ガラテヤの信徒への手紙 6:14-18
誇りたいため
今日はパウロがガラテヤの教会に宛てた手紙の最後の部分をお読みしました。手紙の最後に至って、パウロはこう言っています。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(14節)。言い換えるならば、キリストの十字架こそがわたしの誇りだ、ということです。あくまでも「このわたしには」という話です。一般論ではありません。「すべての人がそうあるべきだ」という主張は、ここにはありません。
そのように、あくまでもパウロ自身の話なのですが、このような言葉に出会いますと、やはり私たち自身のことを考えざるを得なくなります。ではパウロではなく、「このわたしには」何が誇りなのだろう。何を誇りとして生きているのだろう。何によっても奪われない、最後まで失わない誇りとは何なのだろうか。今日、この箇所を共に読んでいる私たちには、改めてそのことが問われているようにも思います。
何を誇りとして生きているのか。実は、今日の聖書箇所の直前には、別の誇りに生きる人たちのことが書かれているのです。「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」(13節)。それに対して「しかし、このわたしには…」とパウロは語り初めているわけです。
「あなたがたにも割礼を望んでいます」。ガラテヤの信徒たちが割礼を受けることを望んでいる人たちがいました。その前には「あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」という言葉もあります。ガラテヤの信徒たちのほとんどはユダヤ人ではなかったと思われます。割礼を受けていない人たちです。異邦人がイエス・キリストの福音を聞いて信じてキリスト者となりました。その彼らに割礼を受けさせ、ユダヤ人にしようとしていた人たちがいたというのです。
彼らがガラテヤの信徒たちに割礼を受けさせようとしていたのは「誇りたいため」だと言います。自分たちが誇るために、彼らをユダヤ人にしようとしていた。もちろん「私たちが誇れるように、あなたがたは割礼を受けなさい」などと露骨に言う人はいないでしょう。彼らは「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた教師たちなのです。そうです、救われるために「割礼を受けなさい」と言っていたのです。
しかし、彼らは「あなたがたの肉について誇りたい」だけだとパウロは言うのです。パウロ自身はユダヤ人です。だから分かるのです。かつて彼もそのように生きていましたから。そうです、誇りたいのです。「誇りたい」というのは誰に対してですか。もちろん他の人間に対してです。どうして人に対して誇りたいのか。他の人間が自分をどのように見なすかが重要だからです。だから人に対して優位にあること、自分の価値あることを示したいのです。
紀元一世紀の頃のユダヤ教世界においては、異邦人への伝道が盛んに行われていたことが知られています。実際、ユダヤ教の世界に惹かれて会堂に出入りする異邦人は少なくありませんでした。会堂に出入りする異邦人は、「神を畏れる人たち」と呼ばれていました。その中にはローマの百人隊長であったコルネリウスのような人までいたことが伝えられています(使徒10:1)。
そのように異邦人が教えを乞い、会堂に出入りし、さらには割礼を受けてユダヤ人のコミュニティの一員になるということ――それはユダヤ人にとって、自分たちの優位性の証明でもあり、人間の内にある「誇りたい」という欲求を十分に満足させるものだったのです。
ガラテヤの異邦人キリスト者に割礼を受けさせようとしているユダヤ主義者たち。彼らはそうしている限り、同胞であるユダヤ人からの迫害を免れることができるでしょう。しかし、それだけではありません。パウロは彼らの内に、他のユダヤ人と同じ、「誇りたい」という動機があることを、パウロは知っていたのです。
そのように宗教的な世界にさえ、そのような「誇りたい」という思いがついてまわります。そのような「誇りたい」という思いは、繰り返しますが、常に人に対してです。人に対して誇りたいのは、人からどう見なされるかが重要だと思っているからです。人に対して優位にあること、自分の価値あることを示したいのです。
十字架こそが誇り
しかし、ここでパウロは言うのです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。そこでパウロはイエス・キリストを指し示すのです。しかも、惨めな、無残な、十字架にかかっている姿を指し示すのです。そして言うのです。この十字架こそわたしの誇りだ、と。
パウロが指し示す、イエス・キリストの十字架に目を向けてみましょう。そこには何が見えてくるでしょう。まず、そこに見えてくるのは神の正しい裁きです。神が正しく裁かれるとは、こういうことだということです。
