ホセア書 4:1‐10
ホセア書4章から、この預言書の第二部に入ります。1章から3章までは、ホセアの結婚と家庭の事情を主題として一つのまとまりをなしていました。この4章以降の単元には、彼の公の活動における様々な預言が集められております。私たちは、これまで見てきましたホセアの預言活動の背景を念頭に置きつつ、語られている言葉に耳を傾けていきたいと思います。
「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもないからだ。呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、
野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される」(4:1‐3)。
私たちがここで耳にしますのは、主の告発の言葉です。その告発の内容は、あるべきものがなく、あるべきでないものがある、ということです。
そこに欠けているのは、まず第一に「誠実さ」です。「誠実さ」とは、しばしば「真実」と訳されます。その反対は偽りであり欺きです。真実が欠けているということは、偽りと欺きが満ちているということです。ホセアの約百数十年後、預言者エレミヤは、誠実さ、真実さを失った社会を、次のように表現しました。「彼らは舌を弓のように引き絞り、真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。彼らは悪から悪へと進み、わたしを知ろうとしない、と主は言われる。人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても、『押しのける者(ヤコブ)』であり、隣人はことごとく中傷して歩く。人はその隣人を惑わし、まことを語らない。舌に偽りを語ることを教え、疲れるまで悪事を働く。欺きに欺きを重ね、わたしを知ることを拒む、と主は言われる」(エレミヤ9:2‐5)。ホセアの時代に主が目にしていた社会もまた、そのようにもはや誰も互いに信用することができないような社会でした。これが、主が告発している真実の欠如です。
そして、聖書において、この真実、誠実という言葉としばしば対になって現れるのは「慈しみ」という言葉です。ヘブライ語では「ヘセド」と言います。この言葉は、神がどのような御方であるかということを表現する時に、しばしば用いられています。例えば、詩篇136編には「慈しみはとこしえに」という言葉が繰り返し歌われています。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。神の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。主の中の主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(詩篇136:1‐3)。このように、この言葉が神について用いられる時、それは神の変わらざる愛を意味します。
そして、そのような神によって、人と人との間においても求められているのが、このヘセドです。慈しみの関係です。それは単に好き嫌いの話ではありません。好き嫌いは気分や状況によって変わります。ヘセドはとは、気分や状況によって失われてしまわない愛を意味します。ヘセドを一番分かり易く表現しているのは、結婚式の誓約です。結婚式の時には、「健やかな時も病む時もこれを愛するか」と問われ、「はい」と応えて結婚が成立します。そこで求められているのは、このヘセドに他なりません。
このヘセドが失われた人間関係は悲惨です。心の欲するままに、感情の赴くままに生きること(「あなたの心に正直に!」という類)が賞賛される世界には、ヘセドは成り立ちません。一つのものが欠けると、他のものがそこを満たすようになります。ヘセドが成り立たない社会には、代わりに憎しみが満ちることになります。心の欲するままに生きようとする人と人との関係は、最終的に憎しみに支配されることになるからです。
それゆえ、主はその結果を「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている」(2節)と表現します。あるべきものがないと、あるべきでないものが支配することになるのです。そして、それは人間社会のことに留まりません。あるべきでないものが世界を支配する時、それは人間社会だけでなく、世界そのものを滅ぼすことになります。続いて3節に語られている通りです。地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃されることになるのです。実際、私たちは主の言葉の正しさを現代において目の当たりにしているのでしょう。
このような状態にある人々を、主は「神を知ることもない」と告発しています。先のエレミヤの預言にも繰り返されておりました。「彼らは悪から悪へと進み、わたしを知ろうとしない」と。しかし、このホセアの言葉は、これを耳にした人々にとっては実に意外であったに違いありません。なぜなら、彼らは決して、いわゆる不信心な人々ではなかったからです。聖所はいつでも人々の群れで賑わっておりました。経済的に豊かであったヤロブアムの時代、人々は喜んで讃美を歌い、多くの犠牲を捧げたのです。その頃、祭司の数も非常に増えました。彼らは皆、我々の国は主を知っている国である、と思っていたに違いありません。しかし、誠実さも慈しみも失われたその国は、「神を知ることもない」と告発されているのです。
