2025年1月26日 主日礼拝説教
聖書:ローマの信徒への手紙 1:8-17 今日は、パウロがローマの教会に宛てた手紙をお読みしました。パウロはこの手紙を、恐らくギリシアの大きな港町であったコリントから書き送ったものと思われます。第3回目の伝道旅行の途上のことです。
パウロはいずれローマの教会を訪ねたいと考えていました。ローマの教会は、パウロの伝道を通して生み出された教会ではありません。それゆえ、ローマを訪れる前に手紙を書き送っておく必要を感じて、これを書いているのです。
今日お読みしました8節以下には、パウロがどのような意図をもってローマを訪問しようとしているかが記されております。パウロがローマを訪問するに当たって、まずその意図を正しく理解して欲しいと願っているのです。神の御前においては、働きの大きさではなく、そこにある意図や動機、その「心」が大事であることを知っているからです。それゆえに、これがローマの人たちに対しても明らかにされることを願っているのです。まかり間違っても、パウロが自らの勢力範囲を広げようとしてローマに行くかのように誤解して欲しくはありませんでした。パウロの計画の根底にあるものを正しく理解した上で、迎えて欲しいと願っていたのです。
神に感謝します
初めに8節以下を御覧ください。
「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(8‐10節)。
パウロはまずここで神に感謝を捧げます。ローマの人たちの「信仰が全世界に言い伝えられている」ことを感謝しているのです。彼らがいわゆる立派な信仰者であり、あるいは大きな働きをしているからではありません。ただローマにキリスト者がいると知られている――そのことを言っているのです。そして、それを神に感謝しているということは、このことが他ならぬ神御自身の業であると、パウロが理解していることを表しています。ローマに教会がある。その信仰が公に知られている教会がある。それが誰の手によって成ったか。パウロの働きによるのか、他の人によるのか、それはどうでも良いのです。彼にとって大事なのは、神の御業がそこに現れているという事実だったからです。
それゆえ、ローマ訪問についても、「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」と書いているのです。なんとしても行きたいという思いはあります。しかし、それは「神の御心によって」なのです。人間が何かを実現すること、達成することではなくて、あくまでも神の望んでおられることが、神の御業として実現することを願っているのです。
ですからパウロが「願っている」という時、それは9節にあるように「祈っている」ということに他ならないのです。単なる「願い」と神の御前における「祈り」とは異なります。パウロは神を証人に立てて、その意図を語ることができました。それは彼が常に祈っているからです。彼の全ての営みの背後に祈りがあるからです。
訪問の目的
そこで彼は神に祈り願っている訪問の目的を明らかにしていきます。11節以下を御覧ください。「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」(11‐12節)。
その第一の目的は、教会を力づけることにありました。パウロは彼ら一人一人が信仰者としてしっかり立てるように力づけたいのです。また教会としてもしっかり立ち得るように、彼らを助けたいのです。それが彼の祈りでした。
しかし、このことについても、パウロはあえて「“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて」と言っております。この「“霊”の賜物」が何を意味するのかは必ずしも明らかではありません。しかし、ここであえて「“霊”の」賜物と言っていることは重要です。「“霊”の」賜物ということは、神から来る賜物であるということです。
パウロは自分自身が優れた伝道者であり教師であるから、彼らを助け力づけられるとは思っていないのです。あくまでも、彼らに分け与えることができる最善のものは自分の内にある何かではなくて、神から来るものであるということを知っているのです。彼は神に用いられる器に過ぎない、神の恵みを運ぶ器に過ぎないことを知っているのです。
しかも、彼はすぐさま12節を続けます。パウロが彼らより上に立っている特別な人物であるかのように誤解されることを避けるためです。彼はここで、ただ一方的に何かを与えるというのではなく、「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」と言っているのです。パウロ自身も励まされることを願っている。そして、それは人間から出る何かによるのではなくて、互いの信仰によるのであり、神によるのだ、ということです。
本当に人を生かすものは罪ある人間の内からは出てきません。人は神から受けなければ分かち与えて人を真に生かすことは出来ないのです。教会におけるお互いにおいてもそうです。互いが信仰を励まし合うことができるとしたら、それは神からそれぞれが受けることなくしてあり得ない。だから私たちお互いが、真に信仰に生き、神と共に生きているということが大事になるのです。肉から出たものは肉に過ぎません。人間から出るものによって、肉から出るものによって、キリストの体なる教会も建て上げることは出来ません。繰り返します、私たち一人一人が信仰に生き、神との交わりの中において豊かに神から受けることなくして、キリストの教会が形作られることはないのです。
負債者として
さらにパウロのもう一つの目的は、ローマにおいて福音を宣べ伝え、伝道の実りを得ることでありました。すなわち、既にパウロが語っているように、「その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導く」ために、パウロはローマに向かおうとしていたのです。13節以下を御覧ください。
「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」(13‐15節)。
実際、多くの迫害と困難の中で様々な労苦を負いつつ数々の教会を生み出してきたパウロの働きには、ただただ驚嘆するばかりです。そして、彼は繰り返し命の危険に曝されながら、なおエルサレムに向かい、その後ローマにまで向かおうとしているのです。
しかし、パウロのそのような働きを、彼自身どのように考えていたかが、この手紙によく現れております。彼は「何か実りを得たいと望んで」ローマに向かおうとしています。ここに用いられているのは、農夫のイメージです。収穫を刈り入れる農夫です。そこには、確かに彼の働きがあるのだけれど、実りをもたらされるのは神御自身であるという理解があります。ローマの信徒たちの信仰について、パウロが神に感謝していたことを思い起こしてください。彼は神に用いられる一労働者として、ローマに向かおうとしているのです。
そして、それは「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任がある」からなのだ、と言うのです。「果たすべき責任がある」と訳されているのですが、実は、ここには直訳すると「わたしは負債者だ」という言葉が用いられているのです。パウロは自らを「負債者」と呼ぶのであります。つまり、彼がどれほど労苦を重ねたとしても、それは何一つ誇るべき事ではなくて、ただ返済しているだけなのだ、と言っているのです。彼が御言葉を宣べ伝えたからと言って、それは彼の誇りにはならないのです。彼は負債者だからです。
どうしてパウロは自らを負債者と呼ぶのでしょうか。それは、彼が恵みの内にいるために、どれほど大きな愛の犠牲が払われたかを知っているからです。それは第一義的には神の愛であり、神の犠牲です。パウロは、彼のために他ならぬ神の子が十字架において血を流されたことを知っているからです。そして、第二義的には、彼の現在は、人の愛と労苦に負っているということです。彼がその福音を聞くに至るまでに、他の多くのキリスト者たちの労苦があったことを知っているのです。パウロの回心に至るまでに、そしてパウロが伝道者となるに至るまでに、多くの人々の涙が流され、血が流されたことをも、パウロは知っているのです。
もとより、十字架の犠牲において、既に払いきれない負債です。ただ感謝をもって自らを捧げるしかないのです。そして、させていただけることを感謝をもって為すことしかできないのです。しかし、それは私たちも同じなのでしょう。どれだけ神のために、あるいは人のために労苦したところで、なんら誇るべきことは何一つない。私たちはただ感謝をもって、恩返しをしながら、福音を伝えていくのです。
そのように、私たちの為しえるところは、ただ感謝をもってその愛のいくばくかをお返しするところまでです。人間の救いに関わること、教会に関わること、私たちの間で真に起こっていること、また起こるべきことは神の御業です。ですから、私たちが信仰によって生きること、神と共にあることが重要になるのです。それゆえにパウロは言っているのです。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(16-17節)。