葉でした。ですからこの世は神の言葉であるキリストを十字架にかけて殺したのです。
しかし、神はこのキリストを世の罪の贖いとし、キリストを復活させ、今もなお神の言葉なるキリストを教会を通して宣べ伝えさせておられるのです。そのように、神は今もなお反逆の家に、神に背いたこの世界に、語り続けておられるのです。「立ち帰って、生きよ」と。その恵みの言葉が私たちのところにも届きました。そして、私たちは確かにその恵みの中にいるのです。