彼らがどれほど祭儀に熱心であったとしても、どれほど多くの犠牲を捧げていたとしても、現実の生活において誠実さと慈しみを失っているということは、他ならぬ神との間にも誠実さと慈しみに基づく関係が失われていることを明らかに示しているのです。それゆえその国は、「神を知ることもない」と告発されているのです。
この激しい主の言葉に真っ先に反発したのは、他ならぬ神殿に仕える祭司たちであろうと思われます。そこで、主の言葉は祭司に向けられます。主の言葉によってその深い病巣がさらに明らかにされるのです。
「もはや告発するな、もはや争うな。お前の民は、祭司を告発する者のようだ。昼、お前はつまずき、夜、預言者もお前と共につまずく。こうして、わたしはお前の母を沈黙させる。わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる。お前が知識を退けたので、わたしもお前を退けて、もはや、わたしの祭司とはしない。お前が神の律法を忘れたので、わたしもお前の子らを忘れる」(4:4‐6)。
細かいことを申しますと、聖書協会訳は、最初の部分を若干読み替えて、「しかし、だれも争ってはならない、責めてはならない。祭司よ。わたしの争うのは、あなたと争うのだ」と訳しています。文脈から判断して、その方が良いと思います。これまでは、国の住民全体に語られてきました。しかし、問題は祭司にあるのです。主は宗教的な権威に対して、何が問題であるかを明らかにされるのです。また、「わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる」という表現は弱すぎるかも知れません。ここはもっと強く訳すなら、「知識がないためにわたしの民は滅ぼされる」と書かれているのです。
国は滅びることになります。それは知識がないためです。ここで言われている知識が、ただ神に関する知的な理解ではないことは、既に読んできたことから明らかです。それは本来の夫と妻の関係のごとくに神を「知る」ということです。しかし、国の住民が神を知らないのは、ただ彼らの責任ではありません。大きな責任は祭司にあります。国がそのような状態であるのは、祭司たちが神を知ることを拒んだからです。そのことは「お前が神の律法を忘れたので」と言い換えられています。律法を忘れるということは、神が何を求めておられるかを忘れるということです。神の愛と恵みに応えて生きるということがどういうことかを忘れるということです。
人が神の求めを忘れる時、神の求めに関心を失う時、人間の求めが中心的重要性を持つようになります。こうして、宗教は人間の欲望の投影に過ぎないものとなってゆくのです。豊かさを求めて豊穣の神バアルを拝むことと、真実と慈しみを求められる主を礼拝することが区別できなくなります。そこに主なる神との愛に基づいた人格的な関係など成り立ちようはずがありません。
それがどのようなことであるのか、私たちはその後に続く主の言葉によって知ることになります。
「彼らは勢いを増すにつれて、ますます、わたしに対して罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。彼らはわが民の贖罪の献げ物をむさぼり、民が罪を犯すのを当てにしている。祭司も民も同じようだ。わたしは、彼らを行いに従って罰し、悪行に従って報いる。 彼らは食べても飽き足りることなく、淫行にふけっても、子孫を増やすことができない。彼らは淫行を続け、主を捨て、聞き従おうとしなかったからだ」(4:7‐10)。
ここに見ますように、祭司にとっては、国の住民が真に神に心を向けるかどうかなど、どうでも良いことでした。神の恵みを伝え、その求め給うことが何であるかを伝え、民全体が神の恵みに真実に応答して生きるようになることには、全く関心がなかったのです。人々が求めていたのは、国家が平和であり、繁栄していることでしたし、祭司たちが求めていることもまた同じだったのです。人々の欲求が満たされ、さらにその繁栄の中から犠牲が継続的に捧げられ、そのことによって神殿を中心とした宗教的制度が守られ、祭司の立場と生活が支えられれば、それで良かったのです。
「彼らはわが民の贖罪の献げ物をむさぼり、民が罪を犯すのを当てにしている」とは、そのような祭司階級の状況に対する強烈な批判です。贖罪の献げ物の肉は祭司の取り分とされました(レビ6:18以下)。彼らの取り分が増えるなら、祭司は民が罪を犯すことさえ喜びとしているということです。このような言葉からも、聖所で捧げられる贖罪の献げ物が、そこにおいて執り行われる諸々の祭儀が、真の悔い改めとも、誠実さや慈しみとも結びついてはいないことが分かります。それゆえ、一方で贖罪の献げ物が捧げられながら、もう一方ではただ繁栄と豊作を願って神殿娼婦と交わるという性的儀礼が行われるということが起こってくるのです。宗教的な堕落の根は、まさにそのような神の律法も悔い改めも失った礼拝にこそあるのです。
そのようなことは何も旧約聖書の時代に限ったことではありません。ヨハネは教会に次のように書き送っています。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス:キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(1ヨハネ2:1‐4)。イエス・キリストによる永遠の贖罪の犠牲によって成り立つはずの教会の礼拝が、いつの間にかその意味を失ってバアル宗教のごとく人間の欲望の投影でしかないものとなってしまうことは、いつでも私たちの身近にある危険なのです。