ローマの信徒への手紙 12:17-21
せめてあなたがたは
8月第一主日である今日は「平和主日」と呼ばれています。平和を祈り求める特別な礼拝の日として、今から61年前に制定されました。言うまでもないことですが、私たちがこのような日を特に定めて、平和を願い、平和を求めて祈るのは、国家的な規模においても、身近な人間関係においても、平和が失われているという現実があるからです。
そこで私たちが平和を願い、平和を祈るとき、私たちの脳裏に浮かんでくるのは、実際に平和を妨げている人々の存在かもしれません。今こうしている時にも、平和を破壊している人々の顔が浮かんでいるかもしれません。真っ先にプーチン顔を思い浮かべた人もいるのではないかと思います。そのような私たちが平和を願い、平和を祈る時、もしかしたら、私たちの願いと祈りは、[そのような《平和を壊す人》がいなくなるように」という祈りになるかもしれません。それが世の支配者であろうが、身の周りにいる人であろうが、「こういう人がいなくなりますように」と。
しかし、本日の第2朗読において、そのような私たちに与えられているのは、次のような御言葉でした。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(18節)。
「せめてあなたがたは」と言われているのです。まずは私たち自身なのです。平和を壊す誰かではなく、あるいは妨げる他の誰かではないのです。まずは私たち自身について考えなくてはならないのです。平和を願い、祈る私たち自身が、まず、すべての人と平和に生きようとしているのかどうか。そのことをまず自らに問わなくてはならない。それは私たちが日々接している人々との間における話です。あるいは今ここに集まっている教会の中での話です。
もちろん、そこで聖書は「できれば」と言うのです。それは難しいことを知っているからです。また、私たちはそのつもりでも、私たちの側からはどうにもならないことがあることも知っているからです。実際、この箇所の少し前には「あなたがたを迫害する者」(14節)ということも書かれています。迫害する者に対しては、どんなにこちら側としては「平和に暮らしたい」と思っていても、そうできないことはあるでしょう。
しかし、「できれば」という言葉はそのような消極的な側面のみにおいて語られるべきではありません。もう一方において、それは「できるかぎり」という意味でもあるのです。そうしようと思わなければ、そして、実際にやってみなければ、そして最善を尽くしてみなければ、聖書が「できれば」というその限界は見えてこないからです。ですから実際、「あなたがたは最善を尽くしなさい」と意訳している聖書もあるのです(New Living Translation)。
善をもって悪に勝ちなさい
それでは、どのように最善を尽くすのでしょう。こちら側からできる最善はなんでしょう。続けてこう書かれています。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(19節)。まずは自分で復讐しようとしないことです。仕返しをしようとしないということです。
しかし、聖書が語ることはそれに留まりません。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(20節)というのです。相手に対して復讐を放棄するだけでなく、むしろ積極的に善を行いなさいと言うのです。その目指すべきところは非常にシンプルに次のように表現されています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)。今日の説教題はここから取りました。
ここに至って、「すべての人と平和に暮らしなさい」と言われていたことの内容が見えてきます。さらに言うならば、私たちがすべての人のために平和を願い、平和を祈るということが何を意味するのかが見えてくるように思えるのです。
平和とは何でしょうか。平和を願い、平和を祈るとき、私たちは何を求めているのでしょう。それはただ争いのない状態でしょうか。戦いを回避することによって実現される状態でしょうか。いや、今日の箇所を読む限り、平和とはそのようなものではなさそうです。先にも見たように、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という言葉は、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」という言葉に行き着くのです。
「悪に勝ちなさい」ということは、そこには勝つか負けるかの戦いがあるということです。平和を願い、平和を祈るということは、戦いを極力回避することではありません。ある意味では戦いの中に入って行くということでもあるのです。しかし、それは人間相手の戦いではありません。そこに語られているように、悪そのものとの戦いです。悪そのものに打ち勝つための戦いです。
イエス様の戦いに加えられて
それはいかなる戦いでしょうか。「善をもって悪に勝つ」とはどういうことなのでしょうか。その戦いを、実際に身をもって見せてくださった方がおられます。イエス・キリストです。パウロがキリストを念頭に置いてこれを書いていることは明らかです。今日の朗読の少し前に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」という勧めがありますが、これはもともとイエス様が言っておられた言葉です。主は言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43‐44)。
最終的に重要なのは人間との戦いではないのです。悪そのものとの戦いなのです。どのようにして悪そのものと戦うのですか。どのようにして悪そのものを取り除くのでしょうか。悪を行う人間を取り除くことによってでしょうか。あるいは悪を行う人間を、支配することができたらよいのでしょうか。それで悪を取り除くことができるならば、こちらに必要なのは力です。より大きな力をもって、敵と戦ったらよいのです。完全に勝利するまで、人間相手の戦いを続けたらよいのです。
しかし、イエス様はそうは見ていませんでした。イエス様自身は、明らかに力を持っていました。超自然的な力を行使することができました。武装して捕らえにきた人々を、超自然的な力を行使して、滅ぼすことさえできたと思うのです。しかし、それにもかかわらず、イエス様は敵を滅ぼすどころか、御自分を守ることにさえ、御自分の力を用いようとはされませんでした。悪が取り除かれるとするならば、それは力によるのではないことをご存じだったからです。
悪が取り除かれるとするならば、それは人間の内に起こる悔い改めによるのです。人間がへりくだって神に立ち帰ることによるのです。そして、明らかなことは、人間の悔い改めは、人間との戦いによっては起こらないということです。相手を叩きのめしても、悔い改めは起こらないのです。相手を力づくで支配しても、悔い改めは起こらないのです。悔い改めが起こるとするならば、それは愛に出会った時なのです。
ですからイエス様は「敵を愛しなさい」と言われたのです。そして、本当の意味で敵を愛されたのはイエス様御自身なのです。その「敵」とは誰ですか。わたしでありあなたです。もしイエス様が私たちの内にある悪ではなく、私たち自身を憎まれたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。私たちの悪に対して、主がそのまま報いられたなら、私たちは既に滅ぼされているでしょう。私たちの内にある悪が明らかにされ、そのまま断罪されたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。
しかし、イエス様は私たちと戦うのではなく、私たちを愛してくださいました。私たちを滅ぼすのではなく、私たちのために十字架にかかってくださいました。イエス様御自身が、私たちの内にある悪と戦ってくださいました。私たちが形づくっているこの世界の悪と戦ってくださいました。主御自身が文字通り血みどろの戦いをしてくださったのです。悪を取り除くために。私たちの内に真の悔い改めが起こり、真の平和がもたらされるために。
そのようにイエス様によって愛され、赦された私たちです。その私たちが、今度はイエス様の戦いに加わるようにと招かれているのです。人間相手の戦いを繰り広げてきた私たちが、悪そのものとの戦いに加わるようにと招かれているのです。私たちは人間相手に憎しみをもって戦っていた時点で、既に悪に負けていたのです。そのような私たちが、本当の意味で悪そのものに勝つために、キリストによって立ち上がらせていただいたのです。
そのような戦いの中で私たちは語られているのです。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と。そして、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と。キリストの勝利に共にあずかるために!そのような私たちとして、今日は心を合わせて、真の平和を願い、真の平和を求めて祈りましょう。
2023年8月6日日曜日
「善をもって悪に勝ちなさい」
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