コリントの信徒への手紙一 1:1-9
「神は真実な方です」(9節)。そう書かれていました。「真実な方」であるとは「信頼に値する方」であるということです。後に10章においても同じ言葉を繰り返しています。パウロの神への信頼が良く表れている言葉です。私たちもまた、「神は真実な方です」と宣言し、神に信頼する姿をパウロと共有して、ここから歩み出したいと思います。
コリントにある神の教会へ
そこで、まずこの手紙の書き出しに目を向けましょう。「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(1‐3節)。
「神の教会へ」。――読み過ごしてしまいそうな小さな言葉ですが、ここに私たちはパウロの神に対する信頼を見ることができます。
「神の教会へ」。そう呼ばれているこの教会は、この手紙を読むと分かりますが、実に問題に満ちた教会でした。今日の聖書箇所の直後には既にこう書かれています。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)。要するに、皆、勝手なことを言い、仲たがいしていたわけです。
実際、その教会には内部における分裂がありました。性的な不道徳の問題がありました。教会の中に裁判沙汰までありました。偶像礼拝や間違った教えによる混乱もありました。これを書いているパウロとの関係も、決して良好ではありませんでした。そのような教会に対してパウロは「神の教会へ」と語りかけるのです。
「神の教会へ」という呼びかけが何を意味するのか、その後にこう書かれていました。「召されて聖なる者とされた人々へ」。パウロは問題だらけのコリントの教会を「召されて聖なる者とされた人々」として見ていたのです。「召されて」とは「呼ばれた」ということです。「教会」と訳されている言葉も、もともとは「呼び集められた者」という意味の言葉です。彼らが教会であるのはなぜか。彼らがそこにいるのはなぜか。彼らがふさわしい人々だからではありません。そこに愛に満ちた人々がいて慈しみに溢れた交わりがあるから教会なのではありません。神に召されて、神に呼ばれて、神に集められてそこにいるのです。だから「神の教会」なのです。
それゆえにパウロは彼らを「聖なる者とされた人々」と呼ぶのです。「聖なる者とされた」とは「神のものとされた」ということです。神がただ恵みによって受け入れて御自分のものとしてくださったのです。神御自身が御子を十字架にかけて、罪の贖いの犠牲となさって、その十字架のゆえに罪を赦して、受け入れてくださったのです。そのようにして、御自分のものとしてくださり、聖なる者としてくださったのです。
パウロはコリントの教会を「神の教会」と呼びます。彼らの問題について語る前に、まず彼らを「召されて聖なる者とされた人々」と呼ぶのです。それは召してくださった神への信頼によるのです。そして、これを読んでいる私たちもまた、同じように神への信頼によって自分を見、お互いを見、「召されて聖なる者とされた人々」として見ることが大事なのではないでしょうか。
既にしてくださったことに感謝して
さて、挨拶に続けて、パウロは次のように書いています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」(4‐7節)。
ここにも私たちはパウロの神に対する信頼を見ることができます。パウロは神への信頼をもって、神に感謝しているのです。しかも、一時だけではなく「いつもわたしの神に感謝しています」と言うのです。それはまず《人間がしていること》にではなく、《神がしてくださったこと》に目を向けているからです。彼らが神の恵みを受けたことについて感謝しているのです。
私たちが神への信頼をもって見るならば、確かに神が既にしてくださっていることがあるのです。既に与えてくださっているもの、既に始めてくださっていることがあるのです。私たちは往々にして神が既に与えてくださっている豊かなものに目を向けずに、欠けているところ、駄目なところにばかり目がいってしまうものです。そうすると、実に貧しく見えてくる。あれもない、これもない、と言うのです。そこから生まれるのは不平であり不満しかありません。しかし、神が既に与えてくださっている恵みに目を向けるならば、与えられているものの豊かさも見えてくる。そこから感謝も生まれてくるのです。
パウロはまずコリントの人たちが既に与えられている豊かさに目を向けます。「あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされているのです」と彼は言うのです。教会において語られる「あらゆる言葉」ということで考えられるのは、一つには《神を語る言葉》、すなわち宣教の言葉であり、もう一つには、《神に語る言葉》、すなわち祈りの言葉でしょう。「あらゆる知識」も同様に、神を知る知識ということでしょう。
そうです、コリントの教会は、既にイエス・キリストを通して神の恵みを知らされているのです。彼らは、神の恵みを語ることができるのです。また神の恵みに基づいて祈ることができるのです。それこそがまさに既に与えられている豊かさではありませんか。それがキリストの成し遂げてくださった罪の贖いによるものであるならば、キリストの命の価値と等しい豊かさを既に与えられていると言うこともできるのです。
いやそれだけではありません。「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けることがなく」と語られています。賜物においても豊かにされているのです。「賜物」が特に意味するのは主に仕えるための様々な能力です。後に「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(12:27)と語られていますが、その体の部分として働くための力です。手であるならば手として、足であるならば足として仕えるためのそれぞれ異なる力です。その賜物は既に欠けることなく与えられているのをパウロは見ているのです。
自分にせよ、他の誰かにせよ、できないことはいくらでもあるでしょう。「あれもできない、これもできない」と能力の欠けばかりに目を向ければ、いくらでも挙げることができるのでしょう。しかし、手は足にできることができなくても良いのです。足は手にできることができなくても良いのです。体の部分として自分が成すべきことについては、必要な力は既に豊かに与えられているのです。
そのように、パウロは欠けにではなく、既に与えられている豊かな恵みに目を向けて、神に感謝していたのでした。それは真実なる神への信頼によるのです。
これからしてくださることを信じて
そして、パウロはさらにこう続けます。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」(8節)。このように、パウロは既に神が与えてくださっているものに目を留めていただけではありません。神がこれからしてくださることにも信頼をもってその思いを向けるのです。
それにしても、「非のうちどころのない者にしてくださいます」という言葉には驚かされます。実際、これはまだ手紙の冒頭なのであって、これから一つ一つの問題について心が重くなるようなことをパウロはその後にたくさん書かなくてはならないのです。そのことを考えると、よくもこんなことが言えたものだと思います。
しかし、本当は逆なのでしょう。「非のうちどころのない者にしてくださいます」と言えるからこそ、目の前に実際にある困難な現実、非のうちどころだらけの現実について語ることができるのです。投げ出さないで、忍耐強く向き合うことができるのです。これがあるからこそ、パウロはこの手紙の続きが書けたのです。
「主も最後まで…」とパウロは書きました。彼が考えているのは最後に至るまでのことです。そうです、最後に至るまでは全て途中経過なのです。現在をあくまでも途中経過として見ているのです。途中経過は不完全でもよいのです。完成に向かって進んでいるのなら、安心して不完全な途中経過に取り組むことができるのです。
主が既に与えてくださっているものがあります。主が既に始めていてくださることがあります。主が始めてくださったのなら、主が完成してくださるのです。パウロは、神がこれからしてくださることにも信頼をもってその思いを向けるのです。そして、彼は言います。「主は真実な方です」と。
「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(9節)。真実な御方が、私たちを主イエス・キリストとの交わりに招き入れてくださいました。真実な御方が、このように信仰生活が与えてくださいました。パウロに見てきたその信頼の姿を共有し、「神は真実な方です」と宣言して、信頼をもってここから歩み出しましょう。
(祈り)
2023年1月22日日曜日
「神は真実な方です」
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