十字架にかけられているキリスト。なぜキリストは十字架にかけられているのか。なぜそこで血を流し、苦しんでいるのか。なぜキリストは呪われた姿で死んだのか。聖書は言います。それは私たちの罪を代わりに負われたからだ、と。私たちに代わってキリストは死なれた。それは何を意味しますか。キリストが身代わりになってくださらなければ、そこにいるのはわたしであり、あなただということです。神が正しく裁かれるならば、十字架の上で呪われた者として滅びていくのは、わたしであり、あなただということです。
その意味において、私たちのつまらない誇りなどは、十字架の前では意味を全く失います。そこで向き合うことになるのは、私の全てをご存じであり、全てを見ておられる方だからです。何が本当に善なることであり、何が本当に悪であるのかを分かっておられる方だからです。その御方を前にして、自分自身を誰かに対して誇ったところで、そんな誇りなど、神の正しい裁きの前においては、簡単に吹っ飛んでしまうようなものでしょう。
わたしがしてきたこと、あなたがしてきたこと、それが神の御前で正しく裁かれるならば、本来いるべきところは十字架の上ではないか。――十字架が示しているのは、そういうことです。十字架の前に身を置くならば、神の正しい裁きの前に身を置くならば、人はもはや何も誇れなくなります。そこにおいては、どんな人であっても、ただの一人の罪人に過ぎないからです。
しかし、イエス・キリストの十字架をさらに見つめるならば、もう一つのものが見えてきます。正しい神の裁きの向こうに見えてくるのは神の愛に他ならないのです。そこに釘づけられているのは、わたしではないのです。あなたではないのです。そうではなくて、神の独り子なのです。その御方が十字架にかけられているのです。わたしの代わりとして、あなたの代わりとして。
キリストはただ「全人類のために」十字架にかかられたのではありません。パウロは、この同じ手紙の中で次のように語っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(2:20)。そうです、パウロは「全人類のために身を献げられた神の子」とは言わないのです。「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」と彼は言うのです。
そのように、イエス様は全人類のためではなくて、わたしの代わり、あなたの代わりになってくださったのです。言い換えるならば、わたしが救われるためには、あなたが救われるためには、独り子を十字架にかけても良い、御子を身代わりにしても良いと神は思われたということです。私たちが罪を赦されて、神の子として生きるようになるためには、どれほど大きな犠牲を払っても厭わない。そう神は思われたということです。それほどに私たちを価値ある存在として見てくださったということです。
だからこそ、イエス・キリストの十字架こそがわたしの誇りだとパウロは言うのです。人に対する誇りではありません。もはや人に誇る必要などないからです。人がどう見なすかは関係ないからです。そもそも、それが本来あるべき姿なのでしょう。人がどう扱うか、人が何を言うか、人がどう見なすかによって、自分の価値を決めさせてはならないのです。人間の価値は神が決めるのです。神が価値ある存在として見てくださったなら、人が何を言おうと、どう扱おうと関係ないのです。
ですからパウロはさらにこう続けるのです。「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。世はわたしに対しては死んだもの、わたしは世に対しては死んだもの。だから、世が何を言おうが、世がどう見なそうが、どう扱おうが関係ないのです。その意味で「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(12節)と語られている人々とは対極にいるのです。
実際、パウロは迫害の中にいるのです。世は彼を疫病のような人間と呼びました。世のクズのように扱い、お前などいないほうがよい、と言うのです。しかし、それで何が変わるわけでもありません。何も損なわれることはない。パウロにとっては十字架こそが誇りだからです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。
この言葉の前に、改めて問われています。私たちは何を誇りとして生きているのでしょう。人に対して一生懸命に誇りながらこれからも生きていくのでしょうか。人の言葉や扱いによって自分を値踏みしながら生きていくのでしょうか。私たちの内にある誇りは、最後まで失われずに残るものなのでしょうか。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」このパウロの言葉を前に、私たち自身について、よく考えたいと思うのです。